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天才を待ちわびて [雑感]

台所で料理や片付けをしている時には「自分のやりたいように」やる。

まな板の置き方や水切りかごへの皿の並べ方とかそういった「細かいところ」をイチイチ気にしたりしない。

ただそうは言っても結婚して子供ができて家事を共同でやるようになってから微妙に変化したとは思う。

「配置」とか「段取り」とか「効率性」とか多少は「マシ」になってきているとは思う。

そういうことを「まったく」意識しない時はたしかにあった。

学生の時から始まった一人暮らしの間、一体自分はどんな風に「家事」をやってきたのか?

記憶していないぐらい本当にテキトーだったと思う。

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マティスという有名なフランス人の画家がいて、その人の絵とか訳分からないぐらいド下手なのもあるんだけど、たまにものすごい傑作がある。

だいたい大きめの油絵がいいんだけど、一番すごいのは晩年の巨大な「切り絵」とか壁画だと思う。

すごいんだけど「やりたいようにやっている」ようにしか見えない。

「やりたいようにやっている」んだけど度肝を抜かれる。

「何なんだろう?」と思うから立ち止まって眺めてああでもないこうでもないとひとしきり感心する。

感心してずっと見ているのだから「感動」しているのだろう。

ポイントは「やりたいようにやる」という「誰もが持っている全能感」みたいなものを、マティスが熟知して「目に見える形にしている」ところだ。

「自分の中でははっきり分かっている全能感」っていう意味で言えば「僕サッカー代表でゴール決める」と豪語する子供がその子自身の内において「はっきり分かっている」のと似ている。

問題なのはそれを「目に見える形にする」ことの方で、言葉の真の意味で「ゴールを決める」のは現実には本物の日本代表選手の中にしかいない。

「ワールドカップでゴール決める」なんていうデカい話になればいい大人だったらさすがに「妄想」と自覚して自分とは無関係なものと割り切るけど、「鉛筆を使って紙の上に線を引く」程度だと、何となく「俺にもできるんじゃないか?」とか「こんなの誰にでも描けるんじゃないか?」と思わせる「魅力」がある。

それが「美術館の壁に永久展示されている」ということはサッカーで言えば「ワールドカップの歴史に名を刻んだ」みたいなイメージだ。

「俺のシュート」じゃワールドカップでゴール決めるなんて夢のまた夢だけど(そういうCMならある)、「俺の落書き」だったら美術館に掛かる可能性だってないことはないのではないか?みたいな気分にさせてくれるところがマティスやピカソの魅力の一因ではあると思う。

濱田庄司という陶芸家が「シャッシャッ」と釉薬を焼き物に引っ掛けながら「こんなこと俺にもできるというヤツがいるが、この一瞬に数十年の修練が凝縮されている」みたいなことを言っていたけど、そういう「研ぎ澄まされた感覚に与えられる社会的価値」がたしかにあるんだ(サッカーにだって『嗅覚』や『イマジネーション=想像力』といった感覚が要求される)。

どこかの動物園で象が鼻に筆を持って絵を描いたりしてるけど、それとマティスの絵は同じに見えるって人は、ワールドカップのシュートも草野球のホームランも同じだって考える人だろうから、「その人の内においては」たしかに全ての価値はイメージとして等価なのだから幸せだと思うし、否定されるいわれもない。

ここからは「みんなが『すげえ』って認めるだけの別格な感動はあるでしょう、マティスにもワールドカップにも」って考えてる人にしか分からないレトリックになる。

マティスの絵にシロウトの描き殴った落書きより価値があるとするなら、それはその「気楽に引いた線」にマティスが長い時間をかけて「身につけた判断力」が表出しているからで、それは「創造」っていうよりも誰もが持っている認識能力の「拡張」とか「補正」に近い。

自分たちが知っている感覚(線で顔を描くのは難しいとか歴史ってワクワクするとか)の延長上でそれが理解できる。

たぶん、「天才の仕事」というのはそういうものなんだと思う。

そこで料理の話だ。

僕が台所で「やりたいように炊事をした」ら、きっと「ぐちゃぐちゃ」とまでは行かなくても、がんばった分何となく「とっ散らかった」状態にはなる。

もしマティスが「天才料理家」で、時空を超えて家の台所で仕事をしたら、文句も言わずにさっとそこにある調理用具と食材で一流の料理を作ってみせるだろう。

妻はほれぼれとその姿を見て料理を一口食べて「涙を流し」きっとその全てを「真似したくなる」に違いない。

まず目に見えるところから入るかもしれない。包丁の使い方とか食材の並べ方とか片付け方とか。

ところが大抵の「夫」はこんな天才料理家じゃなくて凡庸な「評論家」なんだ。

食事の用意が出来てないと言えば「ほら見てみろ、こうやるんだ!」と言わんばかりにこれ見よがしにやってみせて「どうだ」と無言の圧力を加える。

チョロっと手を出して来て「何で冷蔵庫の中がこんなにぐちゃぐちゃになってる?オリーブオイルはどこだ?フライ返しは?日頃からちゃんと整理していればこんなことにならない」とか文句しか言わない。

「私には全部分かってるの!何しゃしゃり出て来て偉そうにしてるんだこのタコ!」

これなら手伝ってもらわない方がマシと思うがお互い忙しいからやってもらわないわけにもいかない。

幸い日本には「もっと立派な評論家先生」っのがうじゃうじゃいて、その夫の姿に対して「いやいや育メンとしての姿勢がなってませんね」とか「弘法筆を選ばずですから今ある台所と食材で最高の料理を作れるのが天才料理家ってもんですよ」とか何とか「さらに偉そうに」テレビで言ったり本に書く。

夫に「見下された」と感じている妻がそれを聞いたり読んだりして溜飲を下げる。復讐としてそんな「もっとすごい人」の言葉を引いて言う。

「ほら見て。やっぱり『本当にすごい人』は違う。やるならこれぐらいやらなきゃね」

とか何とか(あんたごときに偉そうに言われる筋合いはないの意)。

評論家きどりの妻による評論家きどりの夫のための「本物の評論家」による評論。

評論、評論、評論の連鎖、評論の応酬。

そんなどん詰まりから抜け出したくなるからさらに高みを目指す。

「ああどこかに『サッと神業のようにこのどうしようもない台所、このぶっちらかった台所で、最高にうまい料理を私に食べさせてくれる人』がいたら!

その時私はどんなにか幸せになって心を入れ替えて、その姿を真似ていずれ絶品の料理を作れるようになるだろう!」

今の日本ってのはこの「ぶっちらかった台所」みたいなもので、そこでみんなが「食ったこともないような夢の料理」や「天才料理家」を待ちわびながら、それでも日々食べなければならないから段取りの悪いお母さんや手先のおぼつかないお父さんが作るご飯を「とりあえず」食べて「しょうがない」と諦めてるようなものだと思う。

「キッチンを改築する」と大言壮語してみたり「粗食で十分」とか「食べるものないよりはマシ」と自己憐憫してみたり「その前に食材途絶えて餓死するかも」と嘆いたり。

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回りくどくなったがこの話の主題は「天才」を根本的に別な人種と考えて「あがめたてまつる」悪い習慣を止めようということである。

それは自分が努力しないことを正当化するための悪癖だから。

マティスは言う。

「私は日々進歩している。それが私の本分だ」









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一つ屋根の他者 [雑感]

結婚に対する決定的な認識の誤りがあってそれがまかり通っている。

その広く流布した誤謬のおかげで多くの夫婦が危機に陥っている。

それは「理想のパートナー」というおよそ絶望的な幻想で、なぜそんな観念が必要とされたのか不思議になる。

結婚するのは相手が「理想のパートナーだったから」と言うならその「過去の栄光」が二人の最高の到達点となり、それゆえ結婚生活は年を重ねるごとにただ落ちて行くだけの長い下り坂となる。

妻が聞いたラジオ番組の対談で何とかという精神科医が、

「だから夫はその期待を裏切ってはならず、『ありのままの自分』なんて家庭で見せてはならず、すなわち『夫』を演じることを『当たり前』と感じれば幸せになれる」

と言っていたらしい。

僕に何か言いたかったのだろうが聞いた瞬間に、

「本当にそれ精神科医が言ったの?まったく想像に難くないけどだから日本の精神科医はダメなんだよ。だってその『演技』が原因でみんな『うつ病』になってるんだよ。家庭だけが『ありのままの自分』でいられる場所で、そこでさえも『演技しなければならない』なら、それはその元々の『ありのままの自分』がすでにおかしいのか、妻も夫も『ありのままの相手』を受け入れられないのかどっちかだよ。つまり最初の『理想のパートナー』っていう設定が間違ってるんだよ」

と言った。

本当にこういう資本主義のあまい汁を吸ってるインチキ精神科医がその「メシの種」である「患者」を量産するためにこんなデマカセを偉そうに垂れ流してるのかと思うとうんざりしてくる。

だから一組でも多くの夫婦が救われるためにここに言うけど、結婚っていうのは「理想のパートナー」を見つけて「始める」ものじゃなくてそこへ「至る」ものなんだ。

「私を完璧に理解してくれるもう一人の私」みたいな「理想のパートナー」という幻影と「結婚20年してだんだん化けの皮がはがれる赤の他人」と比較したら、どんな人間だって「ぼろ雑巾」か「ふるだぬき」みたいに見えるだろう。「そう見えない。私の相手は完璧だ」と言い張るならただその「色眼鏡」が外れてないだけでいずれそのレンズは曇ると思う。

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人は一人では生きて行けないけど、同時に自分と同じ考えの人間もまた存在しない。

自分の認識は自分にしか属さず、言葉の真の意味で言えば「分かり合える他人」など存在せず絶対的に「孤独」なんだ。

こんなの哲学的に当たり前の命題だ。

明治生まれの今は亡き僕の祖母は言ったんだ。

「結婚は人生の始まりだ」

って。

それで僕は若い時「何言ってんだ」と思った。結婚しようがしまいが俺の人生はもう「始まってる」って。

だけど、結婚してからまったく理解し難い形だったけど「いや、ばあちゃんは正しかったのでは?」とおぼろげに思った。

そして、子供が出来て育てる中でその思いはますます強くなった。

僕が今漠然と考えることは、人間というのは一人でいる限り恐ろしく「子供」なんだと思う。

その「子供」がもう一人の「子供」と一緒になる。

そしてまるで遊んだり喧嘩したり仲直りしたり話し込んだりしながら少しずつ「大人」になる。

「〇〇ちゃんは私の大親友!」と言ってみたり「大嫌い!」と絶交したりすることもあるかもしれない。

それで少し大人になるとそこに「もっと小さい子供」が加わる。

その子供を少しずつ「大人にするために」子供が力を合わせて面倒を見ることで「ちょっと大人になった子供はもっと大人になる」。

本当の意味で成熟した大人は存在せず「未熟な子供同士」が生活を共にすることで少しずつ「大人」に近づいて行く。

これが家族なんだ。

つまり人は自分が「人として成長するため」に「絶対的な他者」を必要としている。

夫なり妻という存在はそうやって絶対的な他者でありながら「一つ屋根に暮らす」という重責を引き受けて、「人が人になるための道」を共に進むことに協力してくれる人なんだ。

そして生まれて来る子供というのは「必然性をもった他者」で、そしてまた「一緒に大人になる一人の人間」なんだ。

もし家族に「素晴らしさ」があるとすれば、それはこの圧倒的に孤独で未熟で、それでもやはり「成長したい」つまり「生きたい」と切望する自分という他者に対して、決して相容れないもう一人の他者として「ずっと一緒にいてくれる」ところだ。

それを人は無償の愛と呼ぶ。

だから「理想のパートナー」という概念はこの命題に対して真逆の表象になる。

「結婚は人生の墓場」とはよく言ったものでそれは「理想のパートナー」という虚像と対を為す。

「理想のパートナーだから一緒にいられる」と考える人間は結婚をいずれ「呪う」ことになるだろう。

人として幸せを望むならその事実をまず受け入れた方がいい。

結婚披露宴の「ケーキ入刀」は「初めての共同作業」と呼ばれる。

それは謂れのないことではない。










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心の中のエコノミー [雑感]

最近、子育ての子供への影響に関して調べていて、アスペルガー症候群やADHDやアダルト・チルドレンについても考えるようになった。

ネット上ではたくさんの「自称」アスペルガーかADHDかACの方がブログを書いている。

人間の「心」の構造を考える上でとても参考になった。

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*僕の見解をまず最初に言っておく。

「先天性の」「自閉症」や「アスペルガー症候群」を抱える人はいる。

だけど「自閉症スペクトラム」や「アダルト・チルドレン」に関して言うと「白黒つける」のはかなり難しいと思う。

その「症例チェック」などが「ほとんどの人に当てはまる」のは、その原因が身体的な「器質障害」よりも現代社会の「経済活動=エコノミー」に由来する「認知の歪み」にある場合が多いからだ。

そのため膨大な「治療法」や「カウンセリング」が「金儲け」として存在している。

現代の「心の病」ってのは「治療と金儲け」が一体化していて「治療によって悪化する=悪化させて治療漬けにする」という悪徳商法みたいなことがある。

ほとんどの精神科医はあなたの心の中の「エコノミー」を取り除いてはくれない。

むしろ彼らの「エコノミー」のためにあなたの心を搾取しようとする。

だから「決めつけ」によって精神科や心療内科に通うのは慎重になった方がいいと思う。

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さてブログの話だ。

その「自称アスペルガー」の人が「洗い物を必ず一個残す」という自分の奇妙な癖を分析していた。

おかしいのだが、台所のシンクの中にスプーンでも何でもいいから「一個残すと落ち着く」らしいのだ。

「最後までやり切ると、また次にやらなければならないというプレッシャーができるから、少しだけ残しておくのかもしれない」と自己分析していたが、理由はよく分からないと言う。

だけど、これはアスペルガーの「癖」というよりも効率重視の社会や親から与えられるプレッシャーに抵抗する言葉にならない心の「表現」なんだと思う。

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僕も考えてみれば、たしかに「最後までやり通す」ということが得意ではなかったが、あることに気付いてからだいぶマシになった。

自分でもものすごく奇妙に思うのだが、例えば「ペンを筆立てにさす」とか「棚の上に物を置く」と言った場合に、「入れる瞬間」「置く瞬間」に目をそらしている。

次の動作のために振り返ったり立ち去ろうとしている。もちろんほんの「一瞬」だから見なくてもほとんどの場合失敗することはないんだけど、それが「皿洗い」だったりすると皿を割ってしまうこともある。

そして僕は「皿を割る」あるいは「物をひっくり返す」ことがかなりの頻度であった。

何十年もそうやって「ひっくり返し続けて来た」のだ。

それが「マシになった」のは、「あれ?俺なんか目そらせてない?」と気が付いて「意識的に」とにかく「最後まで見届ける」ようにし始めてからだ。

単純に言えばただ「ゆっくりやる」というだけのことだが、以前はそうではなかった。

「テーブルの上にコップを置いてから本を取ろう」という時、コップがテーブルに着地するその瞬間に「0.1秒早く」次の動作に移ってしまう。

そのせいで「置く」という手の動きと「取る」という手の動きが一瞬重なってしまう。「体はまだコップを置いている」のだが「心はすでに本を取ろう」としている。

すると「手の軌道」が数ミリずれて、それがコップの取っ手に引っかかってコーヒーをこぼしたりするのだ。同じ原理で皿が手から滑り落ちる。

これはいつも「急かして」「早く終わらせよう」としているせいで、僕は基本的にこれを「エコノミー」に捉われた「貧乏性」だと思っている。

何でもいいから「得したい」「1円でも1秒でも無駄にしたくない」という「貧乏根性」が骨の髄まで染み付いてしまい、日常生活の中でさえそれが出てしまう。

動作と動作の間のインターバルを極力なくす。10円/1秒だとして10回ぐらいは連続して成功するから100円ぐらいは稼げる。

しかし「もっと早くもっと得したい」という焦りによって11回目にぶっちらかしてその後始末に1分かかって逆に600円「損」してしまう。

コーヒーをひっくり返したのはだから「癖」とか「不注意」ではなく経済に蝕まれて欲を出しすぎた「心のひずみ」のせいだ。

それを「うっかり」とか「ぼーっとしていた」とか「あーあ、またやっちゃった」とかどうでもいいように言うのは本質から目をそらすためだ。

あるいは「俺は元々こういう人間だからしょうがないんだ」と諦める。

僕もずっとそう思って来た。

だけどこういう自分で自分をだまして本当の理由を「偽装する」心のメカニズムもまた「エコノミー」の要請なのだ。

(資本主義の競争原理が作り出す『うつ病』でもシステムはその原因を『個人の気質のせい』にしたい。自分よりも会社を優先し組織に忠誠を誓う個人の内面がそれを反映してしまい、自発的に『心の問題』をスケープゴートにする。だから労働条件が悪化すれば精神科医が儲かるだろう)

だからこれは別に「金銭的に得したい」という話ではない。

「残業を1分でも減らしたい」そして自分の時間を作って「1文字でも多く本が読みたい」「1ページでも多くウェブサイトを見たい」「1秒でも長く寝ていたい」

とにかく「時間がもったいない」という感覚が体を支配する。

「損した気分」のせいで無性にイライラする。些細なことが気に触る。飽きる。途中で放り出したくなる。

ごまかすために「低血圧のせい」「更年期障害のせい」「血液型のせい」「遺伝のせい」と何だか分からない言い訳をする。

自分の心と体の動きがぴったり一致していれば万事うまく行くのに、学校では先生から、会社では上司から、あげく家庭では「勤め人の親」から「早く!」「もっと!」「まだ?」と延々と急かされて、そのせいで奪われた自分の時間を必死で取り返すために誰も見ていなくてもまだ「急ぐ」。

急いでないととにかく落ち着かない。

この体と心の乖離が進めば「皿落とす」どこじゃ済まないカタストロフが待っている。

「この不調はもしかしたら仕事のせい?」なんて疑ってスローダウンしたら置いて行かれる。

それどころかまるで「さぼってる」みたいな罪悪感さえ感じる。

心が言う。

「エコノミーさんが見てるぞ!」

もはや心を監視しているのは「我が内なる神」ではなかった。

さあのんびりしている場合じゃない。急げ急げ。私には時間がないのだし、もっと効率よくやればうまくいく。もっと手際よくやれば未来が開ける。

誰にも頼まれていないのに失敗したのは「血液型のせいだ」「DNAのせいだ」と不可知の自然現象に責任を押し付ける。

見えざる「心の番人」である「エコノミーさん」のためなら解離性障害になっても「急いてる自分」をアピールする。

我急ぐゆえに我あり。

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僕は自分の行動を「最後まで見届ける」ようにし始めた時、最初すごく「居心地が悪かった」。

何と言うか「損した気分」になるのだ。1秒でも0.1秒でも端折れるところを端折らずに「悠長に眺める」ことの損失。

だけど「まあいいか」と繰り返していると不思議とそれに「慣れる」。

そして実はその方が「効率がいい=エコノミカル」だ。

それがスタンダードとなってその意識でもって生活を見直すと、恐ろしいぐらい自分が「焦って」生きて来たことに気付く。

布団をたたまないのも自炊しないのも食器洗いを後回しにするのも洋服を脱ぎ散らかすのもネット見ながら食事するのも歯を磨きながら本を読むのも全部「エコノミー」なのだ。

「俺は忙しいからできないんだ」と一生懸命な自分は思いたがっている。

忙しくて忙しくて大変だ、だからがんばってるんだ偉いんだと思いたいし思われたい。

天上の「エコノミーさん」ならきっと見てくれている。

そんな「エコノミーさん」に「忙しいところ」を見せなければ。

死ぬほど忙しいということを分かってもらうためなら逆に「できない」方がいいのではないか?

「できちゃったら」まるで忙しくないみたいだから「できないこと」をたくさんやろう。

「忙し過ぎてできない」のでなく「できなさ過ぎて忙しい」というわけだ。

その全てが本来の意味で言うと「効率が悪い」にもかかわらず、ただ自分の「忙しさ」を確認するために何でもかんでも中途半端に手をつける。

そういう一切が本当にばかばかしくなった。

コップを置く時にはコップのことを考え、皿を手に持っている時は皿のことを考えた方がいい。

そうすればシンクに残されたスプーンごときで「自己表現」など試みなくなるだろう。

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追記:

偉そうなこと言ってる矢先から、今朝みそ汁作ろうとして味噌が入っている「容器」を出して、別のことを考えていてそれを使わないまままた仕舞ってしまった。
こんなのただ「ぼーっと」してただけの話で、要するに自分は「そういう人間なんだ」と思わざるを得ない、、、。




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他人事 [雑感]

全てを他人事として考えることは効率がいい。

感情など排して、あらゆるものを等質に、フラットに、モニター越しに見るように、「客観的に」俯瞰する。

自分はCCDカメラであり、MP3レコーダーであり、記録されたデータは全てディスクに保存され、CPUが処理する。

主観を消し去って、膨大な情報を集約し、「大局的に物事を見る」

そういう才能に長けた人が、もてはやされ、のし上がり、尊敬もされる社会。

テレビで饒舌に語るその「頭のいい人たち」を見て、人々は自分や家族のことを中心に考えるのは、何か利己的で、恥ずべきものであるかのような不安を覚える。

「おまえも俺ぐらい勉強すればいつか出世できるよ」

そう言わんばかりの彼らが、唯一、絶対に記録も分析も相対化もできないものがある。

いや、むしろ積極的に評価しないように「除外する」対象がある。

それは、彼ら自身だ。

ビデオカメラがビデオカメラ自身を直接写すことができないように、人は自分自身を客体化することができない。

どれほどの言葉を尽くそうとも語ることができず、立ち止まって眺める事も、意思の力で心臓を止めることも、痛みを消す事もできない。

自分が一番よく分かっているつもりで、もっとも不可解なものが己の中心に居座っている。

この世に生まれて来たからには、人間の身体と意識の中でただ流れるがままに変化し、死ぬまで運動を続ける一つの「自然」。

しかし、そんな究極的に個人的な内面など、人を数字として扱うような社会にとってはどうでもいい話だ。

社会に出て、仕事をし、他人に認められ、より多くを稼ぎ、「世界と戦う」ためには、そんな正体不明の「神秘的な力」など邪魔にしかならない。

だから、まず人は、社会化するために、分別を身につけるために、根源的な「自己」を消す。

そして、その存在基盤を、より巨大で社会的なもの、例えば国家、宗教、経済などに置き換える。

またはより分かりやすく、「一流企業に勤めたい」「司法試験に合格したい」「ブランド品がほしい」「アイドルになりたい」と言った通俗的な目標を設定し、際限のない欲望を疑いも持たずに全肯定する。

そういった「移植」(ある種のロボトミー手術?)が完了してしまえば、あとは楽なのだ。

ぺらっぺらの表層的人格が織り成す資本主義のネットワークの中で利益を嗅ぎ回り、他者を押しのけてでも、「豊かさ」のためがむしゃらに泳ぎ切る。

その努力に全身全霊を傾ける。

その時「システム」は道を開き、「ご褒美」を与えてくれる。

それに比べれば自然の方がはるかに冷酷で無慈悲だから、人は「群れ」から外れることをためらう。

「群畜本能」に従い、生き残らんがために、その「ギャンブル」に参加する。魂を捨てて「勝つためのコツ」を身につけ、システムに組み込まれる道を選ぶ。

根源的な自我を消せば消すほど、社会はもう一つの「社会的自我」の方を認めてくれる。

そういった処世術が何世代にも渡って引き継がれる。

つまり、「父」も「母」も、だから「私」も、まるで呼吸から取り込むように、知らぬ間に「会社」は自分の一部になっている。

「自分」が「会社」でできている。

これは幸せなのか?

そう思わないでもない。

時折、自分の無意識に抑え込んだ「自己」が不安を呼び起こす。

それを振り切るために、テレビからネットから、「鎮痛剤」として流されるバラエティー番組の合間合間から、繰り返し刷り込まれる社会的「大義」(そして『絆』)。

何、放射能で病気になったって過労死したってかまうもんか、そこで死ぬのは俺というちっぽけな個人であって、俺の価値を証明するのは、俺じゃなくて「社会」と「歴史」の方だ。それに、死ぬのは俺じゃなくて「他の誰か」だろう?

この「前近代的」でマッチョな世界観、、、。

彼らにとってまず「他人事」なのは、他ならない「己自身」だ。


子供と幸福 [雑感]

あるブログで(男性のブログ主だが)、

「俺は(放射能から)子供を守りたいだけだ」

というような記事を書いていた。

「なるほど」としか僕は思わなかったが、それに対して「ネット何とか」みたいな人たちが総攻撃をしていた。

その中で、ちょっと紳士っぽく振る舞ってる人がいて、僕がいつも想定しているいわゆる保守・容認派の「本音」みたいなのが惜しげもなく披露されてて、ちょっとうれしくなってしまったので引用・要約してみる。

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「子供を守る」とは立派な志だが、保守と左翼は観点が違う。
一概には言えないが、
保守は国家国益の観点
左翼は個人私益の観点
がベースにある。
要するに「子供を守る」考え方が違うから議論は平行線。
あなたやあなたの家族が平穏無事に暮らしていられるのも、社会インフラと国家の安定があってこそ。
自分の子供を守っていたらいつの間にか国家がボロボロでは後の祭り
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いやあ分かりやすい。あまりに分かりやすすぎて、多くの人が「そんな単純なものじゃないだろう」と反論したくなるかもしれない。

だけど国家観や人間観なんてのは、一般人にしてみれば「大それたもの」で、保守的だろうが左翼的だろうが、意外に「ざっくりと」していて、「何となくそう考えている」ぐらいの人が多いと思う。

おそらく元々、家庭環境や成長する過程で何らかの影響を受けて、頭の中に漠然とした思考の「根っこ」が出来上がっていて、それが例えば原発事故のような破局的な出来事に遭遇して自分の人生観が問われた時に、その考え方の「方向性」や「傾向」に準じて、急激に一つの思想へと「収れん」する。

「私は命が一番大切」
「いや、そうは言っても金がなければどうにもならない」

みたいな思い付きレベルから、だんだん情報を集めていくうちに、イモヅル式に、

方や、原発事故は史上最悪>放射能危険>子供>家族>命>反原発>小出先生>ECRR

方や、原発事故たいしたことなかった>放射能安全>社会的自己>国民>国家>経済>原発容認>中川先生>ICRP

みたいに、信用する識者もデータも、とにかくその出発点を補強するように二股に分かれて、しまいには全く相容れない人生観を「むき出し」にしてしまう。

こうなるともうお互い理解できない。

反原発の人が「なぜ命より経済なんだ?理解できない」と言うと、

このコメントの人のように「なぜ経済より命なんだ?理解できない」と言うのだ。

「命なかったらお金なんて無意味だろう」と言うと

「お金がなかったら命だって守れないだろう」

「子供を守らなかったら国家だって潰れてしまうだろう」と言うと、

「国家が潰れたら子供だって守れないだろう」

「卵が先だ」

「いや鶏が先だ」

と禅問答みたくなる。

でも、僕なりにこの対立を俯瞰すると、

これは男の「観念論」で、観念である限り、ディベートと同じで知識や情報の多寡によって「勝ち負け」なんてどうにでもなる。

それにネット上では相手が誰かも分からないのだから、ますますその観念は実体を伴わずに空転する。

(そして僕も男で、ネット上の議論をさらに『俯瞰』しようと試みているわけだから、これもまた観念論なのだが)

しかし、そこでこのコメント者は「決着」を付けようとして、「国益」と「私益」を持ち出している。「ベネフィット」の観点から論じる時点で、それはすでに『男の視点』で、自分の土俵に相手を引き込もうとしているんだと思う。

つまり、「あらゆる物事は、『利益』を基準に判断される」という経済原則みたいなものを、本当に「あらゆる物事」に適用可能であると、信じている。

これは資本主義の一つの「信仰」なのだが、現実的に今の世の中男性中心社会で、そこでは効力を持つから、「それのどこが間違っている?」と全く疑う機会を持たない。

でも子供を守るのは「ベネフィット」ではない

しかし、そう言ってみたところで、この手の「男」には「全く分からない」

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今ふと思い出したのは、もう一つどこか反原発系のサイトのコメント欄で、

「自分の子供は自分で守る」みたいにある女性が発言したら、

海外在住とかいう妙に冷めた男が、

「子供が失われたら、またどんどん産めばいいんです」

とこれまた教え諭すように言う。

「おまえの一体『どこ』から、何をどうやって産み出すんだ?」

と突っ込みを入れたくなってしまった。

他人事どころかまるで「神」の視点のように語る男というのはいるし、そんなのはお母さん方にコメントでボコボコにされてるんだけど、そういう人はその人の「観念」「脳内」では、本気でそう思っているんだと思う。

「え?俺のどこ間違ってるの?正論言ってるよね?」って感じだろう。

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この部分を読み返して、ふと思ったのは、「神」というのは一つの観念であり、子供を産むのは観念ではないんだと思う。神が何かを「産み出す」なんてことはできない。それは神を「擬人化」している。子供を産み出すのは「女」にしかできない。それを一般論化してしまい、「産めよ増やせよ」なんて言えること自体が、「超越論的な」「男」の視点なんだ。
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もう一つ思い出した。

徴兵制か何かを巡る議論で、「命が大切」みたいに語る人に対して誰か(これは女性だった)が、

「命も大切だが、それ以上に重要なものがある。愛国心=国家>人間なのです」

と書いていた。

こういう等号、不等号でもって、「記号」として「命」や「人間」を捉えられてしまう人というのは、もう頭の中がそれで決定しているから、どんなに語っても、その記号自体を粉砕することはできない。

「そうだと言ったら、そうなの!」としかならないだろう。

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たぶん、官僚や政治家や東電社員もそれぐらい頭が肉体を離れて、はるか天空からまるでゲームのように国家や企業の「戦略」を練っている。もしくは、外科手術か精密工学の「オペレーション」のように、自分が一つの機械として作動することに酔いしれている。

「情熱を胸に秘めながら、その己をすら客体視するこの冷徹かつ精巧な俺の『理性』」

とでも思っているのだろう。

(こうやって多くの男は自分の『お勉強のできる頭の良さ』である『悟性』を、軽々しく『理性』と勘違いしているが、それは理性を見下している。理性はもっと高貴で、人間の認識の頂点に君臨し、早々手に入れられるものではないーーーそう言いたいところだが、本当のところは、人はまず最初に『理性』を手に入れている。そしてそれを悟性で抑え付けている。『理性』が恐いから。)

そこでは人も子供も出産も個人も全部数値や統計に変換されて、それを処理してコスト管理して業績を上げるっていうのが、もう人格そのものになっている。

むしろ、モニターの前の肉体を持つ自分なんか消し去って、資本主義ゲームの中のキャラクターに自己投影して、スコアを上げれば上げるほど、その才能は認められ、「社会的」には存在を肯定される。

そこではその価値を「正当化=justify」するのは、「利益=benefit」だけなんだ。

そして今の時代、男性女性関係なく、ほとんど全ての人間が、そのマネーゲームに参加せざるを得ないわけだから、その生き方のどこが悪い?資本主義以外に何がある?それが人間の作り出した究極の社会システムじゃないのか?きれいごと言って貧乏になってどうする?と思って自己肯定する人は多いのだ。

だけど、今僕たちが守ろうとしてる「子供」ってのは、やがて社会体の歯車の一つとしてカウントされることを必然と見做すような、そんな観念上の存在じゃないだろう。

本当に僕は、男だけれど、このことを口酸っぱくして何度でも言いたい。

「子供」ってのは、唯一無二なんだ。

女性にしてみれば自分が全身全霊かけて産んだ命で、それが一生のうちのある特別な時間に、二度と繰り返せないたった一度の経験として、その肉体に刻まれた記憶となって、もう何者にも代え難い「わが子」と共に、永遠に自己の内にあり続ける、そんな存在なんですよ。

「存在なんですよ」なんて言ったけど、正確には僕には「そういった存在ではなかろうか?」としか言いようがない。

この感覚はおそらく男には理解不能なものであろう、と僕は想像する。

そういった個人の内面的な価値を理解できないから、子供を未熟な社会的コマみたいに一般化して考えて、「また産めばいい」とか心ないことが言えるのだろう。

「放射脳は親のエゴを子供に押し付けている」
「社会のために喜んで自分を犠牲にする精神は、親が子供にしつけるもの」
「社会貢献によって子供の価値は測られる」

そういった反ー反原発派のよく聞く言葉も根っこは同じだ。

「社会的ルールこそが何よりも優先すべきもの」と教え込まれて来た自分の考えを「正しい」と思うためには、その同じ尺度で、自分の子供も他人の子供も比べて「優劣」を付けるような「社会」が必要だもの。

そういう「競争社会」がなくなったら困るし、それを良しとする自分を肯定できなくなる。

だから、その「社会」「公」に敵対する、「個」「私」を主張するような輩は全力で排除したい。

自分の子供の「価値」なんて測る必要などないと思うのだが、この人たちは「測りたい」。「測って数字にしないと分からない」、その価値が。

子供を愛するのに理由など必要ない。ただそのものとして、ありのままの全てが、肯定されているはずなのに、「愛するための理由」がほしい。

何か成績表みたいなのとか、習い事たくさんしてるとか、いい学校入ったとか、そういう「誰の目にも明らかな順番」や「賞状」がないと、子供を愛せないし、幸せと感じることができない。

なぜなら(ここが重要だが)、

「自分がそうだった」

(そうやって親に愛されてきた)から。

ここが僕にはまったく理解できない。

もちろん、そういう「競争心」っていうのは、それは人間のリビドーの表れだから、それ自体としては否定しない。むしろ社会を成立させるためには、絶対必要だと思う。

僕が言いたいのは、そういった「結果」や「ベネフィット」を基準にした価値判断が、「子供の価値」「子供を愛する心」とは根源的には無関係だと言うことだ。

そんなもの取り払って、ただただ、子供を愛すること。

それが冒頭のブログ主の「子供を守りたい」という言葉になるんだと思う。

母親や父親が唯一無二の存在として子供を絶対的に受け入れる時、子供もまた自己の存在を、自分の命を、自分が生を受けた意味を、全て肯定することができるわけだし、その無償の「愛」を享受することが、生の根源的なエネルギーの奔流となって、その死に至るまで自己を貫いていくだろう。

それはおそらく何者にも代え難い「幸福」なんだと思う。

本当はだから、人間の幸福ってのは無償なはずなんだ。

そして、その無償の幸福に対する悦びが、人を人との結び付きへと、他者への繋がりへと、社会へと、そして自らが強くあらんと欲し、弱者を慈しむことへと、無償に駆り立てて行く(これが本来の『絆』だろう)。

つまり、鼻の頭に「金(かね)」という人参ぶら下げて競争社会で他人を蹴落として成り上がって、その暁に手に入れる物質的豊かさなんてよりもはるか以前に、人はまず「幸福」でなければならないし、本来そうであるはずなのだ。

だから、ここで母親が言う「子供」ってのは、もう何にも増して、一度きりの自分の人生に与えられた(神が授けたもうた、と言ったっていい)純粋な結晶のごとき、「幸福そのもの」なんだ。

その幸福から出発して、それが永遠に続くように努力することが、本来「生きる」ことであるはずなのに(だから、そのために相互扶助システムである社会は構築される)、いつのまにか、その「社会システムのために」人が生きなければならないと強制される。

学校で、家庭で、繰り返し「教育」され、人々はそれを当たり前のこととして、あるいは「しょうがないこと」として、受け入れるようになる。

やがて男がそのシステムの全権を掌握すると、その「速やかな運営」のためには、この「母性」が合理性や効率化の邪魔になる(特に戦争において、個人的愛情など足枷にしかならない)。

だから、まずその「幸福」を奪って、人は生まれながらに不幸であるかのような錯覚を植え付けるのだ。

(これはキリスト教の『原罪』や性のタブー視にも繋がるだろう)

そして、人は幸福を勝ち取るために、社会的に成功し、その過程において自分を犠牲にしなければならないということを、まるで人間の「本性」だ、みたいに言い始める。

これこそ基本的人権に対する冒涜じゃないのか?

子供は幸福に「なる」のではない。

子供こそが「幸福」なのだ。



参議院選挙2013 投票日 [雑感]

三宅洋平街頭トーク(大宮駅2013.7.18)【参議院選挙2013】

原発が爆発してからはさ。

津波のことについては泣いていいんだけど、

放射能被害については泣くことすら禁じられてきたよね。

国は、経済止まったら困るでしょってことで何も認めてくれなかった。

今日本で起きているのはさ、エコノミックファシズムだよ。




スタジオジブリ「熱風」7月号 特集「憲法改正」 [雑感]

スタジオジブリの小冊子「熱風」7月号を緊急PDF配信 「憲法改正」を特集

「憲法を変えるなどもってのほか」 宮崎駿

より以下抜粋。

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(半藤一利さんの『昭和史』を読んでいるが)もう辛くて。読めば読むほど日本はひどいことやってるわけですから。

(半藤さんの受け売りだが)日本の近代の歴史は40年ごとに区切られる。バブルが弾けた後は、どうしていいかわからないまま没落していく40年になっている。”失われた20年”どころじゃなくて、あと20年ぐらいは失われる(笑)。

堀田善衛さんは「歴史は前にある。未来は背中にある」と言っている。

憲法を変えることについては、反対に決まっています。

96条を変えて、、、というのは詐欺です。やってはいけないことです。

今は、ちょっと本音を漏らして大騒ぎを起こすと、うやむやに誤魔化して「いや、そういう意味じゃないんだ」みたいなことを言っている。考えの足りない人間が憲法なんかいじらないほうがいい。

耳に心地よいことしか言わない奴の話だけを聞いて方針を決めているんですから。それで国際的な舞台に出してみたら、総スカンを食って慌てて「村山談話を基本的には尊重する」みたいなことを言う、まったく。「基本的に」って何でしょうか。「おまえはそれを全否定してたんじゃないのか?」と思います。きっとアベノミクスも早晩ダメになりますから。

憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほがいい。

非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただそれ以上は「ちょっと待て」っていうのがやっぱり正しいと思うんです。本当はガンダムでも造って行進させりゃいいんじゃないかと思っているんだけれど(笑)。「実際の能力は秘密だから白状しない」とか言って、これは冗談です。

(日本にはもともと基本的人権の根拠になる思想がないと言われるが)やっぱり基本的人権よりいい考え方はないんだと思います。東のはずれにある国として、そういうものなしにやってこられたけれど、世界化、国際化する時には、共通の言葉を持たなきゃいけない。人権という考え方を輸入せざるを得ないんです。

今はっきりしなきゃいけないのは、産業構造をどうするかという問題です。「自分たちの食うものや着るもの、住むものは自分たちで作ろう」という思想を持たずに、ただ消費して、あとは全員がサービス業みたいな、そんな国にしたってしょうがないし、うまくいくわけがないに決まっています。

でも、そうなってくると、「徴兵制をやればいいんだ」というようなことを言う馬鹿が出てくるんです。そういう人たちには、「自分がまず行け」と言いたいです。自分の息子を、孫を送れ。そうすれば、徴兵制というものが何だか分かるから。

「自分はちゃんとしているけれど、他の人はちゃんとしていない」という発想を捨てろと。自分がちゃんとしているなら、そのくらいはみんなちゃんとしてるんだと思った方がいい。徴兵制度というのは最低ですよ。韓国でも、徴兵制度がどれほど若者を荒ませてるかということです。

どっかでずるずるずるっと貧乏になって行かざるを得ないんだと思います。それはもう、そういうことだからしょうがないですよ。将来の保証なんかない。でも、本来人間はそうして生きて来たんです。

僕は仕事場の隣に保育園を作って、本当によかった。いちばんよかったのは僕にとってなんです。チビたちがぞろぞろ歩いているのを見ると、正気に戻らざるを得ないんです。この子たちがどうやって生きていくのか、と考えたら、それは暗澹たるものだと思うけれど、じゃあ、生まれてこなければよかったのかって、そんなことは言えない。やっぱり祝福しなきゃいけないし、実際、祝福できる。だから「なんとかなるよ」と言うしかないんですよ。

人口が減っていくから、今後はアニメーションも成り立たなくなりますよ(笑)。「ジブリよ永遠なれ」もありゃしないです。

一言だけ言うとすれば、「流行っていることはやるな」ということ。

今、みんな口を開けば「不安だ」って言うけれど、「じゃあ、前は不安じゃなかったの?」と聞きたくなるぐらい、実は状況はそれほど変わっていないと思います。健康で働ければいい。働く場所がなければ、自分で作りゃいい。

不安が流行っているから不安になる。だから、流行ってることはやらないほうがいいです。

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*一つ、「実は状況はそれほど変わっていない。健康で働ければいい」という部分に関しては、原発事故の影響をあまり考えていないか、「それほどではない」と考えていることだと思う。

おそらく、そこが今までの「不安」とはまったく別な、人類未経験のものになるんだと思う。








憂さを晴らす [雑感]

バス停の駐輪場に自転車を停めて出かけた。

夜遅く帰って来て、暗がりの中遠目に見たら、

「サドル」がない。

「やられた」と思った。

というのも、その駐輪場には他にも何台かサドルのない自転車が放置されていたから。

近づきつつ「しょーがねーなー」と早々諦めて、「立ち漕ぎ」で帰ろうとしたら、後輪がガタつく。

空気が抜けている。

「え?パンク?いや、空気抜かれたか?」と思い、外灯の明かりで見ると、空気を入れるためのバルブ部分が丸ごとない。

瞬間的にひらめいた。

「これはいたずらだ。バルブはある。そこにある」

すぐ引き返して、自転車が停めてあった場所を見ると、案の定、地面にゴムとナットとキャップと3つまとめて落ちていた。

「ということは、サドルも盗まれてない」

なぜかそう直感して、駐輪場前の畑に目を向ける。

予言が的中したみたいに、それはやはり「そこ」に放り捨てられていた。

柵を乗り越えて、土の付いたサドルを拾い上げ、荷台に括り付ける。

空気が抜けて乗れない自転車を、トボトボと引きずりながら考えた。

「何なのだろう」と。

「何のために」こんなことするのだろう、と。

そいつがどんな人間なのかとかどうでもいい。

その歩道をおそらく夜中に通りかかった誰かが、またはバスを待っていた何者かが、ふと僕の自転車に目を留めたのだろう。周りには誰もいない。人通りもない。頭の中で「やるか?」とでも言ったようなおかしな欲望が芽生える。何だか分からないがムクムクと「この自転車を『台無しに』してやれ」みたいな気持ちが沸き上がる。

普通だったらフッと我に帰って、「いやいや、そんな馬鹿げたこと、やめとこう」と内なる声が静止するところを、「いや、待てよ、こんな夜中に何をくそまじめに考えてるんだ。俺の中の『衝動』になぜ遠慮する必要がある? 何で俺は、誰も見てないようなところで、そんなどうでもいい『他人の目』に躊躇しなけりゃならないんだ?なぜ迷う?えーい、ばかばかしい、この自転車のせいで、何で俺がそんなありもしない『道徳』に悩まなきゃいけない?こんな自転車なんかどうでもいいし、だからその『どうでもよさ』を証明するために、俺はやる。俺は俺が思いついたように、これを始末する。こんなもの、こうだ!」

思い付きからそう決意するまでおそらく一瞬だろう。スッと自転車に近づくと、カギでもはずすフリをしながらかがみ込み、後輪のエアバルブを手際よく取り外してばらばらと地面に落とす。そしてふっと顔を上げ、目の前に位置する締め付けレバーをゆるめると、立ち上がった拍子にでもサドルを引き抜いて、そのまま前方に放り投げる。

流れるような一連の動作。まるで熟練の技でも披露したかのような、何か異様な達成感に「誇らしさ」すら感じて、すっと背筋を伸ばして辺りを冷静に確認する。

任務は遂行された。そして、そのままその「余韻」に浸りながらバスを待つか、何事もなかったかのように立ち去る。

足早に歩を進めながら、あるいはバスの席に腰掛けて窓外の闇をぼんやりと眺めながら、今「己がしでかしたこと」に思いを巡らす。口元には笑みすら浮かんでいるかもしれない。

「何だ、何てことないじゃないか。まるで何も起きてない。ただ、何だか知らないが俺の気に食わなかった『どうでもいい自転車』のタイヤの空気が抜けて、サドルが外れた。それだけのことだ。何の感情も動かない。罪悪感もない。ただとにかく、俺は何かをやった。何か『やってはいけないとされること』を『やってやった』。そして『それ』は果たされた。誰にも何の迷惑もかけていない。俺でなければ、あの自転車は盗まれて『もっとひどいこと』になっていたかもしれない。自転車の持ち主? そんなこと考えることに一体何の意味がある?なぜ俺が、そんな見たことも聞いたことも、これから一生会うこともすれ違うこともないような人間の『気持ち』を察して、何よりも強烈に俺を支配する『俺の気持ち』の方を抑え付けなきゃならないんだ?俺はこの『クソみたいな世界』が決めつけた、『世間的に悪いと見なされること』に抵抗し、それを押し付ける無意味で嘘くさい『決まり事』をはね除けて、『俺』を、ただこの『俺だけ』を、今この瞬間に解放した。俺は『あいつら』に勝利した。そうだ、何だか分からないこの充足感は、日々この社会と他人やらに抑圧され続ける『どうでもいい俺』が勝ち取った『自由』の感得であり、落ちて行くだけの人生の刹那に神が偶然にも与えたもうた、一つの『恩寵』なのだ」

無意識は、どんなにつまらない人間の心の中でさえも、言語体系に比肩する秩序を持って流れる。

そして彼は、その心の機微の一切に気が付かない。

その意識にのぼるのは、ただ漠然と「何でもよかったが、とにかくやってはいけないとされる何かを達成した」という、ゆがんだ自我と欲望がもたらす、ゾクゾクとするような「爽快感」だけだ。

それが時に「犯罪」と呼ばれる。

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そして思う。

インターネットという無人地帯。

今日も、世界のあちこちで閉ざされた部屋。暇をもてあました職場。

スチール机に縛り付けられ、明滅するパソコン画面、スクロールする文字列を追う虚ろな眼差し。沈思し、また打ち続けられるキーボード。

誰もいない。誰も見ていない。だからこそ自分の頭の中で無限に開かれた世界。

電脳空間をさまよいながら、「どうでもいい何か」を見つけては「どうでもいい自分」の「憂さを晴らす」。

ブログのコメント欄で、Twitterで、どこに行く宛もなく吐き捨てられる薄汚い言葉の数々。

そんな活動も、こと放射能に関しては、今なら国家の後ろ盾がつく。

国は「放射能危険デマ」をネット監視するための、一つの「鉱脈」を発見した。

積年の恨みは調停され、彼/彼女らは今やその独善的な憂さ晴らしに、国家的な「正義」さえも感じている。



何もかも放射能の影響にするのはおかしい [雑感]

そう人は言う。

では「何の」影響なのか?

大気汚染、環境ホルモン、ストレス、遺伝?

その何らかが「影響」しているなら、「放射能が影響」したっておかしくないだろう。

どこが「おかしい」のか?

結局、そうやって「放射能のせい」と言ってしまうと、

放射能=原発事故=原子力=経済=利権=核=安全保障

といった、個の力では太刀打ちできないような巨大なシステムとの関係を抜きにしては語れなくなるし、

その「権力」が、

「大丈夫、何もない、安心、安全です」

と言うのに逆らって、

「嘘付け!おまえらの金儲けのために俺ら犠牲にするつもりだろう!」

などと叫んだところで、

「はあ?その『権力』を選んだのはおまえら国民だし、その『権力』の庇護の下におまえらの生活があるんだろう?おまえらの電気のために原発が爆発したんだから、ちょっとぐらいの犠牲我慢しろ!嫌なら日本から出てけ!」

と恫喝されるのがオチだろうから、

「もう、どうすることもできない!考えるのやめよう!もう無理!」

と頭の中の戦いに敗れて、「国民」としての腹を決める。

あれだけの核事故が起きたのだから、何もかも放射能の影響ではないか?と疑うのは、「人間として」当たり前の推論ではないか?

だから、こう言うべきなのだ。

「『人として考えれば』何もかも放射能のせいと考えるのは間違ってない。しかし『国民として考えれば』何もかも放射能のせいにするのはおかしい」

と。

「国民」ねえ、、、。

その単語をどう捉えるかだろう。

それを人間社会に生きる限りは受け入れざるを得ない必然的な義務と捉えるか、権力が大衆を心理的にまとめ上げるためにでっち上げた虚構と見るか。

(口にする言葉の端々に、『思考の根っこ』が、氷山の一角みたいに顔を出す)





通りすがりの論理 [雑感]

反原発系ブログのコメント欄を見てると、いわゆる「荒らし」とは微妙に異なり、「通りすがり」と称して、「原発推進論・容認論」「放射能安全論」を妙に「真面目に」展開する人間がいる。

最初は「いずれ原発は段階的に廃止すべきですが」とか「あなたのおっしゃっていることは分かりますが、僕の話も聞いてください」みたいに、礼儀正しく切り出してくる。

そして「感情的にならずに、論理的に考えれば、、、」と話が進み、「原発を止めれば電気代が上がる」とか「国内産業が空洞化する」とか「CO2が」とか、あるいは「戦争よりも原発のリスクを選んだ」とか、もっともらしい、そして聞き飽きた「理由」を一通り展開する。

アルバイト工作員なのか単なるおせっかいなのか分からないが、もしかしたら顔が見えないのをいいことに、適当に反原発を「とっちめて」憂さ晴らししてるだけなのかもしれない。

「また工作員か?」「何でわざわざこんなところでコメントするんだ?」と誰かが突っ込む。

するとだんだんくだけた調子になって来て、

「こっちが『議論』しようとしているのに、人の話を聞こうともしない。工作員でも何でもないのに見ず知らずの他人を『安全デマ』とか『バカ』とか口汚くののしるような人間に、反原発などできるはずがない」とか「あなたたちは(と誰か一人の発言を十把一絡げにして)、いつもそうだ。こっちが『論理的に』話そうとしてるのに、すぐ感情的になって、まともに議論もできない。このブログはためになるが、コメントをしてる人間は程度が低い。カルトだ」とか、罵倒し始める。

そういうブログ荒らしのマニュアルみたいなのがあるのだろうか?

この手のコメントはあまり前後の文脈など関係なく、ふと思いついたように書き込まれる。

おそらく彼らはブログ自体をまともに読んでいないし、何か気に入らない記事を探し出して、機械的に突っかかってるに過ぎないのだろう。

だから「通りすがり」と名乗るわけだ。

ちょっと通りかかってチラ見しただけだが、「俺は頭がいいから」あっと言う間ににその主張の「論理的な間違い」を見切ったので、老婆心からそれを親切に指摘してあげているつもりらしい。

「あなたが反原発であるのはただ『感情的に反発しているだけ』だから、私のように『論理的に』『総合的に』『全体として』判断すれば、放射能なんてそこまで恐がる必要はないし、『全原発即時廃炉』なんて非現実的、分かるでしょう?」

そんな「正しいのは常に俺だけだ」みたいなぶしつけな一言で「議論」が成立するはずもないから、やがて罵り合いはエスカレートする。

まったくの一方通行で、「インタラクティブ」とはほど遠い。

結局ネットの「ヴァーチャルな」コミュニケーションなど幻影で、最初から破綻してるのだ。

現実世界で、あいさつもなしに瞬間的な言葉のやり取りでもって「事態が動く」ことなどないだろう。時には向かい合った相手の「感情」にも配慮した「気遣い」や「言い方」が、話の内容以上に重要になる。

そして、ブログというのも、ある意味、一つのコミュニティーみたいなもので、そこにはブログ主と同じ思い、「感情」を共有した人々が集まっているわけで、コメントする人たちの間には、時間をかけてそれなりの「空気」みたいなのが出来上がってくる。

彼らが気に入らないのは、その馴れ合いの感情的な「空気」なのだ。

気の合う仲間同士集まって何が悪い?と思うが、彼らはそれが許せない。

なぜか?

彼らはおそらく、ネット空間と自分の脳内空間を混同してしまって、ネットを何か、「論理と客観性のみで構成された知的理想郷」のように、自分の思考様式に合わせて都合よく解釈している。

だから、その自分が考える通りに、ネットはあらゆる対立する意見に対して平等に開かれていなければならない。

「閉じたコミュニティー」を作ることはその理念に反する。すべてはオープンに、感情を排して、明確な言葉でやり取りされなければならない。

そうすれば、現実世界と比べ物にならないぐらいのスピードでお互いを理解し、やがて万人にとって最適な真実に至るはずだ。

そうだろう?俺のどこが間違っている?

「それなのに、、、」と彼らは言う。

「それなのにこいつらと来たら、コソコソと徒党を組んで、陰で一方的にただ感情で原発の悪口言って、放射能デマ垂れ流しやがって、おまえらみたいなのが逆に健全な段階的脱原発をはばんでいるんだ。それに普通の人(あるいはB層)が読んで不必要に不安になったらどうするんだ? おまえら何も分かってない。ブログ主だって本当は俺と同じ『正しい情報』を望んでいるはずなのに、このままじゃダメになってしまう。だから、俺が言わなければ、、、」

奇妙な正義感に駆られて、その実ただ「俺」を押し付けんがために、一方的に「説得」しにかかる。

当然誰も耳を貸さない。

なんでおまえらは俺の言うことが分からないんだ? おまえらはバカか? 論理的に物事が考えられないのか?

そしてぶち切れ、ストーカーじみた攻撃を執拗に仕掛け始める。

おいおい、と思う。

そんな「開かれた世界」、おまえのその「閉じた頭の中」にしかないだろう。

世界中が俺の頭の中に入って、俺の論理で話が通じれば、この世界は全て丸く収まる、とでも言いたいのか。

(ネットを介して、俺の頭とみんなの頭が論理でL.C.L.みたいに溶け合って、か? 人類補完計画じゃあるまいし)

だが、むしろそれは言い訳に過ぎない。主たる目的は「気に入らない相手の怒りを引き出して、それを根拠に己の憂さを晴らすこと」なのだから、そのために当の自分をも欺く「猿芝居」を打って、最初から開くつもりもない議論を一方的にふっかけてくるのだ。

(悲しいほど非生産的なニヒリズムだが、ある種の自傷行為と同じで、絶望の際で生を確認しているのだろう)

-------

ところで、この自己完結型の「論理」は、官僚や原子力推進派の思考と似ている。

現実に原発が爆発してなお、頭の中の「安心・安全」を胸を張って振りまくことができる彼らは、ネットどころか「この世の通りすがり」なのだろう。





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