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精神の植民地 [雑感]

情報でも商品でも何でも簡単に手に入るインターネットは「気分」のメディアだ。

「気分」は「今」にしばられた「快」であり「子供のもの」だ。

だからインターネットは「子供の欲望」「子供の要求」に応えるためには理想のツールだと思う。

反対に「モノを生み出す」ためには膨大な時間がかかる。

2次元のプリントモニターの画像とは根本的に異なる何かが物体にはあって、そのせいでモノ作りは例え3Dプリンターを使ったとしても想像以上の手間がかかる。

飽和状態に達した「モノ」はなかなか売れないから「気分」を盛り上げて消費を促す必要がある。

「みんなが欲しがっているから」「何となく面白そうだから」「話のネタに」「気分を埋め合わせるために」と「過剰な消費」を生み出すためにインターネットが利用される。

換金労働のせいで「損した気分」になった「消費者」がスマホやSNSに貼り付いて早く「得した気分」になりたいと誘惑されるのを待っている。

だから今は消費者というより積極的な「ユーザー」なのだろう。

この「気分で行動するユーザー」が大多数を占める共同体は恐ろしく「子供」の社会であり、日本人はこの「快原則」に従う「子供」につなぎ止められることで理想的な奴隷になりつつある。

大人が「精神的に子供のまま」であることを消費社会の中で許されて、ただ「快・不快」で行動することをとがめられない。そこには次世代に受け継ぐための思想も理念もない。時間が「現在」という短いスパンで移り変わる流行に支配される。その瞬間の中の「快」にプライオリティーが置かれる。

支配層やその下僕のクリエイターはそれゆえこの構造を変えようとはしない。「幼児的快楽」は「人生の悦び」であるかのように野放しにされ、ユーザー動向は逐一モニタリングされている。

栽培された「気分」。肥え太らされた「欲望」。

そこから金をむしり取るためにせっせと「広告」という肥料と飼料がまかれる。

それでも「幼児性」がまるで純真さの証であるかのように、人々は嬉々としてその「精神の植民地」に留まっている。




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劇的な言葉 [雑感]

「自分はいかにして起業したか?」とか「どうやってポジティブ生きるか?」とかをネット上でひけらかすのが流行っているのだろうか? それとも何となくブログ書いてもしょうがないから「人様の役に立ってる」みたいな存在意義を求めているのだろうか? いずれにせよそれなりのフォロワーがいるということはモニターの前でお手軽な「自己啓発」を求める人が多いのだろう。SNSの中で「こらえ性のない人たち」が夢だけで生きて行こうする試み。

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誰かに何かを言ってもらって人生を変えたいと思っている人がいる。

だれかが言う。

「そのままのあなたでいいんだよ」

また誰かが言う。

「向上心を持ちなさい」

自分が求めていた言葉に出会えば人は一瞬生き生きとなれる。

しかし本当に「そのままの自分」でいたら全く進歩せずにいずれ誰からも相手にされなくなるだろう。

逆に度外れの向上心を持ってがむしゃらに努力したって体を壊してしまう可能性もある。

どちらにしても他力本願でやっていて結局うまく行かなければ「そのままの自分でいいなら成長しなくたっていいだろう」とか「成長しなきゃならないんだからそのままの自分じゃだめだろう」とか逆恨みして、しまいには「人を疑うことだけ」が得意になってしまう

「言われたことをやる」という癖が付いてしまった人間は、むしろ「自分の意志」で何かをやろうとする時にはかえって失敗ばかりするものだ。

「自分は言われたことしかできないと思い込んでいる人間」は、失敗によって自分が「自分の意志でやろうとしてもできない人間」であることを自分にも他人にも認めさせたいと思っている。

「劇的な言葉」を自分を変えるためではなく、変わろうとする自分を「裏切る」ために必要としている人がいる。

どうやったって脱け出せない。そんな人たちがどん底に落ちまいとして、ネット上で「同じタイプの人間」に体験談を売ることでかろうじて自己救済を図る。

タコがタコの脚を食べる。絶望的なインチキ商法だ。



見せびらかしの時代 [雑感]

妻が友人と食事をしたら、そこのカフェの若い店長が自分が店を開いた動機やらこれからやりたい夢を語りまくり、しまいには「地域貢献のために市会議員になる」と言ったらしい。妻らはその「ドヤ感」に圧倒されうんざりして店を出たらしいが「なれるんじゃないの?市会議員」と言う。

たしかに自分の周りを見ても「出世する人」とか「仕切る人」とか目立ちたがりで押しの強い人間が多いのは分かるから、その延長上で考えればその店長とやらも「同じ類いの人間なのだろう」と想像はできる。

しかしこの話を聞いてまず最初に思ったのは「店に来た初対面の客に対していくら何でもはしゃぎすぎじゃないか?」ということだ。

この「他人の家に土足で上がり込むような」図々しさは、いわゆるソーシャル・メディアの影響だと思う。

最近ネットで「独立して起業しよう」とか「クリエイターになろう」みたいな人たちのブログを立て続けにいくつも見た。わざわざ探したわけではなく、そういう志を持った人たちってなぜか「繋がっている」から、リンクをたどると芋ヅル式に「似たような輩」がうじゃうじゃ出て来るのだ。

そうやって夢を実現しようと努力することは素晴らしいことだしそうあるべきだと思う。しかし一つ気になったのはそこに漂うある種の「見せびらかし感」だ。

いや、基本ブログでもTwitterでもInstagramでもみんな「見せびらかし」なんだけど、何でそこまで強迫観念的に自分の「今」や「思い付き」を随時つまびらかにして「いいね!」と同調してもらいたいのか不思議になる。

ネット環境のおかげで在宅で仕事をすることははるかに楽になったから「フリー」で生計を立てるということは可能だと思う。だけどそれをここ何年か続けられたから今後何十年も続くはずだとはその人たちも思ってないだろう。

するとやっぱり「不安」になるんじゃないだろうか?そのためにせっせとブログを更新してTwitterをつぶやいて「自分」を見せびらかす。たくさんのフォロワーに「見てもらっている」という確認作業によって不安が取り除かれモチベーションが維持される。

だけどこれはおかしくないか? なぜかと言うと「独立起業する!」という理由は、そこに強烈に一人で生み出したいと思った「商品」があったからじゃないのか? それがプランニングでも設計でも文章でも、自分一人で生み出せる「お金を得るためのモノ」があり、その「商品をどうしても作りたい」という意志が「潜在的な資本」としてあったから独立したんじゃないか?

そういう「モノ」とか「商品」が「独立起業ブログ」からはさっぱり見えて来ない。何だか知らないがとりあえず「起業しよう!」みたいなノリがあって、それから「時間が自由に使える」とか「地産地消でメシがうまい」とか「自然が豊かで子供も楽しそう」とか、そんなどうでもいい生活の断面をまるで「セレブ」感覚で報告する。

「ブランディング」とか「マーケティング」が先行して期待値は膨らんだけど実は売るモノがない、みたいな。

「いやいや商品はブランディングそのものだ」とか「プランナーとしての技術を売っているんだ」とか言われれば分かるけど、「ブロガー」とはそういう位置づけなのだろう。

それで何だか知らないが世の中にあふれる「クリエイターになりたい」と思ってはいるが現実的には才能も見込みもない気の弱いニートみたいな人たちを相手に「これであなたもクリエイターになれる!」というマニュアルを売りつけることで成り立つ一種の「情報商材詐欺」みたいなものだろうか?

生身の人間を目の前にしてスマホに夢中になっているバラバラの人間同士が、SNSという「市場」でその「孤独」を共有して「繋がった気分」になる。「見せびらかしたい」という欲望が商品となり、そんなヴァーチャル市場のプランナーかコーディネイターが「独立起業」を勧める。

注目されるとお金になりそうな感じがするのだ。だから現実の人間関係でもTweetしてるような気分で無責任に思い付きを垂れ流す人が出て来る。泣いている子供をスマホで撮影して子育てブログにアップするとか被害者を助ける前に事故現場を撮影するとかも同じ心理だろう。



「日本はダメになる」 [雑感]

「日本はダメになる」

そうネット上で断言する人たちがいるのだが、その中でも「海外在住の人」が多いことに驚く。日本国外に住んでるんだから、その国の言語でその国のコミュニティーで生きればいいと思うのだが、一体どういう動機でわざわざ日本語でそんなことを書くのだろう?

EUも英語圏の国も「移住」のハードルが低いから移住それ自体にはあんまり価値がなくて、移住先で「どう暮らすか?」っていう、言ってみれば「主体性」の方が問題にされると思う。そこで「主体的な生活」を目指そうと思ったらそのコミュニティーとの付き合いが重要になって、その時「俺は自分の国が嫌いだ」とか「俺の国はおかしい」とかどうでも良いだろう。

ドイツに住むイギリス人とかオーストラリアに住むオランダ人とかアメリカに住むオーストラリア人とか、今まで出会った人のこと思い出してみるとみんな「母国のこんなところが素晴らしい」とも言う。「より良い生活」を求めて移住してきたわけだから、別に自分の住んでる国が「嫌い」なわけではない。母国は母国、居住国は居住国なんだ。難民でもない限り先進国から来て「自分の国のここがひどい」とか自国の悪口言って喜んでる移住者って日本人ぐらいじゃないか?

海外で幸せそうに暮らしているように見える人が、「何となく思い付きで」などというレベルではなく、「もう我慢ならない」という感じで、日本語で日本人に対してある種「警告」か「予言」めいた発言をするのだから、そこでスッキリする何かが心の奥底にあるのだと思う。

同じ境遇にある「在外日本人」たちがその「ダメな母国」に対するネガティブな思いをネット上で「あるあるネタ」として共有して笑い飛ばそうというエンターテインメントなんだろうか? 「ダメな日本」に住む「自分と同じように才能のある人間を救い出したい」という老婆心なのだろうか? それともただ「ダメな国のバカな日本人を見下して」そんなダメなところからとっとと離脱した自分の先見性と現在の幸福を再確認したいのだろうか?

いずれにせよ仮想空間上に日々繰り広げられるそれらの「表現」は、その欲望自体が当の「ダメな日本」に生まれ育ったことによって彼らの心に培われたものなのだと思う。彼/彼女たちはその「ダメな国」から逃げ出したのだが、移住先でも心にはいつまでもその「ダメさ」が付きまとって来る。だからその「攻撃対象」は欲望の源である「日本」へと回帰する。「親の願望」によって突き動かされたエゴが抱える「親への恨み」は、「親への復讐」でしか解消されない。母語を使った母国への「憂い」「憐憫」「侮蔑」は、母国よりはその母語を使う「公衆」へと向かっている。

そうやって「ダメな国に住む人たち」に自分の洞察を見せびらかすことによってその「病」は「治癒」される。

彼らは「国際派」と称するのだが、その表現方法は「こらえ性がない」という日本人の特性をよく示していて、それゆえ彼らは日本から「逃げたつもり」でそこに「永遠に囚われる」。

日本はたしかに「ダメ」だとは思う。その点については同意する。だけど「ダメだ」と認識することと「ダメなものを変える」という行動は分けて考えなければならない。その人の「認識」と主体的「表現」とは全く別な問題なのだ。「認識すなわち即表現」というのは「神」にのみに属し、それが人間にも可能だと考えることができるのは「子供の妄想」になる。「こらえ性がない」のは幼児の特徴でもあり、だから日本人は幼児的と言われる。消費者が商品を買えば何か願望が達成されるのに似て、日本人は日本の悪口を言えば日本が良くなるとでも思っているのだろうか? (それとは逆に日本を無批判にほめそやす何とかと呼ばれる人たちもいる)



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ハードルを下げない人 [雑感]

「ニート」の人が書いた「ニート脱出マニュアル」みたいな本についての記事が面白かった。

いわく「ニート」の人は「ハードルを下げない」らしい。

それはちょうど受験に失敗すればするほど志望校のレベルを「下げられなくなる」のに似ていると言う。

陸上競技や体育の授業でもし「高跳び」をやったとして、1mが飛べなかったら普通バーの高さを「90cmに下げる」のに、「ニート」の人は「1m50cmに上げる」のだと言う。

しかも「ダメなときほどハードルを上げたくなる」らしい。

これは目的が「ハードルを超える」ことではなくなってしまって、「ハードルを超えられない理由を作ること」にずれてしまっているのだと思う。

こういうことはよくある。挑戦する前から「言い訳」を探してしまう自己保存の心理だ。

それから「自分以外にネガティブなのに自分のことだけポジティブでいるのは無理」という話。

これは「悪口」を言ったり「批判」ばかりしていると、いつか自分に返って来て罰が当たるとかそういう話ではない。

「欠点探し」が癖になってしまい、やがて「自分に対しても欠点探しばかりする」ようになるのだと言う。

チャンスが巡って来てもまず「ピンチ要素」を見つけ出そうとしてしまう。

もし自分に「チャンス」がやってきたら、僕の場合であればきっとほとんど「そのことだけ」を考えて、とにかくその「チャンス」を確実に自分の元にたぐり寄せるまで絶対諦めないようにするだろう。「ピンチになったらどうしよう?」という不安はむしろ積極的に考えないようにする。なぜなら「ダメな時はダメ」と思ってるからだ。

だからこの「ネガティブ要素を探す」という思考法は、「ネガティブを取り除いて『何がなんでも』目標を達成しよう」というポジティブな意志の表れではないんだと思う。

「どうせ失敗するからその時のうまい言い訳を今から見つけ出しておこう」と物事に取りかかる以前にすでに「後ろ向き」になっているのだから、さっきのハードルと一緒で目前に迫る問題など片付けられるはずがないだろう。

しかもニートは「考え方」を変えようとしても無理らしい。だから「言葉を信じてなくても『大丈夫』と繰り返し言うようにする」のだそうだ。

これは僕にとっては驚きだと思う。「心で思ってなくても大丈夫と自分に言い聞かせる」なんて言ってみればスポーツの試合や試験の前に「手の平に人と三回書いて飲み込む」のと同じで、「迷信だけど意外に効果がある自己暗示」みたいなもので普通にみんなやってることじゃないか?

つまりニートの人って言うのは「心=真実」で「言葉=真実の写し」みたいに「別々に」考えてるんだと思う。

しかし「不安が真実」で「やる気を出すための言葉が嘘」なんて感じるなら、誰だってプレッシャーに押しつぶされてしまうと思う。

心の中に不安が広がりそうになる時に「不安だ、、、」と言わずに「大丈夫!」と自分に繰り返し言い聞かせるって、、、

まったく「普通」のことじゃないか?

面白いと思うのは、そこでこのニートの人が「考え方は変えられないけど言葉は変えられる」と言っている点だ。

僕に言わせれば「いや、、、『言葉を変えること=考え方を変えること』だし、なんでそれがバラバラに感じられる?」という感じだ。

「大丈夫!」と言い聞かせる自分=嘘の言葉
「不安だ、、、」と引きこもろうとする自分=本当の心

こんな風に自分が分裂してたらそれは「本当の心」を選んで「不安」の中にこそ自分の居場所を見つけてしまうだろう。

「大丈夫!」と言い聞かせる自分が「嘘まみれ」で「偽物」と感じられるってある種の自己乖離状態で端的に「鬱」だと思う。

だから言葉で強烈に「宣言」をしないと自己同一性が失われてしまう、、、。

そこで「謙虚にならないように心がける」らしい。

これのおかしかったのは「謙虚」であろうとすると挑戦回数が減るそうだ。だから失敗も減るのだが当然成功も減ってしまう。

図々しくチャレンジする人は失敗も多く成功も多い。

これは面白い比較だと思う。

例えば謙虚で思慮深く慎重に行動する人が10回挑戦して2回しか失敗せず「80%の成功率だ」と安堵する。

全く無計画で尊大で大胆に100回挑戦する人が50回失敗して50回成功して「成功率は50%」だと嘆く。

だけどちょっと待てよ。8回しか成功してない人間と50回成功してる人間、どちらが「前に進んでる」?

100回チャレンジして10回しか成功しなくたって、10回挑戦して8回成功したと豪語するやつよりも2回も多く成功してるじゃないか!

こうやって強引に着眼点を変えることも時には必要だと思う。











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悪いことばかり考える [雑感]

悪い事ばかり考える人というのがいる。

「悪いこと」を考える人は行動を起こすことをためらう。

そして「悪いこと」を避けるための理由を並べて、「計画を中断する」「行動しない」「コミットしない」「逃げる」という選択をする。

ところがそうやって「何もしないことを積極的に選ぶ」と、なぜか何もしてないにもかかわらず「安堵」の気持ちが訪れる。

それどころか、むしろその「安堵」のせいで「何かを得た」ような気分になる。

これはおかしな話だ。

実質「0」なのに気持ちだけが「バーチャルなプラス」になっている。

まるで自分で作り出したマイナスの気分にマイナスの行動を乗算したから「プラスになった」みたいな充実感だ。

こういった「観念論」が人々の心を支配している理由は、みなが「お金」とか「経済」に基づいた労働と消費の世界に生きているからで、そこで醸成されるこの観念は「心理学」よりはむしろ「金融工学」として解明されると思う。

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逆に「良いこと」について考えてみよう。

「良いこと」は「現実的なプラス」で、自分の目の前に結果が残り、それを他人も共有できる状態を言う。

だからそれを現実のものとするためには行動を起こしコミットし、その観念を物質として客体化する以外にない。

そのためには自分の頭の中の「観念」から外に出て、予測できない不確定性のカオスである「世界」を相手にしなければならない。

「説得力のある企画」とか「他人との交渉」とか「うんざりする単純労働」とか「ねじ伏せなければならない物理法則」とか。

だからほぼ必然的に「失敗」を含む。

つまり行動する過程のどこかで必ず「失敗=悪いこと=マイナス」を生じさせてしまう。

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人は根本的に「良いこと」を欲する。「良いこと」というのはうれしいことであり悦ばしいことであり快活で自分の生を肯定する観念だ。

にもかかわらず、その「良いこと」を現実化しようと努力すると必ず「失敗」が起きるから、それが「悪いこと」として思い描かれる。

だから「悪いこと」は「良いこと」の派生物として生じる。

しかもプラスになるよりはマイナスになる確率の方が高い。

「想像」や「観念」は自分の頭の中で閉じた「確定性」を相手にできるけど、「行動」は世界という「不確定性」を相手にしながらなおかつその取り組みを「続けなければいけない」からだ。

頭の中で一瞬で作り出せる「成功」も、現実の行動においては辛い努力の果てにしかやってこない。

だから「始めることは簡単」であり「成し遂げることは困難」だ。

努力をしても徒労に終わるかもしれないと思えば人は「ひるむ」。

ひるんでびびって「失敗したくない」と思う。「良いこと」を望めば望むほど、それが高ければ高いプラスであればあるほど、逆にコテンパンに打ちのめされるドン底のマイナスを作り出してしまうかもしれないから恐くなる。

恐くなるから逃げたくなる。

そこで「悪いこと」だけを考える。「悪いこと」が巨大であればあるほど、それが乗り越え難く目の前に立ちふさがれば立ちふさがるほど、自分がそこに「挑戦しない理由」をより確固たるものにすることができる。

「俺は誰にも負けない善い行いを為そうと欲しているのに、世界は絶望的に無理解でその善を踏みにじる」

「俺がツイていないのは世界のせいだ」

「世の中が悪い」

そう言ってしまいには「世界を悪」に仕立て上げる。

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もはや「世界は悪」なのだから、自分がどんなに「良いこと=プラス」を実現しようとしてもマイナスにしかならない。

それなら「何もしない」方がマシだ。

「0」の方がいい。

現状維持だ。

良かった。少なくとも俺は失わずに済んだ。

このまるでマッチポンプみたいに脳内で生成される「安堵感」。

ヴァーチャルな「お得感」。

こういう「錯覚」を作り出す人間は「努力」を恐れ、翻ってそれをバカにするようになる。

本当は努力する他人に対して「おまえがやっている努力はムダだ」と小馬鹿にしたいのだが、それを言ってしまうと自分が作り出した「錯覚」も、それによってひた隠しにする自分の「みじめさ」も露になってしまうから嘘をつく。

つまり「自尊心」のために「物事の悪い面」だけを強調するのだ。

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人間は「良いこと=プラス」を欲するが、現実の「悪いこと=マイナス」の総量は必ずそれを上回る。

(自然は無慈悲で善も悪も持たないから、人間の観念上にある『良いこと』は常に裏切られる)

だから「悪いこと」の方がより多く現実化し、「悪いこと」ばかり考えている人の方が「よく当たる」。

「人は死ぬ」と言えばそれは100%正しく、同様にいつか必ず「世界は滅びる」。

つまり「悪いことばかり考える人」は必然的にいつも正しい。

ところがその「正しさ」と引き換えに「努力とその中に生じる悦び」を放棄する。

資本主義という悪魔が人間のエゴにかけた「呪い」のせいで、彼は「生きる悦び」よりも「己の正しさ」を証明することにその人生をかける。



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普通であることの罪 [雑感]

今日車のワンセグで芸人とクリエイター3人の対談というのをたまたま見た。

現代社会で「クリエイターと呼ばれる人間」になるためにはいかに「病んでいなければならないか?」が分かって興味深かった。

各種業界の中に「クリエイター」のステレオタイプがあって、その「型」に知らず知らずにはまっていく人間が社会的に「クリエイター」や「アーティスト」と呼ばれる「居場所」を見つける。

二人の話を総合するとこんな感じになる。

「根底のところで人を信頼していない。根底に『絶望』と『破滅願望』がある。学生時代、いわゆる青春時代に『何もなかった』。人はそこで恋愛したりケンカしたりして『大人になる』と思うが、それができなかった。

だから今その『青春』を取り戻そうとしている。だけどいつまで経っても『お腹いっぱいにならない』。『青春ゾンビ』なんです。

あらゆる『ウケる創作物』『流行もの』は『あるあるネタ』だから、それを作ろうとしている。

他人と一緒に住むなんてできないから一人でいる。人が家にいることに耐えられない。なぜならその人に対して『コスプレ』(演技)をしなきゃいけないから。

電話もかけられない。なぜなら相手が何かやっていてその『邪魔をする』のではないか?と思うから」

そしてこう結ぶ。

「基本的に自意識過剰なんです」

そこで芸人が「だけど、それが創作の源になるんですよね?」と聞く。

クリエイターが言う。

「社会性を取るか創作を取るか?ってことだから、担当者は逆に『電話なんかしなくていい』って言うと思う。だけど『両方できる』ってのが一番すごいじゃないですか?」

するとその芸人が答える。

「僕は両方やってるつもりですけどね。『ちゃんとした』人間ですから。これでも『常識人』だと思ってるので」

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「鏡地獄」みたいにねじれまくったこの現代社会における、「普通」と「創造性」の大変興味深い「対比」がある。

この「クリエイター」たちは典型的な「アダルト・チルドレン」で、それがつまり「業界」にとっては理想的な「生産者」として重宝される。

(彼らは主体的に『創造』してるのではなく、需要に基づいた『あるあるネタ』を『生産』している)

だから、彼らは「チルドレン」のまま「社会的自己実現」をある意味果たしたのだから、現代の幸福基準で言えば「幸せ」なんだと思うし、実際そういう「幸せ」を目指す人間がうじゃうじゃいるだろう。

彼らは基本的に「親」や「社会」を恨んでいて、自分の不幸を「そのせい」にしている。

その「恨み」は「自己嫌悪」へと向かい、それがまた反転して表裏一体となった「自意識過剰」を生み出す。

その自己同一性のアンバランスさこそが「アイデンティティー」となるともう取り除くことはできないから、それゆえ「常識」を身につけることに抵抗する。

「常識的になること」「普通に生きること」を選択した時、「チルドレン」はもっとも許し難い「普通の人間」に堕してしまう。

それは何よりも苦痛で「自己嫌悪」を増幅することにしかならない。

だからこの人たちは「クリエイター」になれて良かったと思うし、現代人の多くは潜在的に「クリエイター」になりたいんだと思う。

そうすれば「チルドレンのまま」でいられるから。

しかし「クリエイター」になんかなかなかなれないし、「日常」や「常識」に無理矢理封じ込められる人間がほとんどなのだ。

そこで潜在的に「子供じみた表現欲求」が抑圧される。

だから家庭内暴力や子供への虐待はそんな人間にとっての「クリエイション」となる。

親からも学校からもメディアからも「すごい人間になれ。すごい人間にならなければ生きる価値がない」と吹聴し続けられたところの「転倒」がそこにある。

その人たちにとって「普通」であることは「罪」なのだ。









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原発と憲法 [雑感]

「憲法とは権力を持たない『主権者・国民』が、権力担当者すなわち政治家や公務員という、本来的に『不完全な人間』に課した制約です」と今回の安保法案について違憲判断をした憲法学者の一人が語った記事をネットで見た。

「憲法は国家に対する命令」という言葉を思い出したが、ハッとさせられたのは「人間という不完全な存在」という部分だ。

それで全く関係ないが「原発という不完全な存在」ということを考えた。

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原発を「規制」するのは、その安全性を「完全」にするためだ。ところが地震や津波といった自然災害は人智を超えた破壊力を持つから、それゆえそれらに対する防御には「不完全さ」がある。

「不完全」であるならそれは稼働できない。ゆえにその「不完全さ」を「想定外」「予見不可能」つまり「想定する必要がないものにして」取り除くことによって、擬似的に「完全です」と言い張ることでしか「稼働」は可能とはならない。

もしそこに「不完全さ」があれば、それは「規制」とか「法案」に照らせば、論理学的には「稼働してはいけない」ということになる。

その完全性が虚像で、推進する側にとってさえも原子力は「夢想」であったがゆえに、彼らの無意識へと抑え付けられた良心の呵責は「夢のエネルギー」という呼称の中に本心としてうっかり表出してしまった。

そこで憲法について考える。

「人間は不完全だ」ということは、人間は「もしかしたら」あるいは「必ず」間違いや罪を犯す、ということだろう。

だからまずその『罪』を犯してはいけない、という原則を作るからそれが憲法になる。

「人間は不完全だから罪を犯すゆえに罪を犯してはいけない」

これは何か語義矛盾しているように思えるが、前半で「不完全さ」を認め、後半で目指すべき「理念」について語っているわけだ。

つまり「憲法」は一つの「理念」であり、論理学的な厳密さで明文化された人が目指すべき「理想」なんだと思う。

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福島原発事故後の原発の安全基準を巡る議論の中で、「事故は起きるという前提で」ということをICRPら推進派が言い始めた。

最初は「想定外」として「危険性」をひた隠しにし「絶対事故は起きません」と「嘘で塗固めた理念」でだまくらかして来たのだが、原発が爆発して放射能をまき散らした後になったら「ぶっちゃけ危険だから。俺、知ってたから」と開き直り「だから事故起きるよ。そのうちまた、絶対、悪いけど。その時はまたみんなで我慢して手伝ってよ」と民間人に自助努力を求める。

もちろん現実的に本質的に「不完全」だったわけだから、事故後の言い分から取り払われようとしてるのはこの「理念」の部分だ。

こういう話をこの「憲法」の話と繋げてみる。

すると原発問題も憲法問題も、巧妙な形で人々の心理に対して「偽装」していることが分かる。

「人間は不完全だから罪を犯す。だから罪を犯してはいけないという法律を作る」
「原発は不完全だから事故を起こす。だから事故を起こしてはいけないという法律を作る」

こうして二つの言い方を並べてみると、何か似たようなことを言っているようにも見える。

しかし決定的に異なるのは、法律によって規制を受ける対象が「人間」と「機械」であるという点だ。

人は「理念」に従うことができるが、機械は「理念」には従わない。

だから機械に求められるのは、設計上の「完全さ」なのに、なぜか「法律」によって「不完全な原発」が「より安全になる」かのようなニュアンスが作り出されている。

○「不完全な人間が憲法という理念によって完全さを目指す」
×「不完全な原発が規制という理念によって完全さを目指す」

原発が「理念によって完全さを目指す」って何だ? この時原発は「まるで人間のように」扱われている。

そして改憲派は「憲法九条は理想であり現実にそぐわない」と言う。

この時、社会や人間は一つの機械のように「効率性」や「生産性」や「経済性」をひたすらに追求し、その駆動メカニズムから無駄を取り除いてコスト削減すればするほど、それはまるで「永久機関」みたいに「設計上」の「完全さ」に近づけることができるかのような話になる。

今度はこうだ。

×「不完全な人間が経済というメカニズムに従ってより効率性を向上させる」
○「不完全な原発が設計というメカニズムに従ってより安全性を向上させる」

そしてこの二つの文言をシャッフルし、権力に都合のいいようなメッセージを作文する。

×「不完全な人間が経済というメカニズムに従ってより効率性を向上させる」
×「不完全な原発が規制という理念によって完全さを目指す」

改憲には「人間」が邪魔で、原発稼働には「機械」が邪魔だから、

「人間は機械のように、原発は人間のように」扱うのである。

こういった詭弁が可能となるのは、その対象が「人間の心理」であるからで、その「心理攻撃」に対して主体性の希薄な日本人は実に脆弱だと思う。

現政権はその「弱さ」を巧みに利用しているようにも見えるし、それは国民と国家の関係と言うより「消費者」と「広告代理店」の関係に近い。

広告プランナーは「虚」と「実」を巧妙に入れ替えて消費者心理を操作することで「浪費」と「搾取」の片棒を担ぐ。

その術中にはまらないためには創造的リテラシーが必要だ。

原子力は物理の問題であるがゆえに「夢のエネルギー」というコピーは物質にとって「虚像」となる。

憲法は倫理の問題であるがゆえに「夢の憲法」というコピーは精神にとって「実像」となる。


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天才を待ちわびて [雑感]

台所で料理や片付けをしている時には「自分のやりたいように」やる。

まな板の置き方や水切りかごへの皿の並べ方とかそういった「細かいところ」をイチイチ気にしたりしない。

ただそうは言っても結婚して子供ができて家事を共同でやるようになってから微妙に変化したとは思う。

「配置」とか「段取り」とか「効率性」とか多少は「マシ」になってきているとは思う。

そういうことを「まったく」意識しない時はたしかにあった。

学生の時から始まった一人暮らしの間、一体自分はどんな風に「家事」をやってきたのか?

記憶していないぐらい本当にテキトーだったと思う。

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マティスという有名なフランス人の画家がいて、その人の絵とか訳分からないぐらいド下手なのもあるんだけど、たまにものすごい傑作がある。

だいたい大きめの油絵がいいんだけど、一番すごいのは晩年の巨大な「切り絵」とか壁画だと思う。

すごいんだけど「やりたいようにやっている」ようにしか見えない。

「やりたいようにやっている」んだけど度肝を抜かれる。

「何なんだろう?」と思うから立ち止まって眺めてああでもないこうでもないとひとしきり感心する。

感心してずっと見ているのだから「感動」しているのだろう。

ポイントは「やりたいようにやる」という「誰もが持っている全能感」みたいなものを、マティスが熟知して「目に見える形にしている」ところだ。

「自分の中でははっきり分かっている全能感」っていう意味で言えば「僕サッカー代表でゴール決める」と豪語する子供がその子自身の内において「はっきり分かっている」のと似ている。

問題なのはそれを「目に見える形にする」ことの方で、言葉の真の意味で「ゴールを決める」のは現実には本物の日本代表選手の中にしかいない。

「ワールドカップでゴール決める」なんていうデカい話になればいい大人だったらさすがに「妄想」と自覚して自分とは無関係なものと割り切るけど、「鉛筆を使って紙の上に線を引く」程度だと、何となく「俺にもできるんじゃないか?」とか「こんなの誰にでも描けるんじゃないか?」と思わせる「魅力」がある。

それが「美術館の壁に永久展示されている」ということはサッカーで言えば「ワールドカップの歴史に名を刻んだ」みたいなイメージだ。

「俺のシュート」じゃワールドカップでゴール決めるなんて夢のまた夢だけど(そういうCMならある)、「俺の落書き」だったら美術館に掛かる可能性だってないことはないのではないか?みたいな気分にさせてくれるところがマティスやピカソの魅力の一因ではあると思う。

濱田庄司という陶芸家が「シャッシャッ」と釉薬を焼き物に引っ掛けながら「こんなこと俺にもできるというヤツがいるが、この一瞬に数十年の修練が凝縮されている」みたいなことを言っていたけど、そういう「研ぎ澄まされた感覚に与えられる社会的価値」がたしかにあるんだ(サッカーにだって『嗅覚』や『イマジネーション=想像力』といった感覚が要求される)。

どこかの動物園で象が鼻に筆を持って絵を描いたりしてるけど、それとマティスの絵は同じに見えるって人は、ワールドカップのシュートも草野球のホームランも同じだって考える人だろうから、「その人の内においては」たしかに全ての価値はイメージとして等価なのだから幸せだと思うし、否定されるいわれもない。

ここからは「みんなが『すげえ』って認めるだけの別格な感動はあるでしょう、マティスにもワールドカップにも」って考えてる人にしか分からないレトリックになる。

マティスの絵にシロウトの描き殴った落書きより価値があるとするなら、それはその「気楽に引いた線」にマティスが長い時間をかけて「身につけた判断力」が表出しているからで、それは「創造」っていうよりも誰もが持っている認識能力の「拡張」とか「補正」に近い。

自分たちが知っている感覚(線で顔を描くのは難しいとか歴史ってワクワクするとか)の延長上でそれが理解できる。

たぶん、「天才の仕事」というのはそういうものなんだと思う。

そこで料理の話だ。

僕が台所で「やりたいように炊事をした」ら、きっと「ぐちゃぐちゃ」とまでは行かなくても、がんばった分何となく「とっ散らかった」状態にはなる。

もしマティスが「天才料理家」で、時空を超えて家の台所で仕事をしたら、文句も言わずにさっとそこにある調理用具と食材で一流の料理を作ってみせるだろう。

妻はほれぼれとその姿を見て料理を一口食べて「涙を流し」きっとその全てを「真似したくなる」に違いない。

まず目に見えるところから入るかもしれない。包丁の使い方とか食材の並べ方とか片付け方とか。

ところが大抵の「夫」はこんな天才料理家じゃなくて凡庸な「評論家」なんだ。

食事の用意が出来てないと言えば「ほら見てみろ、こうやるんだ!」と言わんばかりにこれ見よがしにやってみせて「どうだ」と無言の圧力を加える。

チョロっと手を出して来て「何で冷蔵庫の中がこんなにぐちゃぐちゃになってる?オリーブオイルはどこだ?フライ返しは?日頃からちゃんと整理していればこんなことにならない」とか文句しか言わない。

「私には全部分かってるの!何しゃしゃり出て来て偉そうにしてるんだこのタコ!」

これなら手伝ってもらわない方がマシと思うがお互い忙しいからやってもらわないわけにもいかない。

幸い日本には「もっと立派な評論家先生」っのがうじゃうじゃいて、その夫の姿に対して「いやいや育メンとしての姿勢がなってませんね」とか「弘法筆を選ばずですから今ある台所と食材で最高の料理を作れるのが天才料理家ってもんですよ」とか何とか「さらに偉そうに」テレビで言ったり本に書く。

夫に「見下された」と感じている妻がそれを聞いたり読んだりして溜飲を下げる。復讐としてそんな「もっとすごい人」の言葉を引いて言う。

「ほら見て。やっぱり『本当にすごい人』は違う。やるならこれぐらいやらなきゃね」

とか何とか(あんたごときに偉そうに言われる筋合いはないの意)。

評論家きどりの妻による評論家きどりの夫のための「本物の評論家」による評論。

評論、評論、評論の連鎖、評論の応酬。

そんなどん詰まりから抜け出したくなるからさらに高みを目指す。

「ああどこかに『サッと神業のようにこのどうしようもない台所、このぶっちらかった台所で、最高にうまい料理を私に食べさせてくれる人』がいたら!

その時私はどんなにか幸せになって心を入れ替えて、その姿を真似ていずれ絶品の料理を作れるようになるだろう!」

今の日本ってのはこの「ぶっちらかった台所」みたいなもので、そこでみんなが「食ったこともないような夢の料理」や「天才料理家」を待ちわびながら、それでも日々食べなければならないから段取りの悪いお母さんや手先のおぼつかないお父さんが作るご飯を「とりあえず」食べて「しょうがない」と諦めてるようなものだと思う。

キッチンを改築する」と大言壮語してみたり「粗食で十分」とか「食べるものないよりはマシ」と自己憐憫してみたり「その前に食材途絶えて餓死するかも」と嘆いたり。

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回りくどくなったがこの話の主題は「天才」を根本的に別な人種と考えて「あがめたてまつる」悪い習慣を止めようということである。

それは自分が努力しないことを正当化するための悪癖だから。

マティスは言う。

「私は日々進歩している。それが私の本分だ」









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一つ屋根の他者 [雑感]

結婚に対する決定的な認識の誤りがあってそれがまかり通っている。

その広く流布した誤謬のおかげで多くの夫婦が危機に陥っている。

それは「理想のパートナー」というおよそ絶望的な幻想で、なぜそんな観念が必要とされたのか不思議になる。

結婚するのは相手が「理想のパートナーだったから」と言うならその「過去の栄光」が二人の最高の到達点となり、それゆえ結婚生活は年を重ねるごとにただ落ちて行くだけの長い下り坂となる。

妻が聞いたラジオ番組の対談で何とかという精神科医が、

「だから夫はその期待を裏切ってはならず、『ありのままの自分』なんて家庭で見せてはならず、すなわち『夫』を演じることを『当たり前』と感じれば幸せになれる」

と言っていたらしい。

僕に何か言いたかったのだろうが聞いた瞬間に、

「本当にそれ精神科医が言ったの?まったく想像に難くないけどだから日本の精神科医はダメなんだよ。だってその『演技』が原因でみんな『うつ病』になってるんだよ。家庭だけが『ありのままの自分』でいられる場所で、そこでさえも『演技しなければならない』なら、それはその元々の『ありのままの自分』がすでにおかしいのか、妻も夫も『ありのままの相手』を受け入れられないのかどっちかだよ。つまり最初の『理想のパートナー』っていう設定が間違ってるんだよ」

と言った。

本当にこういう資本主義のあまい汁を吸ってるインチキ精神科医がその「メシの種」である「患者」を量産するためにこんなデマカセを偉そうに垂れ流してるのかと思うとうんざりしてくる。

だから一組でも多くの夫婦が救われるためにここに言うけど、結婚っていうのは「理想のパートナー」を見つけて「始める」ものじゃなくてそこへ「至る」ものなんだ。

「私を完璧に理解してくれるもう一人の私」みたいな「理想のパートナー」という幻影と「結婚20年してだんだん化けの皮がはがれる赤の他人」と比較したら、どんな人間だって「ぼろ雑巾」か「ふるだぬき」みたいに見えるだろう。「そう見えない。私の相手は完璧だ」と言い張るならただその「色眼鏡」が外れてないだけでいずれそのレンズは曇ると思う。

--------

人は一人では生きて行けないけど、同時に自分と同じ考えの人間もまた存在しない。

自分の認識は自分にしか属さず、言葉の真の意味で言えば「分かり合える他人」など存在せず絶対的に「孤独」なんだ。

こんなの哲学的に当たり前の命題だ。

明治生まれの今は亡き僕の祖母は言ったんだ。

「結婚は人生の始まりだ」

って。

それで僕は若い時「何言ってんだ」と思った。結婚しようがしまいが俺の人生はもう「始まってる」って。

だけど、結婚してからまったく理解し難い形だったけど「いや、ばあちゃんは正しかったのでは?」とおぼろげに思った。

そして、子供が出来て育てる中でその思いはますます強くなった。

僕が今漠然と考えることは、人間というのは一人でいる限り恐ろしく「子供」なんだと思う。

その「子供」がもう一人の「子供」と一緒になる。

そしてまるで遊んだり喧嘩したり仲直りしたり話し込んだりしながら少しずつ「大人」になる。

「〇〇ちゃんは私の大親友!」と言ってみたり「大嫌い!」と絶交したりすることもあるかもしれない。

それで少し大人になるとそこに「もっと小さい子供」が加わる。

その子供を少しずつ「大人にするために」子供が力を合わせて面倒を見ることで「ちょっと大人になった子供はもっと大人になる」。

本当の意味で成熟した大人は存在せず「未熟な子供同士」が生活を共にすることで少しずつ「大人」に近づいて行く。

これが家族なんだ。

つまり人は自分が「人として成長するため」に「絶対的な他者」を必要としている。

夫なり妻という存在はそうやって絶対的な他者でありながら「一つ屋根に暮らす」という重責を引き受けて、「人が人になるための道」を共に進むことに協力してくれる人なんだ。

そして生まれて来る子供というのは「必然性をもった他者」で、そしてまた「一緒に大人になる一人の人間」なんだ。

もし家族に「素晴らしさ」があるとすれば、それはこの圧倒的に孤独で未熟で、それでもやはり「成長したい」つまり「生きたい」と切望する自分という他者に対して、決して相容れないもう一人の他者として「ずっと一緒にいてくれる」ところだ。

それを人は無償の愛と呼ぶ。

だから「理想のパートナー」という概念はこの命題に対して真逆の表象になる。

「結婚は人生の墓場」とはよく言ったものでそれは「理想のパートナー」という虚像と対を為す。

「理想のパートナーだから一緒にいられる」と考える人間は結婚をいずれ「呪う」ことになるだろう。

人として幸せを望むならその事実をまず受け入れた方がいい。

結婚披露宴の「ケーキ入刀」は「初めての共同作業」と呼ばれる。

それは謂れのないことではない。










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