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心の中のエコノミー [雑感]

最近、子育て子供への影響に関して調べていて、アスペルガー症候群やADHDやアダルト・チルドレンについても考えるようになった。

ネット上ではたくさんの「自称」アスペルガーかADHDかACの方がブログを書いている。

人間の「心」の構造を考える上でとても参考になった。

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*僕の見解をまず最初に言っておく。

「先天性の」「自閉症」や「アスペルガー症候群」を抱える人はいる。

だけど「自閉症スペクトラム」や「アダルト・チルドレン」に関して言うと「白黒つける」のはかなり難しいと思う。

その「症例チェック」などが「ほとんどの人に当てはまる」のは、その原因が身体的な「器質障害」よりも現代社会の「経済活動=エコノミー」に由来する「認知の歪み」にある場合が多いからだ。

そのため膨大な「治療法」や「カウンセリング」が「金儲け」として存在している。

現代の「心の病」ってのは「治療と金儲け」が一体化していて「治療によって悪化する=悪化させて治療漬けにする」という悪徳商法みたいなことがある。

ほとんどの精神科医はあなたの心の中の「エコノミー」を取り除いてはくれない。

むしろ彼らの「エコノミー」のためにあなたの心を搾取しようとする。

だから「決めつけ」によって精神科や心療内科に通うのは慎重になった方がいいと思う。

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さてブログの話だ。

その「自称アスペルガー」の人が「洗い物を必ず一個残す」という自分の奇妙な癖を分析していた。

おかしいのだが、台所のシンクの中にスプーンでも何でもいいから「一個残すと落ち着く」らしいのだ。

「最後までやり切ると、また次にやらなければならないというプレッシャーができるから、少しだけ残しておくのかもしれない」と自己分析していたが、理由はよく分からないと言う。

だけど、これはアスペルガーの「癖」というよりも効率重視の社会や親から与えられるプレッシャーに抵抗する言葉にならない心の「表現」なんだと思う。

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僕も考えてみれば、たしかに「最後までやり通す」ということが得意ではなかったが、あることに気付いてからだいぶマシになった。

自分でもものすごく奇妙に思うのだが、例えば「ペンを筆立てにさす」とか「棚の上に物を置く」と言った場合に、「入れる瞬間」「置く瞬間」に目をそらしている。

次の動作のために振り返ったり立ち去ろうとしている。もちろんほんの「一瞬」だから見なくてもほとんどの場合失敗することはないんだけど、それが「皿洗い」だったりすると皿を割ってしまうこともある。

そして僕は「皿を割る」あるいは「物をひっくり返す」ことがかなりの頻度であった。

何十年もそうやって「ひっくり返し続けて来た」のだ。

それが「マシになった」のは、「あれ?俺なんか目そらせてない?」と気が付いて「意識的に」とにかく「最後まで見届ける」ようにし始めてからだ。

単純に言えばただ「ゆっくりやる」というだけのことだが、以前はそうではなかった。

テーブルの上にコップを置いてから本を取ろう」という時、コップがテーブルに着地するその瞬間に「0.1秒早く」次の動作に移ってしまう。

そのせいで「置く」という手の動きと「取る」という手の動きが一瞬重なってしまう。「体はまだコップを置いている」のだが「心はすでに本を取ろう」としている。

すると「手の軌道」が数ミリずれて、それがコップの取っ手に引っかかってコーヒーをこぼしたりするのだ。同じ原理で皿が手から滑り落ちる。

これはいつも「急かして」「早く終わらせよう」としているせいで、僕は基本的にこれを「エコノミー」に捉われた「貧乏性」だと思っている。

何でもいいから「得したい」「1円でも1秒でも無駄にしたくない」という「貧乏根性」が骨の髄まで染み付いてしまい、日常生活の中でさえそれが出てしまう。

動作と動作の間のインターバルを極力なくす。10円/1秒だとして10回ぐらいは連続して成功するから100円ぐらいは稼げる。

しかし「もっと早くもっと得したい」という焦りによって11回目にぶっちらかしてその後始末に1分かかって逆に600円「損」してしまう。

コーヒーをひっくり返したのはだから「癖」とか「不注意」ではなく経済に蝕まれて欲を出しすぎた「心のひずみ」のせいだ。

それを「うっかり」とか「ぼーっとしていた」とか「あーあ、またやっちゃった」とかどうでもいいように言うのは本質から目をそらすためだ。

あるいは「俺は元々こういう人間だからしょうがないんだ」と諦める。

僕もずっとそう思って来た。

だけどこういう自分で自分をだまして本当の理由を「偽装する」心のメカニズムもまた「エコノミー」の要請なのだ。

(資本主義の競争原理が作り出す『うつ病』でもシステムはその原因を『個人の気質のせい』にしたい。自分よりも会社を優先し組織に忠誠を誓う個人の内面がそれを反映してしまい、自発的に『心の問題』をスケープゴートにする。だから労働条件が悪化すれば精神科医が儲かるだろう)

だからこれは別に「金銭的に得したい」という話ではない。

「残業を1分でも減らしたい」そして自分の時間を作って「1文字でも多く本が読みたい」「1ページでも多くウェブサイトを見たい」「1秒でも長く寝ていたい」

とにかく「時間がもったいない」という感覚が体を支配する。

「損した気分」のせいで無性にイライラする。些細なことが気に触る。飽きる。途中で放り出したくなる。

ごまかすために「低血圧のせい」「更年期障害のせい」「血液型のせい」「遺伝のせい」と何だか分からない言い訳をする。

自分の心と体の動きがぴったり一致していれば万事うまく行くのに、学校では先生から、会社では上司から、あげく家庭では「勤め人の親」から「早く!」「もっと!」「まだ?」と延々と急かされて、そのせいで奪われた自分の時間を必死で取り返すために誰も見ていなくてもまだ「急ぐ」。

急いでないととにかく落ち着かない。

この体と心の乖離が進めば「皿落とす」どこじゃ済まないカタストロフが待っている。

「この不調はもしかしたら仕事のせい?」なんて疑ってスローダウンしたら置いて行かれる。

それどころかまるで「さぼってる」みたいな罪悪感さえ感じる。

心が言う。

「エコノミーさんが見てるぞ!」

もはや心を監視しているのは「我が内なる神」ではなかった。

さあのんびりしている場合じゃない。急げ急げ。私には時間がないのだし、もっと効率よくやればうまくいく。もっと手際よくやれば未来が開ける。

誰にも頼まれていないのに失敗したのは「血液型のせいだ」「DNAのせいだ」と不可知の自然現象に責任を押し付ける。

見えざる「心の番人」である「エコノミーさん」のためなら解離性障害になっても「急いてる自分」をアピールする。

我急ぐゆえに我あり。

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僕は自分の行動を「最後まで見届ける」ようにし始めた時、最初すごく「居心地が悪かった」。

何と言うか「損した気分」になるのだ。1秒でも0.1秒でも端折れるところを端折らずに「悠長に眺める」ことの損失。

だけど「まあいいか」と繰り返していると不思議とそれに「慣れる」。

そして実はその方が「効率がいい=エコノミカル」だ。

それがスタンダードとなってその意識でもって生活を見直すと、恐ろしいぐらい自分が「焦って」生きて来たことに気付く。

布団をたたまないのも自炊しないのも食器洗いを後回しにするのも洋服を脱ぎ散らかすのもネット見ながら食事するのも歯を磨きながら本を読むのも全部「エコノミー」なのだ。

「俺は忙しいからできないんだ」と一生懸命な自分は思いたがっている。

忙しくて忙しくて大変だ、だからがんばってるんだ偉いんだと思いたいし思われたい。

天上の「エコノミーさん」ならきっと見てくれている。

そんな「エコノミーさん」に「忙しいところ」を見せなければ。

死ぬほど忙しいということを分かってもらうためなら逆に「できない」方がいいのではないか?

「できちゃったら」まるで忙しくないみたいだから「できないこと」をたくさんやろう。

「忙し過ぎてできない」のでなく「できなさ過ぎて忙しい」というわけだ。

その全てが本来の意味で言うと「効率が悪い」にもかかわらず、ただ自分の「忙しさ」を確認するために何でもかんでも中途半端に手をつける。

そういう一切が本当にばかばかしくなった。

コップを置く時にはコップのことを考え、皿を手に持っている時は皿のことを考えた方がいい。

そうすればシンクに残されたスプーンごときで「自己表現」など試みなくなるだろう。

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追記:

偉そうなこと言ってる矢先から、今朝みそ汁作ろうとして味噌が入っている「容器」を出して、別のことを考えていてそれを使わないまままた仕舞ってしまった。
こんなのただ「ぼーっと」してただけの話で、要するに自分は「そういう人間なんだ」と思わざるを得ない、、、。




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他人事 [雑感]

全てを他人事として考えることは効率がいい。

感情など排して、あらゆるものを等質に、フラットに、モニター越しに見るように、「客観的に」俯瞰する。

自分はCCDカメラであり、MP3レコーダーであり、記録されたデータは全てディスクに保存され、CPUが処理する。

主観を消し去って、膨大な情報を集約し、「大局的に物事を見る」

そういう才能に長けた人が、もてはやされ、のし上がり、尊敬もされる社会。

テレビで饒舌に語るその「頭のいい人たち」を見て、人々は自分や家族のことを中心に考えるのは、何か利己的で、恥ずべきものであるかのような不安を覚える。

「おまえも俺ぐらい勉強すればいつか出世できるよ」

そう言わんばかりの彼らが、唯一、絶対に記録も分析も相対化もできないものがある。

いや、むしろ積極的に評価しないように「除外する」対象がある。

それは、彼ら自身だ。

ビデオカメラがビデオカメラ自身を直接写すことができないように、人は自分自身を客体化することができない。

どれほどの言葉を尽くそうとも語ることができず、立ち止まって眺める事も、意思の力で心臓止めることも、痛みを消す事もできない。

自分が一番よく分かっているつもりで、もっとも不可解なものが己の中心に居座っている。

この世に生まれて来たからには、人間の身体と意識の中でただ流れるがままに変化し、死ぬまで運動を続ける一つの「自然」。

しかし、そんな究極的に個人的な内面など、人を数字として扱うような社会にとってはどうでもいい話だ。

社会に出て、仕事をし、他人に認められ、より多くを稼ぎ、「世界と戦う」ためには、そんな正体不明の「神秘的な力」など邪魔にしかならない。

だから、まず人は、社会化するために、分別を身につけるために、根源的な「自己」を消す。

そして、その存在基盤を、より巨大で社会的なもの、例えば国家、宗教、経済などに置き換える。

またはより分かりやすく、「一流企業に勤めたい」「司法試験に合格したい」「ブランド品がほしい」「アイドルになりたい」と言った通俗的な目標を設定し、際限のない欲望を疑いも持たずに全肯定する。

そういった「移植」(ある種のロボトミー手術?)が完了してしまえば、あとは楽なのだ。

ぺらっぺらの表層的人格が織り成す資本主義のネットワークの中で利益を嗅ぎ回り、他者を押しのけてでも、「豊かさ」のためがむしゃらに泳ぎ切る。

その努力に全身全霊を傾ける。

その時「システム」は道を開き、「ご褒美」を与えてくれる。

それに比べれば自然の方がはるかに冷酷で無慈悲だから、人は「群れ」から外れることをためらう。

「群畜本能」に従い、生き残らんがために、その「ギャンブル」に参加する。魂を捨てて「勝つためのコツ」を身につけ、システムに組み込まれる道を選ぶ。

根源的な自我を消せば消すほど、社会はもう一つの「社会的自我」の方を認めてくれる。

そういった処世術が何世代にも渡って引き継がれる。

つまり、「父」も「母」も、だから「私」も、まるで呼吸から取り込むように、知らぬ間に「会社」は自分の一部になっている。

「自分」が「会社」でできている。

これは幸せなのか?

そう思わないでもない。

時折、自分の無意識に抑え込んだ「自己」が不安を呼び起こす。

それを振り切るために、テレビからネットから、「鎮痛剤」として流されるバラエティー番組の合間合間から、繰り返し刷り込まれる社会的「大義」(そして『絆』)。

何、放射能で病気になったって過労死したってかまうもんか、そこで死ぬのは俺というちっぽけな個人であって、俺の価値を証明するのは、俺じゃなくて「社会」と「歴史」の方だ。それに、死ぬのは俺じゃなくて「他の誰か」だろう?

この「前近代的」でマッチョな世界観、、、。

彼らにとってまず「他人事」なのは、他ならない「己自身」だ。


子供と幸福 [雑感]

あるブログで(男性のブログ主だが)、

「俺は(放射能から)子供を守りたいだけだ」

というような記事を書いていた。

「なるほど」としか僕は思わなかったが、それに対して「ネット何とか」みたいな人たちが総攻撃をしていた。

その中で、ちょっと紳士っぽく振る舞ってる人がいて、僕がいつも想定しているいわゆる保守・容認派の「本音」みたいなのが惜しげもなく披露されてて、ちょっとうれしくなってしまったので引用・要約してみる。

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「子供を守る」とは立派な志だが、保守と左翼は観点が違う。
一概には言えないが、
保守は国家国益の観点
左翼は個人私益の観点
がベースにある。
要するに「子供を守る」考え方が違うから議論は平行線。
あなたやあなたの家族が平穏無事に暮らしていられるのも、社会インフラと国家の安定があってこそ。
自分の子供を守っていたらいつの間にか国家がボロボロでは後の祭り
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いやあ分かりやすい。あまりに分かりやすすぎて、多くの人が「そんな単純なものじゃないだろう」と反論したくなるかもしれない。

だけど国家観や人間観なんてのは、一般人にしてみれば「大それたもの」で、保守的だろうが左翼的だろうが、意外に「ざっくりと」していて、「何となくそう考えている」ぐらいの人が多いと思う。

おそらく元々、家庭環境や成長する過程で何らかの影響を受けて、頭の中に漠然とした思考の「根っこ」が出来上がっていて、それが例えば原発事故のような破局的な出来事に遭遇して自分の人生観が問われた時に、その考え方の「方向性」や「傾向」に準じて、急激に一つの思想へと「収れん」する。

「私は命が一番大切」
「いや、そうは言っても金がなければどうにもならない」

みたいな思い付きレベルから、だんだん情報を集めていくうちに、イモヅル式に、

方や、原発事故は史上最悪>放射能危険>子供>家族>命>反原発>小出先生>ECRR

方や、原発事故たいしたことなかった>放射能安全>社会的自己>国民>国家>経済>原発容認>中川先生>ICRP

みたいに、信用する識者もデータも、とにかくその出発点を補強するように二股に分かれて、しまいには全く相容れない人生観を「むき出し」にしてしまう。

こうなるともうお互い理解できない。

反原発の人が「なぜ命より経済なんだ?理解できない」と言うと、

このコメントの人のように「なぜ経済より命なんだ?理解できない」と言うのだ。

「命なかったらお金なんて無意味だろう」と言うと

「お金がなかったら命だって守れないだろう」

「子供を守らなかったら国家だって潰れてしまうだろう」と言うと、

「国家が潰れたら子供だって守れないだろう」

「卵が先だ」

「いや鶏が先だ」

と禅問答みたくなる。

でも、僕なりにこの対立を俯瞰すると、

これは男の「観念論」で、観念である限り、ディベートと同じで知識や情報の多寡によって「勝ち負け」なんてどうにでもなる。

それにネット上では相手が誰かも分からないのだから、ますますその観念は実体を伴わずに空転する。

(そして僕も男で、ネット上の議論をさらに『俯瞰』しようと試みているわけだから、これもまた観念論なのだが)

しかし、そこでこのコメント者は「決着」を付けようとして、「国益」と「私益」を持ち出している。「ベネフィット」の観点から論じる時点で、それはすでに『男の視点』で、自分の土俵に相手を引き込もうとしているんだと思う。

つまり、「あらゆる物事は、『利益』を基準に判断される」という経済原則みたいなものを、本当に「あらゆる物事」に適用可能であると、信じている。

これは資本主義の一つの「信仰」なのだが、現実的に今の世の中男性中心社会で、そこでは効力を持つから、「それのどこが間違っている?」と全く疑う機会を持たない。

でも子供を守るのは「ベネフィット」ではない

しかし、そう言ってみたところで、この手の「男」には「全く分からない」

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今ふと思い出したのは、もう一つどこか反原発系のサイトのコメント欄で、

「自分の子供は自分で守る」みたいにある女性が発言したら、

海外在住とかいう妙に冷めた男が、

「子供が失われたら、またどんどん産めばいいんです」

とこれまた教え諭すように言う。

「おまえの一体『どこ』から、何をどうやって産み出すんだ?」

と突っ込みを入れたくなってしまった。

人事どころかまるで「神」の視点のように語る男というのはいるし、そんなのはお母さん方にコメントでボコボコにされてるんだけど、そういう人はその人の「観念」「脳内」では、本気でそう思っているんだと思う。

「え?俺のどこ間違ってるの?正論言ってるよね?」って感じだろう。

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この部分を読み返して、ふと思ったのは、「神」というのは一つの観念であり、子供を産むのは観念ではないんだと思う。神が何かを「産み出す」なんてことはできない。それは神を「擬人化」している。子供を産み出すのは「女」にしかできない。それを一般論化してしまい、「産めよ増やせよ」なんて言えること自体が、「超越論的な」「男」の視点なんだ。
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もう一つ思い出した。

徴兵制か何かを巡る議論で、「命が大切」みたいに語る人に対して誰か(これは女性だった)が、

「命も大切だが、それ以上に重要なものがある。愛国心=国家>人間なのです」

と書いていた。

こういう等号、不等号でもって、「記号」として「命」や「人間」を捉えられてしまう人というのは、もう頭の中がそれで決定しているから、どんなに語っても、その記号自体を粉砕することはできない。

「そうだと言ったら、そうなの!」としかならないだろう。

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たぶん、官僚や政治家や東電社員もそれぐらい頭が肉体を離れて、はるか天空からまるでゲームのように国家や企業の「戦略」を練っている。もしくは、外科手術か精密工学の「オペレーション」のように、自分が一つの機械として作動することに酔いしれている。

「情熱を胸に秘めながら、その己をすら客体視するこの冷徹かつ精巧な俺の『理性』」

とでも思っているのだろう。

(こうやって多くの男は自分の『お勉強のできる頭の良さ』である『悟性』を、軽々しく『理性』と勘違いしているが、それは理性を見下している。理性はもっと高貴で、人間の認識の頂点に君臨し、早々手に入れられるものではないーーーそう言いたいところだが、本当のところは、人はまず最初に『理性』を手に入れている。そしてそれを悟性で抑え付けている。『理性』が恐いから。)

そこでは人も子供も出産も個人も全部数値や統計に変換されて、それを処理してコスト管理して業績を上げるっていうのが、もう人格そのものになっている。

むしろ、モニターの前の肉体を持つ自分なんか消し去って、資本主義ゲームの中のキャラクターに自己投影して、スコアを上げれば上げるほど、その才能は認められ、「社会的」には存在を肯定される。

そこではその価値を「正当化=justify」するのは、「利益=benefit」だけなんだ。

そして今の時代、男性女性関係なく、ほとんど全ての人間が、そのマネーゲームに参加せざるを得ないわけだから、その生き方のどこが悪い?資本主義以外に何がある?それが人間の作り出した究極の社会システムじゃないのか?きれいごと言って貧乏になってどうする?と思って自己肯定する人は多いのだ。

だけど、今僕たちが守ろうとしてる「子供」ってのは、やがて社会体の歯車の一つとしてカウントされることを必然と見做すような、そんな観念上の存在じゃないだろう。

本当に僕は、男だけれど、このことを口酸っぱくして何度でも言いたい。

「子供」ってのは、唯一無二なんだ。

女性にしてみれば自分が全身全霊かけて産んだ命で、それが一生のうちのある特別な時間に、二度と繰り返せないたった一度の経験として、その肉体に刻まれた記憶となって、もう何者にも代え難い「わが子」と共に、永遠に自己の内にあり続ける、そんな存在なんですよ。

「存在なんですよ」なんて言ったけど、正確には僕には「そういった存在ではなかろうか?」としか言いようがない。

この感覚はおそらく男には理解不能なものであろう、と僕は想像する。

そういった個人の内面的な価値を理解できないから、子供を未熟な社会的コマみたいに一般化して考えて、「また産めばいい」とか心ないことが言えるのだろう。

「放射脳は親のエゴを子供に押し付けている」
「社会のために喜んで自分を犠牲にする精神は、親が子供にしつけるもの」
「社会貢献によって子供の価値は測られる」

そういった反ー反原発派のよく聞く言葉も根っこは同じだ。

「社会的ルールこそが何よりも優先すべきもの」と教え込まれて来た自分の考えを「正しい」と思うためには、その同じ尺度で、自分の子供も他人の子供も比べて「優劣」を付けるような「社会」が必要だもの。

そういう「競争社会」がなくなったら困るし、それを良しとする自分を肯定できなくなる。

だから、その「社会」「公」に敵対する、「個」「私」を主張するような輩は全力で排除したい。

自分の子供の「価値」なんて測る必要などないと思うのだが、この人たちは「測りたい」。「測って数字にしないと分からない」、その価値が。

子供を愛するのに理由など必要ない。ただそのものとして、ありのままの全てが、肯定されているはずなのに、「愛するための理由」がほしい。

何か成績表みたいなのとか、習い事たくさんしてるとか、いい学校入ったとか、そういう「誰の目にも明らかな順番」や「賞状」がないと、子供を愛せないし、幸せと感じることができない。

なぜなら(ここが重要だが)、

「自分がそうだった」

(そうやって親に愛されてきた)から。

ここが僕にはまったく理解できない。

もちろん、そういう「競争心」っていうのは、それは人間のリビドーの表れだから、それ自体としては否定しない。むしろ社会を成立させるためには、絶対必要だと思う。

僕が言いたいのは、そういった「結果」や「ベネフィット」を基準にした価値判断が、「子供の価値」「子供を愛する心」とは根源的には無関係だと言うことだ。

そんなもの取り払って、ただただ、子供を愛すること。

それが冒頭のブログ主の「子供を守りたい」という言葉になるんだと思う。

母親や父親が唯一無二の存在として子供を絶対的に受け入れる時、子供もまた自己の存在を、自分の命を、自分が生を受けた意味を、全て肯定することができるわけだし、その無償の「愛」を享受することが、生の根源的なエネルギーの奔流となって、その死に至るまで自己を貫いていくだろう。

それはおそらく何者にも代え難い「幸福」なんだと思う。

本当はだから、人間の幸福ってのは無償なはずなんだ。

そして、その無償の幸福に対する悦びが、人を人との結び付きへと、他者への繋がりへと、社会へと、そして自らが強くあらんと欲し、弱者を慈しむことへと、無償に駆り立てて行く(これが本来の『絆』だろう)。

つまり、鼻の頭に「金(かね)」という人参ぶら下げて競争社会で他人を蹴落として成り上がって、その暁に手に入れる物質的豊かさなんてよりもはるか以前に、人はまず「幸福」でなければならないし、本来そうであるはずなのだ。

だから、ここで母親が言う「子供」ってのは、もう何にも増して、一度きりの自分の人生に与えられた(神が授けたもうた、と言ったっていい)純粋な結晶のごとき、「幸福そのもの」なんだ。

その幸福から出発して、それが永遠に続くように努力することが、本来「生きる」ことであるはずなのに(だから、そのために相互扶助システムである社会は構築される)、いつのまにか、その「社会システムのために」人が生きなければならないと強制される。

学校で、家庭で、繰り返し「教育」され、人々はそれを当たり前のこととして、あるいは「しょうがないこと」として、受け入れるようになる。

やがて男がそのシステムの全権を掌握すると、その「速やかな運営」のためには、この「母性」が合理性や効率化の邪魔になる(特に戦争において、個人的愛情など足枷にしかならない)。

だから、まずその「幸福」を奪って、人は生まれながらに不幸であるかのような錯覚を植え付けるのだ。

(これはキリスト教の『原罪』や性のタブー視にも繋がるだろう)

そして、人は幸福を勝ち取るために、社会的に成功し、その過程において自分を犠牲にしなければならないということを、まるで人間の「本性」だ、みたいに言い始める。

これこそ基本的人権に対する冒涜じゃないのか?

子供は幸福に「なる」のではない。

子供こそが「幸福」なのだ。



参議院選挙2013 投票日 [雑感]

三宅洋平街頭トーク(大宮駅2013.7.18)【参議院選挙2013】

原発が爆発してからはさ。

津波のことについては泣いていいんだけど、

放射能被害については泣くことすら禁じられてきたよね。

国は、経済止まったら困るでしょってことで何も認めてくれなかった。

今日本で起きているのはさ、エコノミックファシズムだよ。




スタジオジブリ「熱風」7月号 特集「憲法改正」 [雑感]

スタジオジブリの小冊子「熱風」7月号を緊急PDF配信 「憲法改正」を特集

「憲法を変えるなどもってのほか」 宮崎駿

より以下抜粋。

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(半藤一利さんの『昭和史』を読んでいるが)もう辛くて。読めば読むほど日本はひどいことやってるわけですから。

(半藤さんの受け売りだが)日本の近代の歴史は40年ごとに区切られる。バブルが弾けた後は、どうしていいかわからないまま没落していく40年になっている。”失われた20年”どころじゃなくて、あと20年ぐらいは失われる(笑)。

堀田善衛さんは「歴史は前にある。未来は背中にある」と言っている。

憲法を変えることについては、反対に決まっています。

96条を変えて、、、というのは詐欺です。やってはいけないことです。

今は、ちょっと本音を漏らして大騒ぎを起こすと、うやむやに誤魔化して「いや、そういう意味じゃないんだ」みたいなことを言っている。考えの足りない人間が憲法なんかいじらないほうがいい。

耳に心地よいことしか言わない奴の話だけを聞いて方針を決めているんですから。それで国際的な舞台に出してみたら、総スカンを食って慌てて「村山談話を基本的には尊重する」みたいなことを言う、まったく。「基本的に」って何でしょうか。「おまえはそれを全否定してたんじゃないのか?」と思います。きっとアベノミクスも早晩ダメになりますから。

憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほがいい。

非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただそれ以上は「ちょっと待て」っていうのがやっぱり正しいと思うんです。本当はガンダムでも造って行進させりゃいいんじゃないかと思っているんだけれど(笑)。「実際の能力は秘密だから白状しない」とか言って、これは冗談です。

(日本にはもともと基本的人権の根拠になる思想がないと言われるが)やっぱり基本的人権よりいい考え方はないんだと思います。東のはずれにある国として、そういうものなしにやってこられたけれど、世界化、国際化する時には、共通の言葉を持たなきゃいけない。人権という考え方を輸入せざるを得ないんです。

今はっきりしなきゃいけないのは、産業構造をどうするかという問題です。「自分たちの食うものや着るもの、住むものは自分たちで作ろう」という思想を持たずに、ただ消費して、あとは全員がサービス業みたいな、そんな国にしたってしょうがないし、うまくいくわけがないに決まっています。

でも、そうなってくると、「徴兵制をやればいいんだ」というようなことを言う馬鹿が出てくるんです。そういう人たちには、「自分がまず行け」と言いたいです。自分の息子を、孫を送れ。そうすれば、徴兵制というものが何だか分かるから。

「自分はちゃんとしているけれど、他の人はちゃんとしていない」という発想を捨てろと。自分がちゃんとしているなら、そのくらいはみんなちゃんとしてるんだと思った方がいい。徴兵制度というのは最低ですよ。韓国でも、徴兵制度がどれほど若者を荒ませてるかということです。

どっかでずるずるずるっと貧乏になって行かざるを得ないんだと思います。それはもう、そういうことだからしょうがないですよ。将来の保証なんかない。でも、本来人間はそうして生きて来たんです。

僕は仕事場の隣に保育園を作って、本当によかった。いちばんよかったのは僕にとってなんです。チビたちがぞろぞろ歩いているのを見ると、正気に戻らざるを得ないんです。この子たちがどうやって生きていくのか、と考えたら、それは暗澹たるものだと思うけれど、じゃあ、生まれてこなければよかったのかって、そんなことは言えない。やっぱり祝福しなきゃいけないし、実際、祝福できる。だから「なんとかなるよ」と言うしかないんですよ。

人口が減っていくから、今後はアニメーションも成り立たなくなりますよ(笑)。「ジブリよ永遠なれ」もありゃしないです。

一言だけ言うとすれば、「流行っていることはやるな」ということ。

今、みんな口を開けば「不安だ」って言うけれど、「じゃあ、前は不安じゃなかったの?」と聞きたくなるぐらい、実は状況はそれほど変わっていないと思います。健康で働ければいい。働く場所がなければ、自分で作りゃいい。

不安が流行っているから不安になる。だから、流行ってることはやらないほうがいいです。

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*一つ、「実は状況はそれほど変わっていない。健康で働ければいい」という部分に関しては、原発事故の影響をあまり考えていないか、「それほどではない」と考えていることだと思う。

おそらく、そこが今までの「不安」とはまったく別な、人類未経験のものになるんだと思う。








憂さを晴らす [雑感]

バス停の駐輪場に自転車を停めて出かけた。

夜遅く帰って来て、暗がりの中遠目に見たら、

「サドル」がない。

「やられた」と思った。

というのも、その駐輪場には他にも何台かサドルのない自転車が放置されていたから。

近づきつつ「しょーがねーなー」と早々諦めて、「立ち漕ぎ」で帰ろうとしたら、後輪がガタつく。

空気が抜けている。

「え?パンク?いや、空気抜かれたか?」と思い、外灯の明かりで見ると、空気を入れるためのバルブ部分が丸ごとない。

瞬間的にひらめいた。

「これはいたずらだ。バルブはある。そこにある」

すぐ引き返して、自転車が停めてあった場所を見ると、案の定、地面にゴムとナットとキャップと3つまとめて落ちていた。

「ということは、サドルも盗まれてない」

なぜかそう直感して、駐輪場前の畑に目を向ける。

予言が的中したみたいに、それはやはり「そこ」に放り捨てられていた。

柵を乗り越えて、土の付いたサドルを拾い上げ、荷台に括り付ける。

空気が抜けて乗れない自転車を、トボトボと引きずりながら考えた。

「何なのだろう」と。

「何のために」こんなことするのだろう、と。

そいつがどんな人間なのかとかどうでもいい。

その歩道をおそらく夜中に通りかかった誰かが、またはバスを待っていた何者かが、ふと僕の自転車に目を留めたのだろう。周りには誰もいない。人通りもない。頭の中で「やるか?」とでも言ったようなおかしな欲望が芽生える。何だか分からないがムクムクと「この自転車を『台無しに』してやれ」みたいな気持ちが沸き上がる。

普通だったらフッと我に帰って、「いやいや、そんな馬鹿げたこと、やめとこう」と内なる声が静止するところを、「いや、待てよ、こんな夜中に何をくそまじめに考えてるんだ。俺の中の『衝動』になぜ遠慮する必要がある? 何で俺は、誰も見てないようなところで、そんなどうでもいい『他人の目』に躊躇しなけりゃならないんだ?なぜ迷う?えーい、ばかばかしい、この自転車のせいで、何で俺がそんなありもしない『道徳』に悩まなきゃいけない?こんな自転車なんかどうでもいいし、だからその『どうでもよさ』を証明するために、俺はやる。俺は俺が思いついたように、これを始末する。こんなもの、こうだ!」

思い付きからそう決意するまでおそらく一瞬だろう。スッと自転車に近づくと、カギでもはずすフリをしながらかがみ込み、後輪のエアバルブを手際よく取り外してばらばらと地面に落とす。そしてふっと顔を上げ、目の前に位置する締め付けレバーをゆるめると、立ち上がった拍子にでもサドルを引き抜いて、そのまま前方に放り投げる。

流れるような一連の動作。まるで熟練の技でも披露したかのような、何か異様な達成感に「誇らしさ」すら感じて、すっと背筋を伸ばして辺りを冷静に確認する。

任務は遂行された。そして、そのままその「余韻」に浸りながらバスを待つか、何事もなかったかのように立ち去る。

足早に歩を進めながら、あるいはバスの席に腰掛けて窓外の闇をぼんやりと眺めながら、今「己がしでかしたこと」に思いを巡らす。口元には笑みすら浮かんでいるかもしれない。

「何だ、何てことないじゃないか。まるで何も起きてない。ただ、何だか知らないが俺の気に食わなかった『どうでもいい自転車』のタイヤの空気が抜けて、サドルが外れた。それだけのことだ。何の感情も動かない。罪悪感もない。ただとにかく、俺は何かをやった。何か『やってはいけないとされること』を『やってやった』。そして『それ』は果たされた。誰にも何の迷惑もかけていない。俺でなければ、あの自転車は盗まれて『もっとひどいこと』になっていたかもしれない。自転車の持ち主? そんなこと考えることに一体何の意味がある?なぜ俺が、そんな見たことも聞いたことも、これから一生会うこともすれ違うこともないような人間の『気持ち』を察して、何よりも強烈に俺を支配する『俺の気持ち』の方を抑え付けなきゃならないんだ?俺はこの『クソみたいな世界』が決めつけた、『世間的に悪いと見なされること』に抵抗し、それを押し付ける無意味で嘘くさい『決まり事』をはね除けて、『俺』を、ただこの『俺だけ』を、今この瞬間に解放した。俺は『あいつら』に勝利した。そうだ、何だか分からないこの充足感は、日々この社会と他人やらに抑圧され続ける『どうでもいい俺』が勝ち取った『自由』の感得であり、落ちて行くだけの人生の刹那に神が偶然にも与えたもうた、一つの『恩寵』なのだ」

無意識は、どんなにつまらない人間の心の中でさえも、言語体系に比肩する秩序を持って流れる。

そして彼は、その心の機微の一切に気が付かない。

その意識にのぼるのは、ただ漠然と「何でもよかったが、とにかくやってはいけないとされる何かを達成した」という、ゆがんだ自我と欲望がもたらす、ゾクゾクとするような「爽快感」だけだ。

それが時に「犯罪」と呼ばれる。

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そして思う。

インターネットという無人地帯。

今日も、世界のあちこちで閉ざされた部屋。暇をもてあました職場。

スチール机に縛り付けられ、明滅するパソコン画面、スクロールする文字列を追う虚ろな眼差し。沈思し、また打ち続けられるキーボード

誰もいない。誰も見ていない。だからこそ自分の頭の中で無限に開かれた世界。

電脳空間をさまよいながら、「どうでもいい何か」を見つけては「どうでもいい自分」の「憂さを晴らす」。

ブログのコメント欄で、Twitterで、どこに行く宛もなく吐き捨てられる薄汚い言葉の数々。

そんな活動も、こと放射能に関しては、今なら国家の後ろ盾がつく。

国は「放射能危険デマ」をネット監視するための、一つの「鉱脈」を発見した。

積年の恨みは調停され、彼/彼女らは今やその独善的な憂さ晴らしに、国家的な「正義」さえも感じている。



何もかも放射能の影響にするのはおかしい [雑感]

そう人は言う。

では「何の」影響なのか?

大気汚染、環境ホルモン、ストレス、遺伝?

その何らかが「影響」しているなら、「放射能が影響」したっておかしくないだろう。

どこが「おかしい」のか?

結局、そうやって「放射能のせい」と言ってしまうと、

放射能=原発事故=原子力=経済=利権=核=安全保障

といった、個の力では太刀打ちできないような巨大なシステムとの関係を抜きにしては語れなくなるし、

その「権力」が、

「大丈夫、何もない、安心、安全です」

と言うのに逆らって、

「嘘付け!おまえらの金儲けのために俺ら犠牲にするつもりだろう!」

などと叫んだところで、

「はあ?その『権力』を選んだのはおまえら国民だし、その『権力』の庇護の下におまえらの生活があるんだろう?おまえらの電気のために原発が爆発したんだから、ちょっとぐらいの犠牲我慢しろ!嫌なら日本から出てけ!」

と恫喝されるのがオチだろうから、

「もう、どうすることもできない!考えるのやめよう!もう無理!」

と頭の中の戦いに敗れて、「国民」としての腹を決める。

あれだけの核事故が起きたのだから、何もかも放射能の影響ではないか?と疑うのは、「人間として」当たり前の推論ではないか?

だから、こう言うべきなのだ。

「『人として考えれば』何もかも放射能のせいと考えるのは間違ってない。しかし『国民として考えれば』何もかも放射能のせいにするのはおかしい」

と。

「国民」ねえ、、、。

その単語をどう捉えるかだろう。

それを人間社会に生きる限りは受け入れざるを得ない必然的な義務と捉えるか、権力が大衆を心理的にまとめ上げるためにでっち上げた虚構と見るか。

(口にする言葉の端々に、『思考の根っこ』が、氷山の一角みたいに顔を出す)





通りすがりの論理 [雑感]

反原発系ブログのコメント欄を見てると、いわゆる「荒らし」とは微妙に異なり、「通りすがり」と称して、「原発推進論・容認論」「放射能安全論」を妙に「真面目に」展開する人間がいる。

最初は「いずれ原発は段階的に廃止すべきですが」とか「あなたのおっしゃっていることは分かりますが、僕の話も聞いてください」みたいに、礼儀正しく切り出してくる。

そして「感情的にならずに、論理的に考えれば、、、」と話が進み、「原発を止めれば電気代が上がる」とか「国内産業が空洞化する」とか「CO2が」とか、あるいは「戦争よりも原発のリスクを選んだ」とか、もっともらしい、そして聞き飽きた「理由」を一通り展開する。

アルバイト工作員なのか単なるおせっかいなのか分からないが、もしかしたら顔が見えないのをいいことに、適当に反原発を「とっちめて」憂さ晴らししてるだけなのかもしれない。

「また工作員か?」「何でわざわざこんなところでコメントするんだ?」と誰かが突っ込む。

するとだんだんくだけた調子になって来て、

「こっちが『議論』しようとしているのに、人の話を聞こうともしない。工作員でも何でもないのに見ず知らずの他人を『安全デマ』とか『バカ』とか口汚くののしるような人間に、反原発などできるはずがない」とか「あなたたちは(と誰か一人の発言を十把一絡げにして)、いつもそうだ。こっちが『論理的に』話そうとしてるのに、すぐ感情的になって、まともに議論もできない。このブログはためになるが、コメントをしてる人間は程度が低い。カルトだ」とか、罵倒し始める。

そういうブログ荒らしのマニュアルみたいなのがあるのだろうか?

この手のコメントはあまり前後の文脈など関係なく、ふと思いついたように書き込まれる。

おそらく彼らはブログ自体をまともに読んでいないし、何か気に入らない記事を探し出して、機械的に突っかかってるに過ぎないのだろう。

だから「通りすがり」と名乗るわけだ。

ちょっと通りかかってチラ見しただけだが、「俺は頭がいいから」あっと言う間ににその主張の「論理的な間違い」を見切ったので、老婆心からそれを親切に指摘してあげているつもりらしい。

「あなたが反原発であるのはただ『感情的に反発しているだけ』だから、私のように『論理的に』『総合的に』『全体として』判断すれば、放射能なんてそこまで恐がる必要はないし、『全原発即時廃炉』なんて非現実的、分かるでしょう?」

そんな「正しいのは常に俺だけだ」みたいなぶしつけな一言で「議論」が成立するはずもないから、やがて罵り合いはエスカレートする。

まったくの一方通行で、「インタラクティブ」とはほど遠い。

結局ネットの「ヴァーチャルな」コミュニケーションなど幻影で、最初から破綻してるのだ。

現実世界で、あいさつもなしに瞬間的な言葉のやり取りでもって「事態が動く」ことなどないだろう。時には向かい合った相手の「感情」にも配慮した「気遣い」や「言い方」が、話の内容以上に重要になる。

そして、ブログというのも、ある意味、一つのコミュニティーみたいなもので、そこにはブログ主と同じ思い、「感情」を共有した人々が集まっているわけで、コメントする人たちの間には、時間をかけてそれなりの「空気」みたいなのが出来上がってくる。

彼らが気に入らないのは、その馴れ合いの感情的な「空気」なのだ。

気の合う仲間同士集まって何が悪い?と思うが、彼らはそれが許せない。

なぜか?

彼らはおそらく、ネット空間と自分の脳内空間を混同してしまって、ネットを何か、「論理と客観性のみで構成された知的理想郷」のように、自分の思考様式に合わせて都合よく解釈している。

だから、その自分が考える通りに、ネットはあらゆる対立する意見に対して平等に開かれていなければならない。

「閉じたコミュニティー」を作ることはその理念に反する。すべてはオープンに、感情を排して、明確な言葉でやり取りされなければならない。

そうすれば、現実世界と比べ物にならないぐらいのスピードでお互いを理解し、やがて万人にとって最適な真実に至るはずだ。

そうだろう?俺のどこが間違っている?

「それなのに、、、」と彼らは言う。

「それなのにこいつらと来たら、コソコソと徒党を組んで、陰で一方的にただ感情で原発の悪口言って、放射能デマ垂れ流しやがって、おまえらみたいなのが逆に健全な段階的脱原発をはばんでいるんだ。それに普通の人(あるいはB層)が読んで不必要に不安になったらどうするんだ? おまえら何も分かってない。ブログ主だって本当は俺と同じ『正しい情報』を望んでいるはずなのに、このままじゃダメになってしまう。だから、俺が言わなければ、、、」

奇妙な正義感に駆られて、その実ただ「俺」を押し付けんがために、一方的に「説得」しにかかる。

当然誰も耳を貸さない。

なんでおまえらは俺の言うことが分からないんだ? おまえらはバカか? 論理的に物事が考えられないのか?

そしてぶち切れ、ストーカーじみた攻撃を執拗に仕掛け始める。

おいおい、と思う。

そんな「開かれた世界」、おまえのその「閉じた頭の中」にしかないだろう。

世界中が俺の頭の中に入って、俺の論理で話が通じれば、この世界は全て丸く収まる、とでも言いたいのか。

(ネットを介して、俺の頭とみんなの頭が論理でL.C.L.みたいに溶け合って、か? 人類補完計画じゃあるまいし)

だが、むしろそれは言い訳に過ぎない。主たる目的は「気に入らない相手の怒りを引き出して、それを根拠に己の憂さを晴らすこと」なのだから、そのために当の自分をも欺く「猿芝居」を打って、最初から開くつもりもない議論を一方的にふっかけてくるのだ。

(悲しいほど非生産的なニヒリズムだが、ある種の自傷行為と同じで、絶望の際で生を確認しているのだろう)

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ところで、この自己完結型の「論理」は、官僚や原子力推進派の思考と似ている。

現実に原発が爆発してなお、頭の中の「安心・安全」を胸を張って振りまくことができる彼らは、ネットどころか「この世の通りすがり」なのだろう。





足るを知る [雑感]

酒はたまにビールを飲むぐらいなのだが、3.11前しばらくワインを飲んでいた。

空港の免税店で何となく奮発して買った$100ぐらいのイタリアワインがえらくうまかったので、次は近所の酒屋でおすすめのワインを2000円ぐらいで買ってみた。

たいしてよく分からないのだが、安いワインはやはりその$100のワインに比べるとまったくおいしくない。

しかし、5千円とか1万円とか出して酒など飲む気にならないし、1000円ぐらいだと多少うまくても「値段の割にコストパフォーマンスが高い」と言ったそれなりのものでしかないので、どうせたまにしか飲まないのだから、2、3千円でも「これはうまい!」と言えるワインはないのか、ネットで調べて通販で購入し、いろいろ試して飲んでみた。

結果、赤も白も数本に絞られ、だいたい同じのしか買わなくなった。

そのうちの一つがこれ。

barbera_alba.jpg

エリオ・アルターレのバルベーラ・ダルバ。酸味、凝縮感、タンニン、果実味とか、いろいろワインの味を表す言葉はあるが、だいたい今ひとつのワインは何かが際立って何かが足りない。しかしこれは本当にバランスが良くて、上品。そして、開けてすぐおいしい。もうちょっと安いので(と言っても2500円-3000円ぐらい)ドルチェット・ダルバというのがあるけど、そちらもおいしい。

2007年には英国「デカンター」誌が選んだイタリア最上の格付けワイン15社の一つに入っている。

エリオ・アルターレは、1970年代に当たり前に使われていた化学肥料や農薬をやめて、仲間と一緒に牛を買って畜産農家に預け、その糞を肥料にしたり、グリーン・ハーヴェスト(ブドウの品質確保・向上のために、まだブドウが色付く前の緑色の時点で余分な房を切り落としてしまう作業。切り落とした房はそのまま畑に放置して肥料とする)を行い始めた。酸化防止剤もイタリア政府の基準以下しか使わない。

だいたいうまいと思ったワインは、ビオかそれに近いことをしている。

また品質を維持するために、生産量を制限している。

彼の名刺には、名前とVITICOLTORE(ブドウ栽培者)という肩書きだけが記されている。

曰く、

「覚えておいてください。この世には、ヴィティコルトーレと企業家の2種類があります。両者は全く違います。

企業家は醸造と畑の担当者を置いて、ときには100ヘクタールの畑から大量のワインを造ります。

私の10ヘクタールの畑には8人が働いています。

ブドウの樹を尊重し、土地の力を使い果たさないよう、ワインを手造りします。

樹が死んでしまったら、我々も生きていけません。

お金のためではありません。土地とそこに働く人々を守るのが最も大切です。

それがひいては、飲む人を守ることになるのです」

また、そのテイスティング・ルームの壁にはこう記されている。

「伝統とは、成功した改革の積み重ねである」


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以下、今はリンク切れになっている、読売新聞の記事より。

土地とそこに働く人々を守る

エリオ・アルターレ氏

バローロ・ボーイズの旗手



バローロの夢見る革命家

 イタリアワイン界で革命家を選ぶなら、エリオは間違いなくその1人だろう。

バローロの因習を打破し、栄光を取り戻した。

だが、革命は流血や痛みを伴う。

この男もまた父親との不和という苦しみを乗り越えねばならなかった。



 17歳から父の仕事を手伝い始めた。

1970年代半ば、バローロは危機的な状況だった。

かつては「王のワイン」と称揚された赤ワインが高い値段で売れない。ペルケ(何故か)?

少年は答えを探すために77年、ブルゴーニュへ旅立つ。

彼の地の、ブドウ栽培農家が単一品種を栽培する構造は

バローロと似ている。

ワインがバローロの10~20倍の価格で売れている秘密はどこにあるのか。

 「3つの法則を見つけました。収量を抑えた偉大なブドウなくしてはいいワインが生まれない。次に、果皮のマセラシオン(醸し)を工夫すること。そして、醸造過程を清潔に保つこと」



 バクテリアに汚染された大樽で、未熟なタンニンを抽出したワインは、長期熟成させてもおいしくなるはずがない。

改革は畑から始まった。

78年、地域で初めてグリーン・ハーヴェストを行った。

父はひざまずいて、「止めてくれ」と懇願した。



 「ブドウは神から授かるもので、それを切り詰めるのは神に逆らう行為という考えがありました。天罰が下ると思ったのです」



父とは半ば勘当の間柄に



 畑で化学薬品の使用を止め、冬季の剪定も厳しくした。

80年ごろ、父が枝を切るはしから、残した主枝を切っていった。

父はハサミを彼の足元に投げつけて、吐き捨てた。

「オレは60年間もこの仕事をしてきた。

なぜ、お前に教えられなければいけないんだ」と。

父には、大量のブドウを育てて家族を支えてきたという自負があった。

それを息子に否定されるのは我慢ならなかったのだろう。

 セラーでは、酸化を招く伝統の大樽から短期間で熟成させるバリックに切り替えた。

83年。大樽を電気ノコギリで切りつけた。父は怒った。

遺書を書き、遺産は2人の姉のみに譲るとしたためたほどだ。

姉を説得して施設と畑を買い戻すのに97年までかかった。


 「父とは対話の余地がありませんでした。『一家の主の自分に従え』というわけです。

『お父さんの正しさを証明するために、私に間違いをさせてくれ』と言ってもだめでした。

やり方を変えるなら、自分がいなくなってからにして欲しかったのです。

でも、私は目の前のワイン造りを変えたかった」

 

革命とは巨大な宮殿を打ち壊すばだけではない。身近な肉親との相克を乗り越えることから始まるのだ。

エリオがマルク・ディ・グラッツィアと二人三脚で進めたバローロの改革は地域に浸透した。

短期間の発酵・マセラシオンとバリック熟成は、バランスが良く、早くから楽しめるバローロを生んだ。

モダン・バローロとして世界の注目を集め、貧しかった産地に希望をもたらした。


 その過程では、試行錯誤もあった。彼の醸造法は地域の伝統にも、アカデミックな世界にも反していたからだ。発酵期間を昔ながらの1~2か月から15日、8日、4日と短縮していった。

80年代後半、シャトー・マルゴーのポール・ポンタリエ支配人から

「バリックの使い方が違う」と指摘されたこともある。

その結果、バリックにワインを合わせるのではなく、ワインに合わせてバリックを使う熟成に開眼した。


 「ワインは解釈なのです。ワインとは喜びの飲み物。

父のワインは酸化して、タンニンが強かったから好まれなかった。

私は、今飲んで楽しめ、いつ飲んでもおいしいワインを造りたいのです。

20年後においしいワインではありません。ワインの造り方に決まりはない。

魚の調理法と同じです。大切な基本原則さえ守れば、あとは甘口にしようが、濃い味にしようが自由です」


 関係が修復できないまま、父は85年に亡くなった。

息子にはつらい晩年だったが、目先の安寧で妥協しては、現在の成功は得られなかっただろう。

穏やかな語り口の裏に、鋼の意志を秘めている。

 「父が天国から見ていてくれれば、現在の状況に納得してくれたでしょう。

このワインこそが30年間かけて、私の出した結果なのです。

アルターレの名前は世界で知られています

。私は革命志向の反体制主義者だったかもしれません。でも、非常に幸運でした。

引き出しに詰め込んだ夢の多くを実現できたのですから」



土地とそこに働く人々を守る



 エリオの名刺は名前とVITICOLTORE(ブドウ栽培者)という肩書きだけを記した簡素なものだ。

農民としての誇りがうかがえる。

「覚えておいてください。この世には、ヴィティコルトーレと企業家の2種類があります。

両者は全く違います。

企業家は醸造と畑の担当者を置いて、ときには100ヘクタールの畑から大量のワインを造ります。

私の10ヘクタールの畑には8人が働いています。

ブドウの樹を尊重し、土地の力を使い果たさないよう、ワインを手造りします。

樹が死んでしまったら、我々も生きていけません。

お金のためではありません。土地とそこに働く人々を守るのが最も大切です。

それがひいては、飲む人を守ることになるのです」


 1つのことをやり続けるだけで、人間はここまで偉大な思想家になることができる。

日々の仕事を深遠な哲学に昇華できる一握りの人間は、どこの世界にもいるものだ。

 「ピエモンテに来てくれ。畑で働く人々を見れば、私の言うことが実感できるはずだ」。

真摯な表情で、固く手を握ってくるエリオの瞳を見ながら、本物の造り手に出会えた幸運をかみしめた。



プロフィール

エリオ・アルターレ氏


1950年9月11日生まれ。醸造学校には行かず、
父からワイン造りを教わる。
25歳になったときから、様々な改革に取り組み始め、
モダン・バローロの基礎を築いた。

世界遺産「チンクエテッレ」で
若い造り手を助けるボランティアにも力を入れている。

テレビの権威 [雑感]

今回の選挙の結果にはがっかりしたが、嘆いてばかりもいられない。

「日本人はバカだ」で済めば、話は簡単だが、あいにく自分も日本でしばらくは生きなければならない日本人だから、こんなところで諦めるわけにはいかない。

人々は「何も考えずに」投票したわけではないだろう。

きっと、その人なりによくよく考えて、人によっては「苦渋の決断」をしたのかもしれない。

しかし、そういう自発的な判断そのものが、「テレビ」によって巧妙に仕組まれている。

テレビや新聞や広告から断片的に情報を刷り込まれて、自分で選んだつもりで、選ばされている。

真実を探求しようなどと思わず、テレビに映ったものこそが真実だと手っ取り早く感じる「テレビ脳」

何よりも、そうやってテレビで流される情報は、巨大な利権によって選別され、守られているわけだから、それを信じれば、すなわち権力に寄り添うことになる。

結局、日本人はテレビを信じてるというより、「権威」に弱いのだろう。

ネットの影響力など微々たるものなのだと、今回の選挙で痛感した。


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