So-net無料ブログ作成

ブラックボックス [生活]

i70-fix.jpg
プリンターの中を覗く。

8年以上使っているCanonのポータブルプリンターが壊れた。

プリントしようとすると、プリントヘッドの部分が動いてスタンバイ状態になるのだが、最後のところで、「チキチキチキチキ」という音を立てて、エラーが出てしまう。

プリントモニターには「内部機構に問題が発生しました。カスタマーセンターにお問い合わせください」みたいなエラーメッセージが出る。

何度電源を入れ直しても同じ。

ノズルが行ったり来たりして、最後におかしなモーター音。エラー点滅。

「ああ、とうとうこのプリンターも壊れたか」

と思う。

気に入ってたのだ。インクはすぐになくなるのだが、出先で使うぐらいだからそんなに使用頻度は高くないので十分。ラップトップと一緒に持ち運べるし、今まで紙詰まりも故障も全くなかったから、買い替える必要もなかった。

しょうがない新しいのにするか、と思ったら、今は最新型が2万円で買える。

しかし考えてみたら、まだインクカートリッジが6本ぐらい余っている。これが全部無駄になってしまう。結構な金額だ。

あと、最新のプリンターの問題は、本体は安いのだが、インクカートリッジがバカ高い。本当に4-5回買ったら、本体と同じ金額になってしまう

古いプリンターの4色とかの方がカートリッジは安い。6色+ダブ黒なんていう高画質が必要なければ、つまりどうせ文書印刷ばかりだというなら、故障がなければ、古いプリンターを使い続けた方が印刷コストははるかに安い。

Canonのウェブサイトを調べてみると、修理はポータブルプリンターだと一律7000円ぐらいなのだが、この機種も、この次の機種も、すでにアフターサービス終了になっている。

部品がないから修理できない、新しいのに買い替えてくれというわけだ。

これで諦めるわけにはいかない。こういう時にインターネットは本当に役に立つ。

「Canon i70 故障」とかで検索したら、全く同じ症状で修理した人のブログ記事があった。

分解して、中の給紙用のスプロケット(歯車)が割れているところを削って、瞬間接着剤でくっ付けたらとりあえず動くようになった、と言うのだ。

自分でも試してみる。ネジが極小なので、カッターの先端で回す。しかし、外し方がよく分からない。どうも本体カバー全体が、いくつかの「爪」で連結しているらしい。こういうのは簡単に外せないようになっているようだ。

何とか本体上面カバーを外すと、果たして、同じスプロケットが、全く同じように割れていた。
i70-fix2.jpg

手で回してみると、それが回転して隣の金属の歯車とかみ合う時に、その割れた部分が引っかかって止まってしまうようなのだ。それで、その引っかかっている辺りの歯をカッターで少し削って、多少スムーズに回るようにしてみる。

カバーを外した状態で電源を入れてみる。

すると、「チキチキチキチキ」という異音はまだ多少出るが、歯車も連動して、印刷スタンバイ状態になった。

カバーを戻して、テスト印刷。無事印刷できるようになった

もちろんまだスプロケットは割れたままだから、削った歯が折れたりしたら終わりだろう。

しかし、残りのインクカートリッジを使い切るぐらいまでは行けそうだ。

機械いじりとかが得意なわけではない。

だけど、何か単純なことで直ってしまうこともある。

僕も含めて多くの人にとっては「プリンター」も「冷蔵庫」も、そして「原発」も、ブラックボックスだ。

故障してもトラブルがあっても、その「専門家」に任せるしかない。

その人たちの言いなりになって「修理出来ません」と言われれば、受け入れるしかない。

しかし、それを安易に受け入れていると、次から次へと新商品を、しかももっと高くつくものを延々と買わせられてしまう。

例えば、携帯も、みんなが手放せなくなると、だんだん機種代金や通話料が高くなるが、もう抜け出せない。

おそらく消費者も、自分たちが使っている「エレクトロニクス」について、もう少し勉強するか、調べる努力をしなければだめだと思う。

「分からない」で切り捨てていたら、その消費サイクルに組み込まれざるを得なくなるし、原発も「専門家」の都合のいいように運転させられるがままになる。

世界は変わった。だから、消費者も世界への関わり方を変えなければならない。そこには当然「電気製品」も含まれる。

お母さんたちもそう。「わたし機械得意じゃない」なんて言っていられない。そういう世界に入る覚悟がなければ、単なる感情的な反発だけで終わってしまう。

もちろん感情は行動の出発点だ。しかし「機械得意じゃない」という理由で、あとは他人任せに「消費しても許される」というのなら、それは自分の怠惰を、「感情」を言い訳に「甘やかしている」に過ぎない。そういうことが許される社会に生きてきたのだ。そして、その「甘え」を養分にして、資本主義社会は肥え太ってきた。

だからその社会を許せないのなら、もう「原発よく分からない」じゃ済まされないということだ。

つまり、今まで考えたくもないと思って来たことでも、考える覚悟がなければならないということだ。

なぜこんなことを言うかと言うと、「原発容認」している一般人は、男でも女でも結構な数いて、もともとそういう人たちは「理系」で原発のメカニズムにも詳しくて、爆発前後にはすぐに避難してる人も多いし、事故の深刻さ、政府対応のおそまつさについてもかなり鋭く認識している。言ってみれば「専門家」に近い一般人で、そういう人たちは「これ以上は危ない、ここまでなら問題ない」みたいに「原発を容認」している。

そういう人たちと、「何も考えない」いわゆる「B層」が組合わさると、権力にとってもっとも都合のいい「大衆」が出来上がるということだ。

それに抗していかなければ、世界は何も変わらないだろう。そのための「覚悟」ということだ。

しかし、、いや、、、やはりそれは、、、いまさら無理か。今までのジェンダー教育の問題もあるのだろうし、、、。

きっと、そういう「覚悟」みたいなのを受け入れられないと、60年代の「コミューン」みたくなるんだろうな。「わたしたちはわたしたちで生きていく」みたいに、、、。でも、それも、うまく行かなかった。衰退したんじゃないだろうか? それとも、どうなんだろう?西海岸辺りにはそういうコミュニティーが今もあって、原発事故を冷ややかに見ているのだろうか? でも、原発稼働し続けたら、せっかくのその「理想郷」すら破壊されてしまうと思うのだが、、、。

そうだな、、、だから、こういうことだ。

これからの子どもは、自然から学ぶ。これが第一。しかしデジタルリテラシーも当然必要だし、男の子も、料理も裁縫もして、女の子も、機械いじりと大工仕事を率先してやって、この世界で生きて行く術を身につけるということ。

自分でできないことを子どもに要求するのか?

こういうことって子どもに過剰に期待する教育ママと変わらない心理なのだろうか? ただ目指すところが、ロードマップが用意された社会的成功という「現実性」なのか、達成するのに5世代ぐらいかかりそうな普遍的真理の「非現実性」なのか、というところだ。

もしかして共産圏ではそういう授業を「理想」としていたのだろうか? 気になる。

イデオロギーに従属するのではなく、そういう理想を血肉化する、、、となると、またニーチェの「高貴な人間」の話になってしまうのだが、、、。

いずれにせよ、ぼけーっと生きてては済まない世界になったということだ。

road.jpg
家の前はコンクリートで埋められました、、、。 左下のペットボトルは工事の人が捨ててった。こういうことするなよ、、。

避難生活 [生活]

110826.jpg
もらったベッド、もらったシーツ、もらった枕。

今日は快晴。

快晴!!!

と心の中で叫んでみる。

「!!!」の余韻。

そういうエネルギーがなんで必要なんだろう?

それで1日過ごしてみる。

、、、と思ってたら、午後からまた雨が降りそうな気配。

とにかく、今日は原発のことは考えない。


人生設計 [生活]

「3.11以前の人生設計はもう意味がないかもしれない」というブログ記事を読んだ。

うん、たしかにそう思う。

僕たち家族は避難して、引っ越したから、「3.11以前の生活」に戻ることは、字義通り「一生」ないだろう。

時々、何だか、悲しくなることがある。毎日保育園に送り迎えしたり、公園で遊んだりしたことが、ある日突然生活から消えてしまったということが「本当なんだ」と思うと。

避難して新しい部屋を借りたばかりの頃、子どもがその家を「マンション」と呼ぶので、「ここがお家だよ」と言うと、「ちがうよ」と言う。「え、じゃあおうちどこ?」と聞くと、「えーと、、(大家さんの)わんちゃんがいてー、ねこちゃんがいてー、あと、ちゅうしゃじょうがあってー、おおやさんのくるま、あったでしょう!!」と言う。そして「あと、、、いとうせんせいとかー、○○せんせいとか、いたでしょう!」と、何だか恥ずかしそうに叫ぶのだ。

その後も僕に電話で「おとうさん、うなぎ買って来て。フォークリフトのあるところで(生協のこと)」とか、子どもなりに、自分の「生活」の記憶を持っている。

別にその生活がすごく充実していたとか、満足していたというわけではないけど、何となく漫然と過ごしたそういう「ささやかな日常」にもう触れることができない、それはもう「記憶」の中にしかない、と考えると、悲しくなってくる。

だけど、僕らはそれで良かったと思う。いや、まだ良かったかどうかなんて分からない。

この人生選択が良いか悪いかなんて、誰にも分からない。

それが良いか悪いかが決まるのは、これから先の生き方で決まってくる。

つまり、僕らはその選択そのものに責任を追っている。

「選択」がまずあるのだ。そこには良いも悪いもない。ただ、それに対する責任だけがある。

3/11以前の「人生設計」があったとしても、それだって過去の一つの選択だったわけで、それをサポートしてくれる会社とか国のシステムがあったから、自分の「責任」があいまいになって、そのおかげで「漫然と」過ごせていたのかもしれない。

僕たちは僕たちの人生の責任を追った。自分に対しても、子どもに対しても、社会にたいしても。

それを意味あるものにするかしないかは、ただ僕たちのこれからの行動にかかっている。

過去が未来を決めるのではなく、未来が過去を決める、、、。

そのために現在を積み重ねること。

そして、現在はどこにあるか? 現在を知るために、人は過去=記憶を結集させて、それを未来に投げかけて「計画」し、そこへ向かって突き進んでいく。この「突き進む」ことの中にしか、現在はない。

だから人は、現在を「生きる」のだ!

、、、とベルクソン的に叫んでみる。

子どもはこの夏、海にゴーグルを付けて潜れるようになった。しかも、おっかなびっくりとかではなくて、見てる方がはらはらするぐらい豪快に潜る。そして、手足をばたつかせて「浮かんで」「泳ぐ」! こんなことができるなんて、避難する前だったら信じられないことだ。そして魚を見つけて「ぶはー!!」と顔を上げて、「いた!おっきいさかないた!見て!ちっちゃいのいっぱいいる!」とかうれしそうに話す。

前はプール教室通わせようか、なんて話してたけど、まさか、こんな風にきれいな海で毎日のように遊べるなんて、子どもにとっては、良かったと思う。

この9月からは幼稚園に通えることになった。

避難して、3.11以前の生活は過去になった。

しかし、そんなこんなで、こちらでまた新しい思い出が積み上げられて行く。

そして「人生設計」は書き変えられていくのだ。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。