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悪いことばかり考える [雑感]

悪い事ばかり考える人というのがいる。

「悪いこと」を考える人は行動を起こすことをためらう。

そして「悪いこと」を避けるための理由を並べて、「計画を中断する」「行動しない」「コミットしない」「逃げる」という選択をする。

ところがそうやって「何もしないことを積極的に選ぶ」と、なぜか何もしてないにもかかわらず「安堵」の気持ちが訪れる。

それどころか、むしろその「安堵」のせいで「何かを得た」ような気分になる。

これはおかしな話だ。

実質「0」なのに気持ちだけが「バーチャルなプラス」になっている。

まるで自分で作り出したマイナスの気分にマイナスの行動を乗算したから「プラスになった」みたいな充実感だ。

こういった「観念論」が人々の心を支配している理由は、みなが「お金」とか「経済」に基づいた労働と消費の世界に生きているからで、そこで醸成されるこの観念は「心理学」よりはむしろ「金融工学」として解明されると思う。

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逆に「良いこと」について考えてみよう。

「良いこと」は「現実的なプラス」で、自分の目の前に結果が残り、それを他人も共有できる状態を言う。

だからそれを現実のものとするためには行動を起こしコミットし、その観念を物質として客体化する以外にない。

そのためには自分の頭の中の「観念」から外に出て、予測できない不確定性のカオスである「世界」を相手にしなければならない。

「説得力のある企画」とか「他人との交渉」とか「うんざりする単純労働」とか「ねじ伏せなければならない物理法則」とか。

だからほぼ必然的に「失敗」を含む。

つまり行動する過程のどこかで必ず「失敗=悪いこと=マイナス」を生じさせてしまう。

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人は根本的に「良いこと」を欲する。「良いこと」というのはうれしいことであり悦ばしいことであり快活で自分の生を肯定する観念だ。

にもかかわらず、その「良いこと」を現実化しようと努力すると必ず「失敗」が起きるから、それが「悪いこと」として思い描かれる。

だから「悪いこと」は「良いこと」の派生物として生じる。

しかもプラスになるよりはマイナスになる確率の方が高い。

「想像」や「観念」は自分の頭の中で閉じた「確定性」を相手にできるけど、「行動」は世界という「不確定性」を相手にしながらなおかつその取り組みを「続けなければいけない」からだ。

頭の中で一瞬で作り出せる「成功」も、現実の行動においては辛い努力の果てにしかやってこない。

だから「始めることは簡単」であり「成し遂げることは困難」だ。

努力をしても徒労に終わるかもしれないと思えば人は「ひるむ」。

ひるんでびびって「失敗したくない」と思う。「良いこと」を望めば望むほど、それが高ければ高いプラスであればあるほど、逆にコテンパンに打ちのめされるドン底のマイナスを作り出してしまうかもしれないから恐くなる。

恐くなるから逃げたくなる。

そこで「悪いこと」だけを考える。「悪いこと」が巨大であればあるほど、それが乗り越え難く目の前に立ちふさがれば立ちふさがるほど、自分がそこに「挑戦しない理由」をより確固たるものにすることができる。

「俺は誰にも負けない善い行いを為そうと欲しているのに、世界は絶望的に無理解でその善を踏みにじる」

「俺がツイていないのは世界のせいだ」

「世の中が悪い」

そう言ってしまいには「世界を悪」に仕立て上げる。

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もはや「世界は悪」なのだから、自分がどんなに「良いこと=プラス」を実現しようとしてもマイナスにしかならない。

それなら「何もしない」方がマシだ。

「0」の方がいい。

現状維持だ。

良かった。少なくとも俺は失わずに済んだ。

このまるでマッチポンプみたいに脳内で生成される「安堵感」。

ヴァーチャルな「お得感」。

こういう「錯覚」を作り出す人間は「努力」を恐れ、翻ってそれをバカにするようになる。

本当は努力する他人に対して「おまえがやっている努力はムダだ」と小馬鹿にしたいのだが、それを言ってしまうと自分が作り出した「錯覚」も、それによってひた隠しにする自分の「みじめさ」も露になってしまうから嘘をつく。

つまり「自尊心」のために「物事の悪い面」だけを強調するのだ。

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人間は「良いこと=プラス」を欲するが、現実の「悪いこと=マイナス」の総量は必ずそれを上回る。

(自然は無慈悲で善も悪も持たないから、人間の観念上にある『良いこと』は常に裏切られる)

だから「悪いこと」の方がより多く現実化し、「悪いこと」ばかり考えている人の方が「よく当たる」。

「人は死ぬ」と言えばそれは100%正しく、同様にいつか必ず「世界は滅びる」。

つまり「悪いことばかり考える人」は必然的にいつも正しい。

ところがその「正しさ」と引き換えに「努力とその中に生じる悦び」を放棄する。

資本主義という悪魔が人間のエゴにかけた「呪い」のせいで、彼は「生きる悦び」よりも「己の正しさ」を証明することにその人生をかける。



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自閉症スペクトラム [育児]

以前「心の中のエコノミー」という記事で「発達障害」と呼ばれるものについて書いた。もう少し考えてみる。

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日曜日、遅い朝食を食べていたら子供の友達が遊びに来た。

「ご飯食べてるからちょっと待ってて」と言ったのだが、うちの子は待ち切れない感じで席を立って遊ぼうとする。

「ほら、ご飯終わってからだよ」と諭して食べさせた。

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だいたいうちの子は「あ、そうだ!」と思いついたことがあれば食事中でもよく席を立つ。例えば「あの絵本に何て書いてあったっけ?」と絵本見たり、外で何か音がすれば「あれ何?」と見に行ったり。

「食事中は席立たないよ」と一応言うが、そういってる親だって醤油取りに行ったり携帯メール気にしたり時々「席を立つ」ことはあるのだ。

これは食事に限ったことではない。料理したり仕事したり掃除したりしてる時でも「あ、そう言えば、、、」と「思いついて中断する」ことは多々ある。

むしろ例えば「今日ゴミの日だからゴミ先に出しておこう」なんて言う時は、忘れないうちに「料理の途中でゴミ出しする」なんてことだってあるだろうし、「ゴミ出し忘れるよりは思いついた時にすぐやった方がいい」という場合もある。

大人はそういう「プライオリティー」を経験や計画を通じて決定できる。

つまり「いつもはやっちゃだめだけど今は特別やってもいい」みたいな「例外」を自分で決めることがある。

子供はこういうことができない。思いついたら食事そっちのけで遊んでしまったりする。

そして「もう食べない」と途中で食べるの止めたくせに、散々遊んだ後で「お腹空いた」と言ったりする。

だから「食べる時にきちんと食べる」「食事中は食事に集中する」ということは必要だし、それをやらずに放っておいて思いついたことを思いついたままにやってはいけないという「自己規制」を学ぶことは大切だと思う。

ここで問題となるのは「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」ということなのだが、多くの親はそこで「しつけ」と称して「思いついたことをやってはいけない」と命令してしまう。

「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」
「思いついたことをやってはいけない」

この二つの間には「主体的判断」と「命令に従う」という違いがあり、その間の溝はおそろしく深いが、その「溝の深さ」に無自覚な親がたくさんいるのは、自分が「命令されて育ってきた」せいだと思う。

ご飯の途中で席を立つ子供は「多動ではない」。

それが多動なら「子供は全員多動」なのだが、親自身が「しつけの呪縛」にがんじがらめになっているからその「多動」が気になって気になって仕方がない。

「子供だもん、そりゃ動きたいよな」と平然とできない。

「なんでこの子は動いてばかりいるのだろう?」と悩んでしまう。

「厳しさ」が足りないのか?と思ってさらに「しつけ」はエスカレートして、いつの間にか親の「怒り」は容認され、時には「引っぱたく」ことさえも許容されるようになる。

実際僕の周りの家族でも「食事の時は『絶対』最後まで食べさせる」とか「出したもの食べなかったら食事を抜く」とか当たり前のようにやっている親もいる。

それ「ソフトな虐待」でしょう、と思うのだが。

ところがそれでも「嫌なものは嫌!」という「こだわり」を見せる子供たちがいて、そういった子たちが早急に「自閉症スペクトラム」という「障害」に認定され、親子共々「訓育」されようとしている。

もちろん「本当にADHDである」「本当にアスペルガーである」「本当に自閉症である」という場合があるから、子供の様子を見てそこは親が見極めるしかないのは事実だが、「自閉症スペクトラム」という概念にはその「悩む親」を精神医学という権威に従属させて、やがて「反抗分子」となりそうな人間が持つ強い独立性の「芽」を早期に摘み取って、資本主義システムに機械的に「適応」させるためのプログラム的意味合いがある(と僕は思っている)。

子供があっち行ったりこっち行ったりするのはその「並外れた好奇心」のせいだが、その「好奇心」こそが権力にとって面倒な「批判力」の原点なのだ。

だからそこを早いうちに潰しておきたい。

「精神科」という権力装置に縛り付けることで「治療費」を巻き上げ、親の思考と財布から二十三重に「搾取」する。子供の脳みそにレッテルを貼って従順な「畜群」を効率的に作り出す。

植民地はもはや地理的な侵略を意味せず、その「軍事作戦」は人間の心へと展開している。

「支配」されようとしているのは目に見える環境ではなく、人間の不可視の内面だ。

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発達障害には生得的気質に由来する「先天的なもの」と、親のしつけや環境から後天的に生じる「二次障害」がある。もちろんそれが併発する場合もあるだろうし、仮に先天的なものがあっても生育がうまく行けば二次障害は防げる可能性もある。

ここで僕が問題にしているのは「二次障害」の方で、それは将来的には「鬱病」「統合失調症」「解離性障害」はては「人格障害」の原因となる。

ではその「二次障害」の原因はどこにあるのか?

それは「子供」にあるのか?

否。「なんでこの子は、、、」と悩んでしまう親にあるのだと思う。

その親がなぜ「悩む」のか?なぜ子供の多動が「気になって気になって仕方ない」のか?

それは「自分がよい親として認められたいから」だろう。

一体「誰」に認められたいのか?

それが「システム」なのだ。

親が欲しているのは「子供の健全な成長」ではなく、むしろその成長をネタにした「親自身の社会的認証」である。

だから、子供の「多動」のせいでその認証を疎外されそうな親が、「病院」という「権威」に連れて行くことで「この子は自閉症スペクトラムです」という「お墨付き」をもらい、「私のせいではない」と「安堵したい」と思っている。

つまり

「この子が多動なのは『親のせい』ではなく『病気のせい』なのだ」
「この子が出来が悪いのは『親のせい』ではなく『脳機能障害』なのだ」

と思うことで「自分という原因」から目をそらし、それを「子供」へ押し付けて、日々自分を苛む子育ての苦痛を取り除く。

自分は「正しい」と証明して「早く楽に」なりたいから病院に駆け込むのだ。

ここにはぐちゃぐちゃに入り組んだ資本主義システムと人間心理の「倒錯した欲望」の依存関係がある。

ずっと子供は「動きまくっていた」し、そんなもの「元気だなー」で片付けられて来た。

動き回る子供は周囲の大人や兄妹のやっていることを「見よう見まね」で模倣して「だんだん自分一人でできるように」なった。

そういう親密なコミュニティー環境に欠けた「核家族的密室」で「精神の病」を真っ先にわずらうのは、「子育ての責任」を一手に引き受けてきた「母親」だろう。

それはかつては差別的に「ヒステリー」、今ならさしずめ「育児ノイローゼ」と呼ばれ、日本に限らず「近代国家」の中で必然的に生じてきた「ひずみ」である。

その「ゆがみ」が子供にも「しつけ」を通じて受け継がれる。

ずっと放ったらかしにされてきたその「ゆがみ」を、今度は「精神科のお医者さん」が矯正してあげましょうと忍び寄って来て、金づるにしようとする。

薬漬けにして儲ける現代医療が心にも施され、現代人は「家族という牢獄」から順次「社会という監獄」に収監される。

日本だろうが欧米だろうが関係ない。

近代と資本主義は「人間を畜群にするため」に、その最小単位の洗脳装置として「家族という神話」をでっち上げた来たのだ。

ここでゴードン先生の言葉を思い出してみよう。

「間違っているのはいつだって親であり、子供は常に正しい」

そうではないか?

「何をバカな、、、」とこの命題に強烈な違和感を覚える親は、一度「自分の心の病」について考えた方がいいだろう。






子供を助けない人 [育児]

人生うまく行くことばかりじゃないから、たまには愚痴を言いたくなる時もある。

仕事で失敗をした。わざわざ足を運んだ店が休業日だった。雨の日に車で水をかけられた。お金を落とした。

悪いことは重なったりするから友人や家族を相手に「本当にもううんざりだよ」と嘆く。

みんな同情してくれるだろう。「それは大変だったね。まあ今日は酒でも飲んで忘れなよ」とか。

だけど「ものすごく仕事のできる人」がやって来て、

「なんでそんな失敗する?この間もやり方教えたよね?定休日なんて前もって調べるでしょう?水たまりの横ぼーっと歩いてたから水かけられたんでしょう?金なんて落とすなよー、ただの不注意でしょう?いつも言ってるよね?」

とか言って来たらどうする?

それも繰り返し繰り返し。

この「ものすごく仕事のできる人」というのが、子供に対する「親」だ。

そりゃそうだろう。親は子供の何十倍も歳とってて仕事なんてできるに決まってるのだ。

それが子供という「仕事のできない不注意で失敗ばかりしてる人」を見つけて、

ぐうの音も出ないほど「コテンパンに」やっつけるのが、いわゆる「しつけ」と呼ばれているやつだ。

自分だって同じ「仕事で失敗して不運続きの人」みたいなものだから、それなら同情して

「大変だったな。まあ気にするな。ゆっくり休みな」

とか言ってあげればいいのに、まるで「自分がやられたから誰かにやらずにはいられない」みたいに子供を標的にする。

いや、大人だったら「愚痴」を言えるからまだいい。

子供はそれがうまく言えないから「これ食べたくない!」とか別なところで発散しているのに、

それをガチで捉えて「なんだ!その言い方は!」とかやられたら、

子供は何も言えずにただただ耐え忍ぶしかなくなる。

「おまえさあ、、何回言ったら仕事できるようになる?」

と上司からグダグダ説教され続けたら鬱病になるだろう。

それと同じ気持ちに子供がなっているのがなぜ分からないのだろう?

子供は同じ人間で、大人と同じ「心」を持っているのに、「特別打たれ強い」とか「何も気にしない」とか「ぼーっとしてるだけ」とでも思っているのだろうか?

事実は全く逆で「大人以上に打たれ弱く細かい言葉のニュアンスに一喜一憂し深く考え続けている」のに。

そうやって心の根っこが形成され、それが一生の思考の土台になるというのに。

きっと親自身がそうやって説教されて育てられ、学校でも会社でも説教されて来たから、今度は家庭で「弱者」を見つけてそれに八つ当たりするのだろう。

そんなイライラした親にとって「しつけ」はただの免罪符なのだ。

子供は道に迷って途方にくれて泣いているのに、

「だから道に迷うなって言っただろう?泣けばいいってもんじゃない!」

と突き放す。

「困っている人は助けて上げなさい」とか言いながら、

「困っている我が子は助けない」

一体どこからそんな都合のいい自分中心の「ルール」が生まれてくるのだろう?

親にもし「免許」が必要なら、大抵の親が一斉に「免停」になるんじゃないだろうか?




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普通であることの罪 [雑感]

今日車のワンセグで芸人とクリエイター3人の対談というのをたまたま見た。

現代社会で「クリエイターと呼ばれる人間」になるためにはいかに「病んでいなければならないか?」が分かって興味深かった。

各種業界の中に「クリエイター」のステレオタイプがあって、その「型」に知らず知らずにはまっていく人間が社会的に「クリエイター」や「アーティスト」と呼ばれる「居場所」を見つける。

二人の話を総合するとこんな感じになる。

「根底のところで人を信頼していない。根底に『絶望』と『破滅願望』がある。学生時代、いわゆる青春時代に『何もなかった』。人はそこで恋愛したりケンカしたりして『大人になる』と思うが、それができなかった。

だから今その『青春』を取り戻そうとしている。だけどいつまで経っても『お腹いっぱいにならない』。『青春ゾンビ』なんです。

あらゆる『ウケる創作物』『流行もの』は『あるあるネタ』だから、それを作ろうとしている。

他人と一緒に住むなんてできないから一人でいる。人が家にいることに耐えられない。なぜならその人に対して『コスプレ』(演技)をしなきゃいけないから。

電話もかけられない。なぜなら相手が何かやっていてその『邪魔をする』のではないか?と思うから」

そしてこう結ぶ。

「基本的に自意識過剰なんです」

そこで芸人が「だけど、それが創作の源になるんですよね?」と聞く。

クリエイターが言う。

「社会性を取るか創作を取るか?ってことだから、担当者は逆に『電話なんかしなくていい』って言うと思う。だけど『両方できる』ってのが一番すごいじゃないですか?」

するとその芸人が答える。

「僕は両方やってるつもりですけどね。『ちゃんとした』人間ですから。これでも『常識人』だと思ってるので」

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「鏡地獄」みたいにねじれまくったこの現代社会における、「普通」と「創造性」の大変興味深い「対比」がある。

この「クリエイター」たちは典型的な「アダルト・チルドレン」で、それがつまり「業界」にとっては理想的な「生産者」として重宝される。

(彼らは主体的に『創造』してるのではなく、需要に基づいた『あるあるネタ』を『生産』している)

だから、彼らは「チルドレン」のまま「社会的自己実現」をある意味果たしたのだから、現代の幸福基準で言えば「幸せ」なんだと思うし、実際そういう「幸せ」を目指す人間がうじゃうじゃいるだろう。

彼らは基本的に「親」や「社会」を恨んでいて、自分の不幸を「そのせい」にしている。

その「恨み」は「自己嫌悪」へと向かい、それがまた反転して表裏一体となった「自意識過剰」を生み出す。

その自己同一性のアンバランスさこそが「アイデンティティー」となるともう取り除くことはできないから、それゆえ「常識」を身につけることに抵抗する。

「常識的になること」「普通に生きること」を選択した時、「チルドレン」はもっとも許し難い「普通の人間」に堕してしまう。

それは何よりも苦痛で「自己嫌悪」を増幅することにしかならない。

だからこの人たちは「クリエイター」になれて良かったと思うし、現代人の多くは潜在的に「クリエイター」になりたいんだと思う。

そうすれば「チルドレンのまま」でいられるから。

しかし「クリエイター」になんかなかなかなれないし、「日常」や「常識」に無理矢理封じ込められる人間がほとんどなのだ。

そこで潜在的に「子供じみた表現欲求」が抑圧される。

だから家庭内暴力や子供への虐待はそんな人間にとっての「クリエイション」となる。

親からも学校からもメディアからも「すごい人間になれ。すごい人間にならなければ生きる価値がない」と吹聴し続けられたところの「転倒」がそこにある。

その人たちにとって「普通」であることは「罪」なのだ。









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原発と憲法 [雑感]

「憲法とは権力を持たない『主権者・国民』が、権力担当者すなわち政治家や公務員という、本来的に『不完全な人間』に課した制約です」と今回の安保法案について違憲判断をした憲法学者の一人が語った記事をネットで見た。

「憲法は国家に対する命令」という言葉を思い出したが、ハッとさせられたのは「人間という不完全な存在」という部分だ。

それで全く関係ないが「原発という不完全な存在」ということを考えた。

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原発を「規制」するのは、その安全性を「完全」にするためだ。ところが地震や津波といった自然災害は人智を超えた破壊力を持つから、それゆえそれらに対する防御には「不完全さ」がある。

「不完全」であるならそれは稼働できない。ゆえにその「不完全さ」を「想定外」「予見不可能」つまり「想定する必要がないものにして」取り除くことによって、擬似的に「完全です」と言い張ることでしか「稼働」は可能とはならない。

もしそこに「不完全さ」があれば、それは「規制」とか「法案」に照らせば、論理学的には「稼働してはいけない」ということになる。

その完全性が虚像で、推進する側にとってさえも原子力は「夢想」であったがゆえに、彼らの無意識へと抑え付けられた良心の呵責は「夢のエネルギー」という呼称の中に本心としてうっかり表出してしまった。

そこで憲法について考える。

「人間は不完全だ」ということは、人間は「もしかしたら」あるいは「必ず」間違いや罪を犯す、ということだろう。

だからまずその『罪』を犯してはいけない、という原則を作るからそれが憲法になる。

「人間は不完全だから罪を犯すゆえに罪を犯してはいけない」

これは何か語義矛盾しているように思えるが、前半で「不完全さ」を認め、後半で目指すべき「理念」について語っているわけだ。

つまり「憲法」は一つの「理念」であり、論理学的な厳密さで明文化された人が目指すべき「理想」なんだと思う。

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福島原発事故後の原発の安全基準を巡る議論の中で、「事故は起きるという前提で」ということをICRPら推進派が言い始めた。

最初は「想定外」として「危険性」をひた隠しにし「絶対事故は起きません」と「嘘で塗固めた理念」でだまくらかして来たのだが、原発が爆発して放射能をまき散らした後になったら「ぶっちゃけ危険だから。俺、知ってたから」と開き直り「だから事故起きるよ。そのうちまた、絶対、悪いけど。その時はまたみんなで我慢して手伝ってよ」と民間人に自助努力を求める。

もちろん現実的に本質的に「不完全」だったわけだから、事故後の言い分から取り払われようとしてるのはこの「理念」の部分だ。

こういう話をこの「憲法」の話と繋げてみる。

すると原発問題も憲法問題も、巧妙な形で人々の心理に対して「偽装」していることが分かる。

「人間は不完全だから罪を犯す。だから罪を犯してはいけないという法律を作る」
「原発は不完全だから事故を起こす。だから事故を起こしてはいけないという法律を作る」

こうして二つの言い方を並べてみると、何か似たようなことを言っているようにも見える。

しかし決定的に異なるのは、法律によって規制を受ける対象が「人間」と「機械」であるという点だ。

人は「理念」に従うことができるが、機械は「理念」には従わない。

だから機械に求められるのは、設計上の「完全さ」なのに、なぜか「法律」によって「不完全な原発」が「より安全になる」かのようなニュアンスが作り出されている。

○「不完全な人間が憲法という理念によって完全さを目指す」
×「不完全な原発が規制という理念によって完全さを目指す」

原発が「理念によって完全さを目指す」って何だ? この時原発は「まるで人間のように」扱われている。

そして改憲派は「憲法九条は理想であり現実にそぐわない」と言う。

この時、社会や人間は一つの機械のように「効率性」や「生産性」や「経済性」をひたすらに追求し、その駆動メカニズムから無駄を取り除いてコスト削減すればするほど、それはまるで「永久機関」みたいに「設計上」の「完全さ」に近づけることができるかのような話になる。

今度はこうだ。

×「不完全な人間が経済というメカニズムに従ってより効率性を向上させる」
○「不完全な原発が設計というメカニズムに従ってより安全性を向上させる」

そしてこの二つの文言をシャッフルし、権力に都合のいいようなメッセージを作文する。

×「不完全な人間が経済というメカニズムに従ってより効率性を向上させる」
×「不完全な原発が規制という理念によって完全さを目指す」

改憲には「人間」が邪魔で、原発稼働には「機械」が邪魔だから、

「人間は機械のように、原発は人間のように」扱うのである。

こういった詭弁が可能となるのは、その対象が「人間の心理」であるからで、その「心理攻撃」に対して主体性の希薄な日本人は実に脆弱だと思う。

現政権はその「弱さ」を巧みに利用しているようにも見えるし、それは国民と国家の関係と言うより「消費者」と「広告代理店」の関係に近い。

広告プランナーは「虚」と「実」を巧妙に入れ替えて消費者心理を操作することで「浪費」と「搾取」の片棒を担ぐ。

その術中にはまらないためには創造的リテラシーが必要だ。

原子力は物理の問題であるがゆえに「夢のエネルギー」というコピーは物質にとって「虚像」となる。

憲法は倫理の問題であるがゆえに「夢の憲法」というコピーは精神にとって「実像」となる。


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ダブル・バインド覚え書き [育児]

今朝妻と車で一緒に出かけることにしたので、妻が洗濯物を終わるまでパソコンで仕事しながら待っていた。

「そろそろ行く」と言いながら妻は一度外に出た。

僕はトイレに入った。

そうしたら妻が玄関から「あれ?どこ?どこ行ったの?」と言っている。

僕はトイレの中にいるから返事をしなかった。居間に30秒ぐらい前までいた人間が「いない」とすれば「トイレ」か「洗面所」ぐらいしかない。それぐらい分かるだろう、と。

僕が部屋に戻ると玄関から入って来た妻が「どこ行ってたの?」と聞く。

「え?どこって、、、トイレだけど」

「何で返事しないの?」

「え?何でトイレから返事する?」

「、、、」(返事ぐらいしてくれたっていいでしょう?という感じの沈黙)

「じゃあ何で呼んだの?」

「え?いや、、、ただ呼んだだけ」

「じゃあ別に返事しなくてもいいじゃん。何で『返事しなかった俺』を責める?」

「、、、」(納得いかなさそう)

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妻がなんで「納得いかない」のか謎なのだが、説明すると訳分からなくなるのでここに書き記す。

立場を逆にして考えてみる。

さっきまでテーブルについていた妻がいないなら僕は「ああトイレか洗面所だな」と思う。だから用事がなければ声をかけないと思う。

だけど、もしかしたら何か聞こうと思って「おーい、あれ?どこ?」みたいに言う可能性もある。

だけど、そこで僕は「あ、いないのか。トイレ?まあいいや。後で聞こう」みたいに思う。

それで妻が部屋に戻って来たら「あのさ」と話をする。

つまり「返事しようがしまいがどっちでもいい」と思う。

「返事しなければならない」としたら、それは「急用」の場合だと思う。

「早く出かけなきゃ」とか「ゴミ収集車来たからゴミ出して!」とかすぐに伝達しなきゃならないことがあれば、返事がない場合「ねえ?どうしたの?どこ?いるの?」みたいに繰り返し聞くと思う。

だから、僕はトイレの中にいて、妻の「どこ?」という声を聞いた時、「ああ、何か用事あるのかな」と一瞬思ったけど「即答」はしない。

意識はしてないけど「もし急用なら繰り返し呼ぶはずだ」と思って「とりあえず黙ってた」んだと思う。

そしてそのまま結局呼ばれなかったから「ああ、たいしたことじゃなかったんだな」と思ってそのまま忘れてしまった。

部屋に戻った時「どこ行ってたの?」と聞かれることも別におかしくないと思う。

僕は聞かないけど、聞かれたら「トイレ」と答えるし実際そう答えている。

だけどそこで「何で返事しなかった?」と言われると訳分からなくなる。

そこで僕はほとんど意識しない形でトイレの中での思考を思い返す。

そこで僕は別に「緊急性はなかった」と思っている。

それを長々と説明したとすると、

「何?いや急な用事だったら何回も呼ばれるだろうから、一回しか呼ばれなかったから返事しなかっただけだけど、何か用事あったの?」

となる。

仮にそう説明したとしたら、妻は「別に用事なかった」と言うだろう。

するとそれでも僕は「じゃあ何で返事する必要ある?」と思う。

だけど、そういうことすら瞬間的にまったく意識してないから、

「じゃあ別に返事しなくてもいいでしょう?」と思わず口から出てしまう。

この「一言」が妻にしてみると、

「何で返事しなきゃならないんだ?」みたいなすごい傲慢な言い方に聞こえるんだと思う。

「用事ないのに、おまえは何で呼んだんだ?」みたいな。

するとそれに対して「それぐらいで何怒ってるの?」みたいに「不満顔」になる。

「いや別に怒ってないから」と僕は「返事しなかった正当性」を説明する。

だけどなんかおかしい。

「何で返事しなかった俺を責める?」

すると妻は「別に責めてるわけじゃない。ただ返事してほしかっただけだ」みたいに言うんだろう。

このやり取りのおかしなところは、僕は「何となく返事しなかった」だけで、何も「返事したくなかった」とか「返事しなくたっていいだろう」とか言ってるわけじゃないのに、なぜか妻にはそういう風に捉えられるということだ。

だけど「なんで返事しなかった?」と妻が聞くのは奇妙な質問だと思う。

僕はそれにほとんど答えられない。

返事する理由もないし返事しない理由もない。何となく「そうなっただけ」のことじゃないのか?

もし何かそこでそれを「なぜしなかった?」と確認する必要があるなら、

「聞いたんだから、答えなければならない」という強制的な考えがあるからだと思う。

たぶんそうなんだろう。

だけど「何となく聞いた」のだとしたらこっちだって「何となく答えなかった」としか言いようがない。

「ただ呼んだだけだけど、答えないのはおかしい」

と言うなら、この構図は「ダブル・バインド」になる。

つまり「アクションを起こす側」が「受け取る相手の態度」をあらかじめ想定して、そこから外れると「NG」になってしまう。

「おーい」と子供を呼んで「何?」と子供が近づいて来たら「呼んでみただけ」と言う。

「おーい」と子供を呼んで「どうせ呼んでみただけだろう」と子供が思って黙っていると「なんで返事しない?」と言う。

「なに?」と子供が答えると「いや、いるならいいんだ。呼ばれたら返事しなさい」とか。

なぜこういうことが起きるかと言うと、本当に単純に相手を「支配する」という感覚、その確認作業なんだと思う。

それにしてもなぜそんなことをしなければならないのだろう?

やはり謎だ。

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こんなこと書いていて家に帰ったら何だか妻が不機嫌そうにしている。

どうも「宿題やったら?」みたいに妻が言ったことに子供が返事しなくて、それが何度も続いたから「私のこと無視してる」と怒っている。

「いや、子供は『無視』とか意図的にやらないでしょう?自分が怒って命令したんじゃないの?」みたいに言ったらますます怒る。

「宿題やらないとまた寝るの遅くなるよ」とかプレッシャーかけないで、一緒にしばらく遊んでから「さあ宿題やろう」と明るく言うとか工夫すればいいのに。

僕は子供と一緒に宿題やったけど、途中で「何でこんなことやんなきゃいけないんだよー!」みたいにひっくり返ってぐずる。

今日は習い事も行ったしいろいろ面白くないこともあったのかもしれない。

大人だってそういう日はあるし何となく「返事したくない」時だってあるだろう。

そんな時に「聞いてるの?返事は?なんで返事しない?無視してるの?」とか畳み掛けられると「何回も言わないで!」と自分だってキレるはずだ。

子供はそういう時でさえ「今日おもしろくないから返事したくない」とか言えないのだ。仮に言ったとしても今度は「人が聞いてる時は返事するの!」とさらに怒られるだろう。

それでひっくり返って「どうせ僕が悪いんでしょう?『今日の人生』全部僕が悪いんでしょう?」と「自己否定の見本」みたいに自分を責める。

僕が「そんなことないよ。全然何も悪くないよ」となだめると妻が寝室から飛び出して来て「ごめんね」と謝った。

良くないって分かっててなんで「ダブル・バインド」(怒らせてなぐさめる)にしなきゃならないんだろう?

謎だ。



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天才を待ちわびて [雑感]

台所で料理や片付けをしている時には「自分のやりたいように」やる。

まな板の置き方や水切りかごへの皿の並べ方とかそういった「細かいところ」をイチイチ気にしたりしない。

ただそうは言っても結婚して子供ができて家事を共同でやるようになってから微妙に変化したとは思う。

「配置」とか「段取り」とか「効率性」とか多少は「マシ」になってきているとは思う。

そういうことを「まったく」意識しない時はたしかにあった。

学生の時から始まった一人暮らしの間、一体自分はどんな風に「家事」をやってきたのか?

記憶していないぐらい本当にテキトーだったと思う。

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マティスという有名なフランス人の画家がいて、その人の絵とか訳分からないぐらいド下手なのもあるんだけど、たまにものすごい傑作がある。

だいたい大きめの油絵がいいんだけど、一番すごいのは晩年の巨大な「切り絵」とか壁画だと思う。

すごいんだけど「やりたいようにやっている」ようにしか見えない。

「やりたいようにやっている」んだけど度肝を抜かれる。

「何なんだろう?」と思うから立ち止まって眺めてああでもないこうでもないとひとしきり感心する。

感心してずっと見ているのだから「感動」しているのだろう。

ポイントは「やりたいようにやる」という「誰もが持っている全能感」みたいなものを、マティスが熟知して「目に見える形にしている」ところだ。

「自分の中でははっきり分かっている全能感」っていう意味で言えば「僕サッカー代表でゴール決める」と豪語する子供がその子自身の内において「はっきり分かっている」のと似ている。

問題なのはそれを「目に見える形にする」ことの方で、言葉の真の意味で「ゴールを決める」のは現実には本物の日本代表選手の中にしかいない。

「ワールドカップでゴール決める」なんていうデカい話になればいい大人だったらさすがに「妄想」と自覚して自分とは無関係なものと割り切るけど、「鉛筆を使って紙の上に線を引く」程度だと、何となく「俺にもできるんじゃないか?」とか「こんなの誰にでも描けるんじゃないか?」と思わせる「魅力」がある。

それが「美術館の壁に永久展示されている」ということはサッカーで言えば「ワールドカップの歴史に名を刻んだ」みたいなイメージだ。

「俺のシュート」じゃワールドカップでゴール決めるなんて夢のまた夢だけど(そういうCMならある)、「俺の落書き」だったら美術館に掛かる可能性だってないことはないのではないか?みたいな気分にさせてくれるところがマティスやピカソの魅力の一因ではあると思う。

濱田庄司という陶芸家が「シャッシャッ」と釉薬を焼き物に引っ掛けながら「こんなこと俺にもできるというヤツがいるが、この一瞬に数十年の修練が凝縮されている」みたいなことを言っていたけど、そういう「研ぎ澄まされた感覚に与えられる社会的価値」がたしかにあるんだ(サッカーにだって『嗅覚』や『イマジネーション=想像力』といった感覚が要求される)。

どこかの動物園で象が鼻に筆を持って絵を描いたりしてるけど、それとマティスの絵は同じに見えるって人は、ワールドカップのシュートも草野球のホームランも同じだって考える人だろうから、「その人の内においては」たしかに全ての価値はイメージとして等価なのだから幸せだと思うし、否定されるいわれもない。

ここからは「みんなが『すげえ』って認めるだけの別格な感動はあるでしょう、マティスにもワールドカップにも」って考えてる人にしか分からないレトリックになる。

マティスの絵にシロウトの描き殴った落書きより価値があるとするなら、それはその「気楽に引いた線」にマティスが長い時間をかけて「身につけた判断力」が表出しているからで、それは「創造」っていうよりも誰もが持っている認識能力の「拡張」とか「補正」に近い。

自分たちが知っている感覚(線で顔を描くのは難しいとか歴史ってワクワクするとか)の延長上でそれが理解できる。

たぶん、「天才の仕事」というのはそういうものなんだと思う。

そこで料理の話だ。

僕が台所で「やりたいように炊事をした」ら、きっと「ぐちゃぐちゃ」とまでは行かなくても、がんばった分何となく「とっ散らかった」状態にはなる。

もしマティスが「天才料理家」で、時空を超えて家の台所で仕事をしたら、文句も言わずにさっとそこにある調理用具と食材で一流の料理を作ってみせるだろう。

妻はほれぼれとその姿を見て料理を一口食べて「涙を流し」きっとその全てを「真似したくなる」に違いない。

まず目に見えるところから入るかもしれない。包丁の使い方とか食材の並べ方とか片付け方とか。

ところが大抵の「夫」はこんな天才料理家じゃなくて凡庸な「評論家」なんだ。

食事の用意が出来てないと言えば「ほら見てみろ、こうやるんだ!」と言わんばかりにこれ見よがしにやってみせて「どうだ」と無言の圧力を加える。

チョロっと手を出して来て「何で冷蔵庫の中がこんなにぐちゃぐちゃになってる?オリーブオイルはどこだ?フライ返しは?日頃からちゃんと整理していればこんなことにならない」とか文句しか言わない。

「私には全部分かってるの!何しゃしゃり出て来て偉そうにしてるんだこのタコ!」

これなら手伝ってもらわない方がマシと思うがお互い忙しいからやってもらわないわけにもいかない。

幸い日本には「もっと立派な評論家先生」っのがうじゃうじゃいて、その夫の姿に対して「いやいや育メンとしての姿勢がなってませんね」とか「弘法筆を選ばずですから今ある台所と食材で最高の料理を作れるのが天才料理家ってもんですよ」とか何とか「さらに偉そうに」テレビで言ったり本に書く。

夫に「見下された」と感じている妻がそれを聞いたり読んだりして溜飲を下げる。復讐としてそんな「もっとすごい人」の言葉を引いて言う。

「ほら見て。やっぱり『本当にすごい人』は違う。やるならこれぐらいやらなきゃね」

とか何とか(あんたごときに偉そうに言われる筋合いはないの意)。

評論家きどりの妻による評論家きどりの夫のための「本物の評論家」による評論。

評論、評論、評論の連鎖、評論の応酬。

そんなどん詰まりから抜け出したくなるからさらに高みを目指す。

「ああどこかに『サッと神業のようにこのどうしようもない台所、このぶっちらかった台所で、最高にうまい料理を私に食べさせてくれる人』がいたら!

その時私はどんなにか幸せになって心を入れ替えて、その姿を真似ていずれ絶品の料理を作れるようになるだろう!」

今の日本ってのはこの「ぶっちらかった台所」みたいなもので、そこでみんなが「食ったこともないような夢の料理」や「天才料理家」を待ちわびながら、それでも日々食べなければならないから段取りの悪いお母さんや手先のおぼつかないお父さんが作るご飯を「とりあえず」食べて「しょうがない」と諦めてるようなものだと思う。

「キッチンを改築する」と大言壮語してみたり「粗食で十分」とか「食べるものないよりはマシ」と自己憐憫してみたり「その前に食材途絶えて餓死するかも」と嘆いたり。

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回りくどくなったがこの話の主題は「天才」を根本的に別な人種と考えて「あがめたてまつる」悪い習慣を止めようということである。

それは自分が努力しないことを正当化するための悪癖だから。

マティスは言う。

「私は日々進歩している。それが私の本分だ」









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一つ屋根の他者 [雑感]

結婚に対する決定的な認識の誤りがあってそれがまかり通っている。

その広く流布した誤謬のおかげで多くの夫婦が危機に陥っている。

それは「理想のパートナー」というおよそ絶望的な幻想で、なぜそんな観念が必要とされたのか不思議になる。

結婚するのは相手が「理想のパートナーだったから」と言うならその「過去の栄光」が二人の最高の到達点となり、それゆえ結婚生活は年を重ねるごとにただ落ちて行くだけの長い下り坂となる。

妻が聞いたラジオ番組の対談で何とかという精神科医が、

「だから夫はその期待を裏切ってはならず、『ありのままの自分』なんて家庭で見せてはならず、すなわち『夫』を演じることを『当たり前』と感じれば幸せになれる」

と言っていたらしい。

僕に何か言いたかったのだろうが聞いた瞬間に、

「本当にそれ精神科医が言ったの?まったく想像に難くないけどだから日本の精神科医はダメなんだよ。だってその『演技』が原因でみんな『うつ病』になってるんだよ。家庭だけが『ありのままの自分』でいられる場所で、そこでさえも『演技しなければならない』なら、それはその元々の『ありのままの自分』がすでにおかしいのか、妻も夫も『ありのままの相手』を受け入れられないのかどっちかだよ。つまり最初の『理想のパートナー』っていう設定が間違ってるんだよ」

と言った。

本当にこういう資本主義のあまい汁を吸ってるインチキ精神科医がその「メシの種」である「患者」を量産するためにこんなデマカセを偉そうに垂れ流してるのかと思うとうんざりしてくる。

だから一組でも多くの夫婦が救われるためにここに言うけど、結婚っていうのは「理想のパートナー」を見つけて「始める」ものじゃなくてそこへ「至る」ものなんだ。

「私を完璧に理解してくれるもう一人の私」みたいな「理想のパートナー」という幻影と「結婚20年してだんだん化けの皮がはがれる赤の他人」と比較したら、どんな人間だって「ぼろ雑巾」か「ふるだぬき」みたいに見えるだろう。「そう見えない。私の相手は完璧だ」と言い張るならただその「色眼鏡」が外れてないだけでいずれそのレンズは曇ると思う。

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人は一人では生きて行けないけど、同時に自分と同じ考えの人間もまた存在しない。

自分の認識は自分にしか属さず、言葉の真の意味で言えば「分かり合える他人」など存在せず絶対的に「孤独」なんだ。

こんなの哲学的に当たり前の命題だ。

明治生まれの今は亡き僕の祖母は言ったんだ。

「結婚は人生の始まりだ」

って。

それで僕は若い時「何言ってんだ」と思った。結婚しようがしまいが俺の人生はもう「始まってる」って。

だけど、結婚してからまったく理解し難い形だったけど「いや、ばあちゃんは正しかったのでは?」とおぼろげに思った。

そして、子供が出来て育てる中でその思いはますます強くなった。

僕が今漠然と考えることは、人間というのは一人でいる限り恐ろしく「子供」なんだと思う。

その「子供」がもう一人の「子供」と一緒になる。

そしてまるで遊んだり喧嘩したり仲直りしたり話し込んだりしながら少しずつ「大人」になる。

「〇〇ちゃんは私の大親友!」と言ってみたり「大嫌い!」と絶交したりすることもあるかもしれない。

それで少し大人になるとそこに「もっと小さい子供」が加わる。

その子供を少しずつ「大人にするために」子供が力を合わせて面倒を見ることで「ちょっと大人になった子供はもっと大人になる」。

本当の意味で成熟した大人は存在せず「未熟な子供同士」が生活を共にすることで少しずつ「大人」に近づいて行く。

これが家族なんだ。

つまり人は自分が「人として成長するため」に「絶対的な他者」を必要としている。

夫なり妻という存在はそうやって絶対的な他者でありながら「一つ屋根に暮らす」という重責を引き受けて、「人が人になるための道」を共に進むことに協力してくれる人なんだ。

そして生まれて来る子供というのは「必然性をもった他者」で、そしてまた「一緒に大人になる一人の人間」なんだ。

もし家族に「素晴らしさ」があるとすれば、それはこの圧倒的に孤独で未熟で、それでもやはり「成長したい」つまり「生きたい」と切望する自分という他者に対して、決して相容れないもう一人の他者として「ずっと一緒にいてくれる」ところだ。

それを人は無償の愛と呼ぶ。

だから「理想のパートナー」という概念はこの命題に対して真逆の表象になる。

「結婚は人生の墓場」とはよく言ったものでそれは「理想のパートナー」という虚像と対を為す。

「理想のパートナーだから一緒にいられる」と考える人間は結婚をいずれ「呪う」ことになるだろう。

人として幸せを望むならその事実をまず受け入れた方がいい。

結婚披露宴の「ケーキ入刀」は「初めての共同作業」と呼ばれる。

それは謂れのないことではない。










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心の中のエコノミー [雑感]

最近、子育ての子供への影響に関して調べていて、アスペルガー症候群やADHDやアダルト・チルドレンについても考えるようになった。

ネット上ではたくさんの「自称」アスペルガーかADHDかACの方がブログを書いている。

人間の「心」の構造を考える上でとても参考になった。

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*僕の見解をまず最初に言っておく。

「先天性の」「自閉症」や「アスペルガー症候群」を抱える人はいる。

だけど「自閉症スペクトラム」や「アダルト・チルドレン」に関して言うと「白黒つける」のはかなり難しいと思う。

その「症例チェック」などが「ほとんどの人に当てはまる」のは、その原因が身体的な「器質障害」よりも現代社会の「経済活動=エコノミー」に由来する「認知の歪み」にある場合が多いからだ。

そのため膨大な「治療法」や「カウンセリング」が「金儲け」として存在している。

現代の「心の病」ってのは「治療と金儲け」が一体化していて「治療によって悪化する=悪化させて治療漬けにする」という悪徳商法みたいなことがある。

ほとんどの精神科医はあなたの心の中の「エコノミー」を取り除いてはくれない。

むしろ彼らの「エコノミー」のためにあなたの心を搾取しようとする。

だから「決めつけ」によって精神科や心療内科に通うのは慎重になった方がいいと思う。

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さてブログの話だ。

その「自称アスペルガー」の人が「洗い物を必ず一個残す」という自分の奇妙な癖を分析していた。

おかしいのだが、台所のシンクの中にスプーンでも何でもいいから「一個残すと落ち着く」らしいのだ。

「最後までやり切ると、また次にやらなければならないというプレッシャーができるから、少しだけ残しておくのかもしれない」と自己分析していたが、理由はよく分からないと言う。

だけど、これはアスペルガーの「癖」というよりも効率重視の社会や親から与えられるプレッシャーに抵抗する言葉にならない心の「表現」なんだと思う。

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僕も考えてみれば、たしかに「最後までやり通す」ということが得意ではなかったが、あることに気付いてからだいぶマシになった。

自分でもものすごく奇妙に思うのだが、例えば「ペンを筆立てにさす」とか「棚の上に物を置く」と言った場合に、「入れる瞬間」「置く瞬間」に目をそらしている。

次の動作のために振り返ったり立ち去ろうとしている。もちろんほんの「一瞬」だから見なくてもほとんどの場合失敗することはないんだけど、それが「皿洗い」だったりすると皿を割ってしまうこともある。

そして僕は「皿を割る」あるいは「物をひっくり返す」ことがかなりの頻度であった。

何十年もそうやって「ひっくり返し続けて来た」のだ。

それが「マシになった」のは、「あれ?俺なんか目そらせてない?」と気が付いて「意識的に」とにかく「最後まで見届ける」ようにし始めてからだ。

単純に言えばただ「ゆっくりやる」というだけのことだが、以前はそうではなかった。

「テーブルの上にコップを置いてから本を取ろう」という時、コップがテーブルに着地するその瞬間に「0.1秒早く」次の動作に移ってしまう。

そのせいで「置く」という手の動きと「取る」という手の動きが一瞬重なってしまう。「体はまだコップを置いている」のだが「心はすでに本を取ろう」としている。

すると「手の軌道」が数ミリずれて、それがコップの取っ手に引っかかってコーヒーをこぼしたりするのだ。同じ原理で皿が手から滑り落ちる。

これはいつも「急かして」「早く終わらせよう」としているせいで、僕は基本的にこれを「エコノミー」に捉われた「貧乏性」だと思っている。

何でもいいから「得したい」「1円でも1秒でも無駄にしたくない」という「貧乏根性」が骨の髄まで染み付いてしまい、日常生活の中でさえそれが出てしまう。

動作と動作の間のインターバルを極力なくす。10円/1秒だとして10回ぐらいは連続して成功するから100円ぐらいは稼げる。

しかし「もっと早くもっと得したい」という焦りによって11回目にぶっちらかしてその後始末に1分かかって逆に600円「損」してしまう。

コーヒーをひっくり返したのはだから「癖」とか「不注意」ではなく経済に蝕まれて欲を出しすぎた「心のひずみ」のせいだ。

それを「うっかり」とか「ぼーっとしていた」とか「あーあ、またやっちゃった」とかどうでもいいように言うのは本質から目をそらすためだ。

あるいは「俺は元々こういう人間だからしょうがないんだ」と諦める。

僕もずっとそう思って来た。

だけどこういう自分で自分をだまして本当の理由を「偽装する」心のメカニズムもまた「エコノミー」の要請なのだ。

(資本主義の競争原理が作り出す『うつ病』でもシステムはその原因を『個人の気質のせい』にしたい。自分よりも会社を優先し組織に忠誠を誓う個人の内面がそれを反映してしまい、自発的に『心の問題』をスケープゴートにする。だから労働条件が悪化すれば精神科医が儲かるだろう)

だからこれは別に「金銭的に得したい」という話ではない。

「残業を1分でも減らしたい」そして自分の時間を作って「1文字でも多く本が読みたい」「1ページでも多くウェブサイトを見たい」「1秒でも長く寝ていたい」

とにかく「時間がもったいない」という感覚が体を支配する。

「損した気分」のせいで無性にイライラする。些細なことが気に触る。飽きる。途中で放り出したくなる。

ごまかすために「低血圧のせい」「更年期障害のせい」「血液型のせい」「遺伝のせい」と何だか分からない言い訳をする。

自分の心と体の動きがぴったり一致していれば万事うまく行くのに、学校では先生から、会社では上司から、あげく家庭では「勤め人の親」から「早く!」「もっと!」「まだ?」と延々と急かされて、そのせいで奪われた自分の時間を必死で取り返すために誰も見ていなくてもまだ「急ぐ」。

急いでないととにかく落ち着かない。

この体と心の乖離が進めば「皿落とす」どこじゃ済まないカタストロフが待っている。

「この不調はもしかしたら仕事のせい?」なんて疑ってスローダウンしたら置いて行かれる。

それどころかまるで「さぼってる」みたいな罪悪感さえ感じる。

心が言う。

「エコノミーさんが見てるぞ!」

もはや心を監視しているのは「我が内なる神」ではなかった。

さあのんびりしている場合じゃない。急げ急げ。私には時間がないのだし、もっと効率よくやればうまくいく。もっと手際よくやれば未来が開ける。

誰にも頼まれていないのに失敗したのは「血液型のせいだ」「DNAのせいだ」と不可知の自然現象に責任を押し付ける。

見えざる「心の番人」である「エコノミーさん」のためなら解離性障害になっても「急いてる自分」をアピールする。

我急ぐゆえに我あり。

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僕は自分の行動を「最後まで見届ける」ようにし始めた時、最初すごく「居心地が悪かった」。

何と言うか「損した気分」になるのだ。1秒でも0.1秒でも端折れるところを端折らずに「悠長に眺める」ことの損失。

だけど「まあいいか」と繰り返していると不思議とそれに「慣れる」。

そして実はその方が「効率がいい=エコノミカル」だ。

それがスタンダードとなってその意識でもって生活を見直すと、恐ろしいぐらい自分が「焦って」生きて来たことに気付く。

布団をたたまないのも自炊しないのも食器洗いを後回しにするのも洋服を脱ぎ散らかすのもネット見ながら食事するのも歯を磨きながら本を読むのも全部「エコノミー」なのだ。

「俺は忙しいからできないんだ」と一生懸命な自分は思いたがっている。

忙しくて忙しくて大変だ、だからがんばってるんだ偉いんだと思いたいし思われたい。

天上の「エコノミーさん」ならきっと見てくれている。

そんな「エコノミーさん」に「忙しいところ」を見せなければ。

死ぬほど忙しいということを分かってもらうためなら逆に「できない」方がいいのではないか?

「できちゃったら」まるで忙しくないみたいだから「できないこと」をたくさんやろう。

「忙し過ぎてできない」のでなく「できなさ過ぎて忙しい」というわけだ。

その全てが本来の意味で言うと「効率が悪い」にもかかわらず、ただ自分の「忙しさ」を確認するために何でもかんでも中途半端に手をつける。

そういう一切が本当にばかばかしくなった。

コップを置く時にはコップのことを考え、皿を手に持っている時は皿のことを考えた方がいい。

そうすればシンクに残されたスプーンごときで「自己表現」など試みなくなるだろう。

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追記:

偉そうなこと言ってる矢先から、今朝みそ汁作ろうとして味噌が入っている「容器」を出して、別のことを考えていてそれを使わないまままた仕舞ってしまった。
こんなのただ「ぼーっと」してただけの話で、要するに自分は「そういう人間なんだ」と思わざるを得ない、、、。




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だんだん大人になる [育児]

子供はたしかに「大人になる」。

しかしある日突然大人になるわけでもない。

一体いつから大人になるのか?

そう考えるのも面倒なので、

「子供だって一人前の大人だ」

とか何とか、思いっきり端折って都合良く育児責任を放棄して幼年期から子供に抱え切れない「精神的重荷」を背負わせる親もいる(ネグレクト)。

正確には子供は「だんだん大人になる」のだが、この「だんだん」の部分に注意を払う大人は稀だと思う。

なぜなら、その推移、グラデーションの中に当の大人も入ってしまうから、威厳でもって子供を支配下に置こうとする親には都合が悪い。

混ざり加減は異なるが、自分の中には「子供」がいて、子供の中には「大人」がいる。

子育てを通じて親の中に残る「子供」はだんだん薄れていく。

子供の中の大半を占める「子供」はだんだん「大人」に入れ替わっていく。

そこには心的な相互作用があるのだから、そのインタラクションに即興的に反応できるか否かで親の才覚が問われる。

それができない(それを『楽しめない』と言ってもいい)親が自分を「一人前」として偽装する。

化けの皮がはがれるのが恐いから、子供の前で虚勢を張る。

マニュアルを読んで自己正当化を図る。

自分の不手際で子供が泣きわめくと、その落ち度を子供に押し付けるために怒る。

自分で自分に腹を立てながら怒りの矛先を子供に向けてストレス解消しているわけだし、

本人もうっすら気が付いているのだから申し訳ない気持ちに苛まされる。

にもかかわらずそれを続けるのはあまりに利己的で非人間的で胸が痛むので、未熟な親が自己保身のために集団となり「しつけ」という言い訳を大義のごとくでっち上げて、責任逃れの「総仕上げ」をした。

家庭内暴力というのは「胸が痛まない人」がする「しつけ」で、「胸が痛む人」は「しつけ」に便乗して子供に日々「言葉の暴力」をふるう。

「どうしてそういうことをする?」

「自分が何をやっているか分かるのか?」

「何度言ったら分かるんだ?」

「なんでできない?」

「ちゃんとやりなさい!」

「さっき言ったよね?約束したよね?」

「言うこと聞かないともうやらないよ!いい?」

「あ~あ、、、もう、なんで?、、、」

うっかりすると簡単に口を突いて出てしまうこれら「答えられない問い」をボディ・ブローのように毎日浴びせられ続けると、子供の心の真ん中には取り返しのつかない空虚が生じる。

「親は常に正しく、自分は常に間違っている」

ほとんど意識しない形でそう考えるようになる。

「自己否定」というのは、自我という岩盤の上にポタポタ滴り落ちる水滴によって長い時間をかけて穿たれた凹みのようなものだ。

要するに「取り返しがつかない」。

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子供は「だんだん」大人になる。

「時間がかかる」と分かっていれば、人は諦めてのんびり構えるだろう。

「カッとなる」のはさっさと面倒な育児を終わらせて「自分の時間」を取り戻したいと思っている親の側の問題だ。

怒りというのはどんな形であれ(それが『ため息』であっても)子供にとっては「暴力」なのである。



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