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セミパラチンスク核実験場 [原発事故]

チェルノブイリ以前の核実験がこんなにひどかったとは知らなかった。

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セミパラチンスク核実験場では1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験が行われ、周辺の村を高濃度に汚染した。

核実験のエネルギー総量は、広島型原爆の約1,100発分、長崎型の約750発分に相当する。

環境に放出された放射性物質は、チェルノブイリ原発事故の5000倍といわれている。

住民の多くが今も循環器系疾患、甲状腺疾患、がん、異常出産、免疫不全、貧血症などの病気に苦しんでいる。村に残っているのは老人と貧しい人たちのみで、子どもの80%が春先になると鼻血をだすという村もある。自殺者も多い。

そのうちもっとも汚染のひどい村で推定被ばく線量は1〜1.5 Sv(1000mSv〜1500mSv)になる。

広島原爆の場合、爆心地から1.3kmで1000mSv。

福島原発事故の福島県の甲状腺被ばくだけ見ると、放医研は「推計」で、

「最も高い飯舘村の1歳児でも9割は30ミリシーベルト以下」と言っていますが、

「甲状腺被曝は30ミリ以下」 原発事故巡り放医研推計(朝日新聞2013年1月27日19時22分)

東京の被ばく量は、

3/15の一日で、外部被ばく、セシウム、ヨウ素内部被ばく含めて1mSv

(小出さんの大気サンプリング分析。ただし他核種のサブマージョン被ばくは不明)

アメリカ国防省のデータ「米国防省発表 地域別放射線積算量」(2011年3月12日から2011年5月11日までの60日間24時間屋外にいた場合の甲状腺被ばく量。屋内の場合は0.4をかける)だと、

新生児甲状腺被ばく 12mSv
大人甲状腺被ばく 5.2mSv

福島はずいぶん低く見積もられているようだし、全身の被ばく量と甲状腺被ばく量を単純に比べることはできないかもしれないが、

福島でもセミパラチンスクの30分の1だ、東京だったら400分の1から100分の1だから良かった、なんて思うだろうか?

それよりも普通は「0」なものを、数千倍、数万倍吸い込んで、他にどれだけの核種吸い込んだかなんて分からないってことの方が大問題だろう。

少なくとも、さらにその100倍吸い込んだら、セミパラチンスク周辺の村と同じような健康被害を引き起こすを、吸い込んでしまったのは間違いないわけだし、逆に被ばくした人間の総数は東京の方が多いだろう。それを「100分の1だから安全だ」と考えるのか、「通常の数万倍も吸い込んだんだから、これは危険だ」と認識するか。

それにしても、核開発など本当に馬鹿げている。

例えば、
1953年8月12日、初めての水爆実験が行われ、カイナール村の村人たちは、 全員避難させられることになった。しかし、実験の2日前、村にやってきた軍人たちは、42人の男たちに「重要な任務があるから村に残れ」と 命令した。実験の当日に42人の男たちは近くの山に連れて行かれ、爆発の光を見せられた。 そのうち40人がガンや白血病で亡くなり、1人は自殺した。
しかし、ソビエト政府は住民たちの健康被害が放射能汚染によるものだとは認めず、食事や公衆衛生、気候、工場からの粉じんや大気汚染の問題だとしてきた。さらにカザフスタンの人々には遺伝子に異常があるとさえ主張した。

いずれにせよ、チェルノブイリよりもひどいセミパラチンスクの被害ですら隠蔽されたのだから、福島原発事故の健康被害を「ないものにする」ことなど訳ないと原子力関係者は踏んでいるのだろう。

まあ旧ソビエトのようにはいかないと思うが。

以下、セミパラチンスク関係まとめ。

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「セミパラチンスク」森住卓

セミパラチンスク地区住民の核実験体験ー『広島平和科学』30 (2008)

セミパラチンスク核実験場は、旧ソビエト連邦のかつての主要な核実験場である。カザフ共和国(現カザフスタン)の北東部、セメイの西方150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km²(四国の面積にほぼ等しい)。

1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験に使用された。1991年8月29日に正式に閉鎖された。

市民の被曝による影響はソ連政府によって隠蔽され、1991年の実験場の閉鎖間際まで明らかにされることはなかった。

実験回数は地上25回、空中86回、地下345回。部分的核実験禁止条約が調印された1963年以降の全ての核実験は地下核実験である。

核実験のエネルギー総量は、広島型原爆の約1,100発分、長崎型の約750発分に相当する。

環境に放出された放射性物質は、チェルノブイリ原発事故の5000倍といわれている。

結果、核実験場を中心とする広い範囲で多くの住民が被曝し、がんや異常出産が相次ぐなど被害が深刻化した。

その数は、カザフスタン共和国政府によれば、160万人ともされ、1990年代末では、死亡や(旧ソ連崩壊に伴う)人口流出により約120万人の被害者がカザフスタンに住むとされる。

1992年には、周辺住民を救済する「核実験被害市民の社会保護法」が成立、翌93年に発効した。被爆者は無料で診察や検査を受けられる。

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核実験場の北にあるドロン村は何度も高線量の放射能にさらされた。とくに一九四九年の最初の核実験と一九五三年のはじめての水爆実験、そして地下核実験の放射能漏れ事故などで、いまも高汚染地域になっている。

被曝検査の結果では、チェルノブイリ事故のとき処理に駆り出された兵士より、この村の被曝量は三倍も多かった

最大規模の全実効線量を合計するとドロン村で1.3 Sv。

村の人口は2012年で500人。住民の多くが病気を抱える。心臓病、高血圧、循環器系障害、甲状腺疾患、がんなど。

全体として [原発事故]

反原発系のブログを攻撃している人が、「俺は『全体として』子供を守っている」と書いていた。

子供を守るのに、「全体として」も何もないだろうと思うのだが、その奇妙な言い方の中に本音が出ている。

「全体として守られる」のはおそらく「日本の子供」であり、そのために犠牲になる個々の子供がいるかもしれないが、その犠牲を受忍するのが、日本国民としての義務だ、とでも言いたいのだろう。

その観点からすれば、「自分の子供」や「個々の命」を守ろうとする反原発派は、「利己的」で「わがまま」で「自分のことしか考えてない」、国家にとって邪魔な存在と映る。

そこで彼らなりの「正義」を貫くために、その「エゴ」を罵倒する。

一見気違いじみたストーカー行為に見えるが、彼ら自身は「善い行い」をしているつもりなのだ。


原発事故の悲しみを心に刻んで生きること [原発事故]

毎日毎日、2011年3月12日以来、福島原発事故のこと、放射能のことを考えない日はない。

自分たちが直接、強制移住させられたとか大量被ばくしたとかいう理由からではない。

僕の心の中にどうにも引っかかって、忘れ去ることができないもっとも大きな「感情」は、この原発事故によって、すでに多くの人に襲いかかり、これから何十年にも渡って「いつかどこかで誰かに」襲いかかるであろう「悲しみ」だ。

そして、その「悲しみ」が僕にとって重大な意味を持つのは、「それがもしかしたら自分や自分の家族であったかもしれない」し、また「これからそうなるであろう可能性が全くないわけではない」という、現実の、あるいは潜在的な「被害者」へのある種の「同調=シンパシー」があるからなんだ。

それが「己自身の憂苦」=「悲しみ」となって僕を捉え、「あの日」から消え去ることがない。

原発容認派は言う。

「これぐらいの被害で済んでよかった」とか「チェルノブイリよりたいしたことなかった」とか。

ところが絶対に「何も起きない」とは言わない。

同時に、「ちょっと影響が出るかもしれないが、それはしょうがないことだから、諦めろ」という本心も言わない。

そして「ただちに影響はない」「健康被害が出るとは考えにくい」というようなぼかした言い方をする。

そこに彼らの真意がある。

「奥歯にモノのはさまったような言い方」をする当の原発推進派や容認派は、原発立地から強制移住させられたわけでも、子供が大量に甲状腺被ばくしたわけでもない。

自分たちは安全な場所から、「その程度の被害で済んでよかったな、気にするな」とか「俺たちの利益が減らないようにがんばってそこに住め」とか言いたいところを、放射能汚染を受忍させるためにあれこれ言い訳を用意して、「平気で嘘をつく」。

つまり、彼らは、他人の「ちょっとぐらいの犠牲」「ちょっとぐらいの不幸」「ちょっとぐらいの悲しみ」なんて、巨大な利権、身内の利益に比べれば取るに足らないものと思っていて、しかも、それをどうも「人間社会の不可避の本質」ぐらいに思っている。

そんな綺麗ごと言ってたら生き残れない、他人の悲しみなんて分かる訳がないだろう、資本主義の宿命だ、原発も戦争も必要悪だ、だから、「生きたい」のなら、この社会の根源的な「差別」には目をつぶれ、と。

僕には、この「差別に目をつぶれ」ということがどうしても理解できない。

なぜ「見ないようにする」必要があるのか?

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村上春樹が「カタルーニャ賞受賞」でスピーチをしたのはもう一年以上前のことだが、先日その全文を読んだ。

完全版:村上春樹さんカタルーニャ賞受賞スピーチ(NHKかぶんブログ)

このスピーチは前半と後半に大きく分かれている。

前半では「自然災害」としての地震を、日本人は「無常」「しょうがないもの」として受け止め、「あきらめの世界観」で克服していくだろうと、日本人の精神性について語る。

後半では広島の原爆死没者慰霊碑にある言葉、

「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

を引用し、「私たちはもう一度その言葉を心に刻みこまなくてはなりません」と、原爆の被害を受けたにもかかわらず、戦後「効率」の名の下に損なわれてしまった日本人の倫理観について語る。

この前半と後半はある「対立」を持っている。

自然がもたらした「悲しみ」を忘れて乗り越えること。

人間がもたらした「悲しみ」を心に刻んで二度と繰り返さないこと。

これは日本人の精神性に限らず、人間の根本的な自然と社会への関わり方だろう。同時に、こういった「感情」の解釈が、原発事故後の日本で起きた人々の対立の原因となったようにも思う。

そして、原子力産業複合体は(あるいは軍産複合体も)、この原因の異なる二つの悲しみを「すり替える」のだ。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
原発事故を自然災害であるかのように、「しょうがない」と忘れさせようとする時、彼らは日本人のこの「無常観」を利用する。「科学」「データ」と言いながら、自分たちの利権を守るため、経済のためには、「精神」まで操ろうとする。

だからこそ、僕たちは想像力を働かせて、その操作に抵抗しなければならない。
私たちは夢を見ることを恐れてはなりません。理想を抱くことを恐れてもなりません。そして私たちの足取りを、「便宜」や「効率」といった名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。私たちは力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」になるのです。
この「非現実的な夢想家」という言葉は、ベルクソンの引用と思われる。

夢ばかり見て現実を見ない人のように聞こえるが、実際は「イデアリスト」であり、事物の「本質」をより正確に捉える人という意味だろう。原発推進派のいう「現実」が表面的な便宜に過ぎない、という言い方も、「現実」という言葉が時には人々を欺くために使われるということだから、「イデア=真理」を見る人にならなければならない、ということだろう。

だから、僕は騙されない。

この「悲しみ」を心に刻んで、それでも前に突き進む。

それが原発に対するNOであり、日本人としての責任なのだ。



福島原発事故後初めての国政選挙 [原発事故]

嘉田知事新党は「日本未来の党」 卒原発掲げ結成を表明(朝日新聞2012年11月27日16時19分)
東日本大震災後初の国政選挙であるにもかかわらず、原発のない社会に向けての議論は不透明なままだ、と指摘。「自民党はこれまで原発の安全神話をつくり、事故への備えを怠り福島事故に対する反省は一切なく、原発推進ともとれるマニフェストを発表した」と批判した。
原発ゼロ「10年間で」 未来結成の嘉田知事が表明(朝日新聞2012年11月28日13時22分)
新党「日本(にっぽん)未来の党」結成を表明した滋賀県の嘉田由紀子知事は28日朝、原発依存から脱却する「卒原発」を達成する工程について「10年の間にゼロにする。廃炉にする。ドイツ並みの10年を目指す。政権を取ったらやれる」と述べ、2022年をめどに全国のすべての原発の廃炉を進める意向を表明した。

後戻りなど絶対に許されない。

原爆を落とされ、原発を爆発させた国の選ぶべき道だ。

答えは、決まっている。

「天地をひっくり返す」

どんな困難があろうと、そこから始めるしかないだろう。

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【広瀬隆】選挙に立ち向かうより

■第一極の諸政党……われわれは浮動票ではない 広瀬 隆

総選挙とは、数を争う勝ち負け。
国会議員の当選総数の過半数を占めなければならない、ということだ。
逆に言えば、当選者が過半数をとればいい。ならば、これら原発の即時完全廃絶を求める政党と政治家が、ひとつの政党に結集すれば理想的だ。
だが、誰が見ても水と油、それは不可能だ。では、どうする?

彼らが、選挙協力をすれば、勝てるんだよ!!

小沢一郎と、渡辺喜美と、志位和夫と、亀井静香と、福島瑞穂と、河村たかしと、この水と油が合同記者会見をするなんて、画期的だと思わないか。

その日から、一挙に、日本全土に熱気がみなぎるはずだ。金のかかる個別の選挙運動は必要ない。国民を味方につければ、一週間あれば勝てる

この選挙協力に参加しない候補者は、すべて偽物だ。

共産党も、どうか今度は、全選挙区に候補者を立てて票を食い合う過去の結果を避けるよう、英断を下しなさい。頼みます!!

年内に決着つけよう!!!!

希望の日を!!!!

原発即時廃絶派が第一極をとる!

原発延命策をみなで粉砕!!

総選挙決戦だ・・・

天地をひっくりかえそう!!


放射能と広告的手法 [原発事故]

福島原発事故が起きるずっと前から、放射能は「危ない」ものだった。

その「危ないもの」が拡散して、もう「どうすることもできなくなった」から、国も国民もなんだかんだ理由をくっ付けて、何とかして「放射能大丈夫」と思い込みたいわけだ。

御用学者の言ってることだろうがICRPのデータだろうがWHOの調査だろうがエネルギー問題だろうが安全保障だろうが、「大丈夫と思い込む」ために役に立つなら何だって構わない。

そりゃそうだ。誰だって「今までの生活と同じであってほしい」「何も起きないでほしい」と願う方が自然なのだから。

その願望の通りに人々が信じ込んでくれれば、政府も東電も願ったり叶ったりなのだが、「放射能は危険」という国際的な合意が邪魔になる。

だからと言って「放射能は安全です」なんて大嘘を付くことはいくら御用学者でもできないから、広告代理店に頼んで、テレビや新聞やネットに「危険」「安全」両方の情報をまんべんなく(いや、『安全寄り』を少し多めに)流す。

するとそれをぼんやり見たり聞いたりした一般人は、「いろんな意見があって、どれを信じていいのか分からない」とか「人それぞれの考え方がある」とか、あたかも、今回の放射能汚染は、「気分」とか「信念」とか「解釈」の問題として片付けることができるかのように勘違いしてしまう。

「何も起きないでほしい」という願望が元々あるわけだから、悲観的なものよりは、楽観的な予測の方を選びたい。

「安全か安全じゃないか分からないのだから、俺は安全であるという方を『信じて』みるよ」と「主体的に」安全派の考えを選択する。

それどころか「飛行機やレントゲンで外部被ばくしてる」とか「カリウムで内部被ばくしてる」とか「大気圏内核実験で昔から汚染されてる」とか、今までの生活を維持するために都合のいいところだけ取り上げて、いつのまにか「放射能は危険」という科学的な大前提まで放り出してしまう。

メディアも御用学者もそこまでやれとは言ってないのに、与えられた以上に模範的な「国民ぶり」を発揮する。

そうやって「非主体的な主体性」を巧みに引き出す術を、この国の支配層と原子力業界は研究し続けて来た。

マスメディアは、原発推進派の意見も反対派の意見も一通り人々の目の前に広げて、「さあ、真実はどこでしょう?みなさんご自分でお考えください」とあたかも「公正に」「中立的な立場」で「いろんな意見」を発信しているかのように見せかけ、最終的には微妙なさじ加減でもって、思惑通りに「放射能たいしたことない」という安全派寄りの判断へと誘導する。

そこまでが、原子力産業複合体の「シナリオ」なのだが、その「広告的手法」「心理的オペレーション」が、自分たちの無意識にまで達していることに多くの人が気が付かない。

情報番組で「健康にいい」と言われたヨーグルトとかココアとかの商品が、翌日スーパーの棚から消えてしまうのと同じ消費者心理。

ターゲットにされているのは庶民の「脳みそ」であり、その表面は、日常的に垂れ流されるテレビ映像によって何十年もかけて「ツルツルに」整えられている。

そんな「無い頭」は、放射能という「難しい問題」を突きつけられ、一生懸命思考しているつもりになりながら、周到に用意された「レール」の上を滑って行く。

そして自分で考えてその答えを探し出したかののように、「俺は決めたよ」と食べて応援し、がれきを拡散することに賛成し、除染に精を出し、そして何よりも積極的に福島原発事故と放射能汚染を「なかったことにする」。

「くよくよ考えたってしょうがない。『今』を楽しく生きよう!」と、狙い通りの現状維持へと向かいながら、「笑ってる人のところに放射能は来ないんです」「私たち国民は国家の言うことに従わなければならないんです」という山下の言葉を自ら進んで実践するかのごとく、人々は「国民として選ぶべき道」を「悟る」。

「ビンゴ!」

入れ食い状態の「釣り」でも楽しむみたいに、官僚、東電、広告代理店はほくそ笑む。

しかしながら釣られた当の本人の方は「嵌められた」などとは露ほども思わず、むしろ「これが俺の人生だ」とご満悦なのだから、権力者は「だました」と後ろめたさを感じるどころか、逆に「感謝されてもいい」ぐらいに胸を張っていることだろう。

そして同じやり方でもって、今度は戦争や徴兵制だって「たいしたことない」と思わせるつもりなのだ。

われわれが敵に向かって行進するとき、悪い音楽と悪い理由とが何と立派に聞こえることだろう!(ニーチェ『曙光』557)




妊娠中の女子の被ばく [原発事故]

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歯医者に行ったらレントゲン室に「注意書き」が書いてある。

原発事故前だったらそんなの気にも留めなかっただろうし、その数字に何の意味があるのかも分からなかっただろう。

「一回で0.03mSv(30マイクロシーベルト)、、、年間○ミリシーベルト以下に抑えること、、、」など。

よく覚えてないので、ちょっと調べてみる。

電離放射線障害防止規則というのがあって、その第3条に、
外部放射線に係る線量については、実効線量が3月あたり1.3mSv(年間5.2mSv=0.6μSv/時)を超える恐れのある区域を管理区域と定めること
管理区域の標識とX線装置の取り扱い注意を箇条書きにした掲示板を見やすい場所に掲示すること
とある。

医療法施行規則 第30条の13にも、
病院又は診療所の管理者は、目につきやすい場所に放射線障害の防止に必要な注意事項を掲示しなければなりません
つまり、被ばく限度も決まってるし、そういう注意書きを掲げることも義務づけられてるわけだ。

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とにかく放射能管理はがんじがらめに徹底されていて、今のように日本中で「放射能たいしたことない!」なんてやってる状況からすれば、まるで「放射能コワイコワイ病」なのだ。

何言ってるんだ、と思う。

放射能は「コワイ」から、こうやって厳密に規制されてきたんじゃないか。

また、

「医療法施行規則第30条の18」には、放射線診療従事者に係わる実効線量限度が次のように定められている。

1)5年毎に100ミリシーベルト
2)年間50ミリシーベルト
3)女子(妊娠する可能性がない者は除く)については3カ月で5ミリシーベルト
4)妊娠中である女子については妊娠中1ミリシーベルト

5年100ミリということは年間20mSvだから、これが基準になって一般公衆の「現存被ばく状況」における「上限」が20mSvに設定されたのだろうか?

だとすると、一般人は大人も子供も、「放射線作業従事者」と同じってことだ。

しかし、待てよ。じゃあ「妊娠する可能性のある女子」の3ヶ月5ミリシーベルトや「妊娠している女性」の1ミリシーベルトはどうなる?

これ「妊娠中」って妊娠期間中10ヶ月の被ばく限度ってことだろうか?

いずれにしても、問題はなぜ「妊娠中の女子」に別に被ばく限度を設定しているのか、ということだ。

考えてみる。

これは「放射線診療従事者」の「労働環境」の話であって、そんな場所に「子供」が長時間滞在するなんてことはあり得ない。

だけど、その労働者が「妊娠している女性」であれば、その被ばく環境下に「胎児」つまり「子供」が一緒に入って来てしまう

だから、その「子供への危険性」を認識しているから、こうして「妊婦」を別枠にしているのであり、この法律は「子供」に対するものであると言っていい。

間接的に、「子供の方が放射能感受性が高い」と法律に書いてあるのだ。

それなのに、そういう話が全然出てこない。

だれも「妊婦」や「胎児」の被ばくについて言わない。

低線量被ばくの影響は科学的に証明されていない、なんて言ってるけど、証明も何も、こうして法律にするぐらい、医者も学者もみんなその危険性を「分かっている」んじゃないか。

それなのに、原発事故が起きてからは絶対にそのことに「触れない」。情報も流れない。

「世界は変わってしまった」にもかかわらず、人々はまるで原発事故なんてなかったかのように楽しく暮らし始める。

だけど、恐ろしいのは、その自分の「享楽」のツケが、将来子供の「不健康」によって払わされるかもしれないということなのだ。





がれき広域処理は何のために必要なのか [原発事故]

とあるブログのコメントを読んでふと思ったこと、、、。

原発再稼働するためには、今回の福島原発事故が「たいしたことない」と国民に思わせなければならない。

放射能に汚染された瓦礫や焼却灰を厳重に管理しようとしたら莫大な予算がかかる。

避難も食品流通もガレキ処理も、まじめにやったら、「今回の事故が許容できない事故」とばれてしまう

国は、「ばれると困る」から、「絆です」ということにして全部ばらまく。

そして後々の放射性廃棄物全国拡散へ向けて、筋道をつける。

こんなものすごい理屈をみんな本当に、「その通りだ」あるいは「やむを得ない」って受け入れてるのか?

そんなに「忘れたい」のだろうか?

きっと国に言われるまでもなく、多くの人間が、福島原発事故を、許容できない事故とは「認めたくない」のだ。

「ガレキ」を「絆」として受け入れるのは、被災地のためというよりはむしろ、事故の重大さを「否定」して、今までの生活に戻ることを「肯定」するためだろう。

以下、引用。

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環境省は20年後とか30年後とかまじめに考えていない印象が強い。
目先の原発を再稼働するため、という動機のほうが強いという気がする。
口先だけの原発ゼロとか言っているが、当面動かすことができれば、10年後どうするかというのは、その時にねじくれた議論をやればいいと思っているのではないか。
当面動かすためにどうするかというときに、避難させないとか、生産を続けされるとか、今までと同じゴミの処理とか、事故の影響をできるだけ大きく見せないようにしたい、のではない。
何かをまじめにやれば、今回の事故は許容できない事故だとわかってしまう。
だから、3.11以前と同じことを続けさせてようとしている。

福島原発事故のキセノンはいつ関東に到達したのか [原発事故]

ずいぶん前に、「福島原発1号機は地震直後からすでにキセノンが漏れていた」みたいなニュースがあった。

それでいつ関東に到達したのか?と気になって、日本分析センターのグラフを見て、3/15前には関東には来てない、と思っていたのだが、妻が「吸ってるかも」と言うので、もう一度調べてみる。

僕も気になってた毎日新聞の記事に、(今はもう消えてしまったようだが)

「福島原発事故:発生直後、千葉のキセノン濃度40万倍に」というのがある。

東京電力福島第1原発事故直後、大気中の放射性物質「キセノン133(半減期5日)」の濃度が事故前に比べ最大で約40万倍になっていたことを、環境中の放射性物質の調査などを専門に行う財団法人「日本分析センター」(千葉市)が1日、明らかにした。同センターによると、キセノン133の大気中の平均濃度は、3月14~22日に千葉市で1立方メートルあたり1300ベクレルへ急上昇した。事故前は「不検出」から3.4ミリベクレルの間で、3月11日の事故直後は40万倍に達した。通常の濃度に戻るまで約3カ月かかったという…(毎日新聞 2011年12月1日 20時04分)

これだけ見ると、まるで3/11の地震で1号機の配管が壊れた直後に、千葉でもキセノンが40万倍になったみたいに思える。

しかしネットで情報を探すと、
1号機は、3月12日の14時17分~47分にかけて、290万テラベクレルのキセノン133を放出した
とのことだ。

1号機が水素爆発したのは15時36分頃だから、その直前のベントで大量に放出された放射性物質と一緒に、キセノンも漏れたのだろう。

では、キセノンのような希ガスだけが関東に到達することなどあるのか?

CTBT高崎観測所のデータを見ると、空間線量が爆発的に上昇するのは、3/15の午後だ。

そして、その3月15日に、高崎観測所では3月12〜13日に捕集された試料を測定していた。

測定に20時間ぐらいかかるらしく、2時間ごとに数値を出す。

途中まで平常値だったのだが、最後の2時間だけ、キセノンやヨウ素などのピークが検出された

どういうことかと言うと、測定中に室内に侵入してきたプルームが検出されたというのだ。

何か生々しいが、それぐらい精度が高いということだし、とにかく3月12〜13日の降下物にはまだ汚染はなかった、ということになる。

キセノンが関東に到達したのは、やはり15日のようです、、、。

ついでながら、よく知られた話だが、3/15にプルームによって高崎にも運ばれて来た膨大な放射性物質、それがどんな放射性核種でどれぐらいの量だったのか、CTBT高崎では分析できていない。つまりもっとも肝心なデータが抜け落ちている。

プルームを捕集した14〜15日の試料は16日に測定する予定だったが、「計画停電」のせいでできなかったと言うのだ、、、。そんなとこ停電させるなよ、と思う。しかし停電はたった「2時間」で、その間に半導体検出器の温度が上昇して、その後も測定することができなかったと言う。本当かよ?とも思うし、それぐらいのバックアップ電源なんで持ってないんだ?とも思う。

以下高崎のデータと報告抜粋。

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高崎観測所で観測された粒子状全放射性核種濃度と観 測所から最も近い位置にある日本原子力研究開発機構高崎量子応用研究所のモニタリングポスト(西)の空間 g 線線量率11)の比較を図 4 に示す。

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図中の空間 g 線線量 率は 1 時間ごとに測定されたもので,福島第一原子力 発電所から放出された放射性プルーム(放射性雲)が, 3 月 15 日午後 1 時と 3 時に高崎に到達したことが分かる。高放射性のプルームが観測所に到達した時,観測所 では当日の試料(14日15時55分~15日15時55分) の捕集と,前日(13~14 日)捕集した試料の冷却,そ して前々日(12~13 日)に捕集した試料の測定が行わ れていた。12~13 日の捕集試料の測定では,測定開始 後 20 時間までの 2 時間ごとの g 線スペクトルは平常時と同じものであったが,最後の 13 時 55 分(日本時間)
133Xe 等のピークが表れてきた。このことから,15 日に 測定していた 12~13 日の捕集試料には福島第一原子力 発電所からの放射性物質は含まれてなく,測定終盤に到 達した放射性プルームの観測所施設内への侵入によって 汚染されたものであることが分かった。また,短寿命の 天然放射性核種の放射能を減衰させるために冷却してい た前日(13~14 日)の捕集試料も,侵入して来た放射 性プルームによって汚染された。放射性プルームがやっ てきた 14~15 日の捕集試料は,16~17 日に測定され るはずであったが,16 日の計画停電のために測定が行 われていない。停電は約 2 時間であったが,その間に 電気冷却式 Ge 半導体検出器の温度が上昇し,電気が回 復してからもしばらくの間高電圧を掛けることができな くなり,試料の測定が困難になった。

原発ゼロが理想なので原発には反対します [原発事故]

この記事「原発容認派について」で以下のようなコメントをもらった。原発容認派の方らしいが、こんな一個人のしょうもないブログに、記事内容もたいして読んでないような紋切り型のコメントを残す人(あるいはアルバイト?)に、まじめに返答するのもばからしいので、このコメントをネタに記事を書くことにした。

以下。

human-nation.gif
頭の中心に「命」がある人 と 頭の中心に「国家・経済」がある人の図。

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「(原発)ゼロが理想ですが容認する」のは以下の理由です
・原油を巡る戦争の回避:産油国での戦争はエネルギー問題が一因です。原油による戦争リスクを回避するため、世界は「自国のエネルギー(原発)」へと進みました。戦争による命損失リスクと原発のリスクはどちらが高いかという問題です。原発リスクは3.11前にも存在しており、人間は危険性を知りながら戦争リスクより原発リスクを選んだのです。
・日本だけ反原発の疑問①:反原発の人は何故世界の原発は許すのでしょうか。真に「即時の原発廃止」であれば、「日本製の原発生産を求める他国」へ働きかけるのが近道だと思います。
・日本だけ反原発の疑問②:日本が原油への依存度を高めれば原油価格は高騰し、貧しい国は原油を入手できなくなります。「日本だけ安全」を求めるのは先進国の欺瞞です。
その他、環境問題もあります。3.11後もCO2を減らす義務は続いています。他国のことも考えると、新エネルギー開発まで最低限の原発を動かすのが日本が出来る現時点のベストではないでしょうか。日本は技術立国ですから、原発停止で失う費用を、未来の技術へ投資した方が、30年後の世界貢献に繋がるのではないでしょうか。
「今原発リスクを知った人が、今の日本人感情で、今すぐ原発をやめる」という決断は、世界や未来に向けて無責任なんじゃないかな、と思っています。廃炉まで原発に関わるのが日本の責任かと思います。

by 容認派の意見を真面目に述べます (2012-10-15 19:36) 

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模範的な「最適解」ですね。同じ主張を至る所で拝見しますし、どう議論しても堂々巡りするだけでしょう。

優秀な頭脳の方が「命」を「数」に置き換えて、理論上の計算でちょいちょいと処理して(いや、多大なるご苦労をかけて)、

「ほれ、戦争より原発の方が儲かるし、おまえらが死ぬ数少なくて済むんだから、ちょっとの被ばくぐらい我慢しろ」

そう言いたいところをぐっとこらえて、三文役者よろしく眉間にしわを寄せて、苦渋の選択だと言わんばかりに「原発やむなし」と「容認」する。

その猿芝居でもって「全ての国民」をそう思い込ませることができたら、権力者の理想郷ができるでしょうし、日本は半ばそうなっているでしょうから、ご心配なさらなくてもよろしいのではないでしょうか。

自分が絶対に譲れず、譲れないがゆえに「容認しない」理由はもうはっきりと記事の中に書いてあるし、これ以上何も言うことはありませんが、少し。

「人間は危険性を知りながら戦争リスクより原発リスクを選んだ」?

どこの「人間」でしょうか? 容認派の方に共通してるのは、人間や命や心といった「質的に多様なもの」を「量的に等価なもの」に還元して、それを国家や経済や外交という枠組みの中でいとも簡単に数値化できるその「頭脳」です。

「俺は理系だから」とか何とか。そして、お勉強して一生懸命こさえた、その妄想にも近い頭の中の「計算式」を高慢にも「理性」だとか言って、万人が理解できなければおかしいかのように言う。

「人命損失」とさらっとおっしゃいますが、そこで失われるものは、他ならない「自分の命」であり「自分の子供の命」であるかもしれないわけです。

事故だろうが天災だろうが、人は病気や死を全力で回避する。ところが、そこに「国家の意思」が働いて、戦争や原発によって「一部の人間」が犠牲になることがあった場合には、どうもそれを「受け入れなければならない」らしい。

その主張を突き詰めて、「国民」である自分にもう一度当てはめてみれば、「俺は原発事故で強制移住させられたって、それで死んだってかまわない。俺の子供だって死んだってしょうがない」ということになりますし、おそらく「その通り」とおっしゃることでしょう。

だから、まずご自分でこう宣言し、人々に賛同を募ればいい。

「日本国民たるもの、国策のために死んだって病気になったって、それは国家に生きる上で受け入れざるを得ない責務なのだから、文句は言わないし、何人たりともそう考えるより他に『最適解』はない」

しかるべき後に、そう思える人と、そう思えない人が出てくるでしょう。

これが結論で、両者が和解することはあり得ないから、後は国民投票するなり、国会で議論して条例を作るなり、憲法を改正するしかない。

だから、容認派ははっきりそう言えばいいと思うんです。

自分の子供にもはっきりそう言うわけです。

「おまえは原発事故で白血病になるかもしれないし、原因不明の病気になるかもしれないし、原発作業員として徴用されるかもしれない。その時は誰も助けてくれないが、国家とはそういうものだから、それを受け入れなければならない」と。

もっと公正を期して、憲法にもそう書けばいい。「日本人は原発推進するに当り、過酷事故の際には国民皆等しくその首を差し出す義務を負う」とでも。

だから「徴兵制」や「大日本帝国憲法」なんて話が出てくるわけだし、「容認」するということはすなわちその門戸を開き、それをいずれは認める覚悟を持つということでもあると思います。

では、そんなものがもしできたとして、現実に「国民皆等しく」そうなるか?

なるはずがない。その時切り捨てられるのは社会的弱者で、支配層や電力会社の既得権益は守られる。

福島を核汚染して福島県民に除染させ、近隣住民を強制移住させて原発作業員として雇う。東京はあっと言う間に、原発事故などなかったかのように、元のきらびやかさを取り戻す(まあ、見かけ上は)。

福島原発事故がすでに証明しているのだから、それを踏まえてはっきり明文化しておけばいい。

「万が一なんかあっても大都市は安全です。被ばくするのは田舎の周辺住民だけで、その後の処理も地元でやりますから。交付金が必要なので高い電気料払ってください」

しかしそんなこと「ぶっちゃけて」書けるはずも言えるはずもない。

言えてるのはブログやそのコメント欄、2ちゃんねるぐらいだ。

だから公的には常に「安全」「絆」「愛国」と美辞麗句でごまかして、大手メディアも一緒になって下層民を言いくるめようとする。その「ごまかし」が、福島原発爆発事故によってかつてないほどに明白になったわけです。

「3.11以前から原発リスクは存在した」って、そのリスクがこんな最悪の形で現実化したのが「今」でしょう。

こんな「今」はかつてなかった。原子力発電に対してこんなに重たい「感情」を持ったことなど、今までの日本人になかったのではないでしょうか? その感情に振り回されて原発即時停止を訴えることが「無責任」? いや原発爆発させて被ばく環境下に数十万人住まわせ続ける方が比べ物にならないぐらい「無責任」だ。

3.11以後「世界は変わった」にもかかわらず、またぞろ確率論こねくり回して「同じリスク」がずっとあるかのように定量化できてしまうその官僚的な思考ははっきり「異常」です。

でも当人はそれに気が付かないから人によっては「福島原発事故では誰も死んでない」などと平気で非道な発言もできる。

強制移住も被ばくも今後危惧される健康被害も全く無視して、「今までさんざん交付金で潤って、死んでないんだからラッキーだろう」とでも言いたいかのようだ。

「感情」を排して、計算の海を自由自在に泳ぎ回る、支配層のエリートに似つかわしい、たいした「悟性」だとは思いますが、それで全てがうまく行くなら原発なんて爆発しなかっただろうし、結果的にはその「論理的」な思考こそが「失敗」を招いたわけです。

試験管の中で薬品が爆発したり、ねずみが死んだりしても何十回と繰り返せる実験とは訳が違う、一度起きれば数万人の人が人生を台無しにされてしまう「犯罪」だ。

これを繰り返してはならない、となぜ言えないのか?

それどころか、「今まで享受した利益の『代償』だから気にするな」と、まるで高みの見物、チェス盤か将棋盤でも覗き込むみたいに「リスクとベネフィット」に鑑みて、そろばんをはじいてご託宣を並べる。

その惨事を引き起こす元凶となった歴代の政治家、官僚、電力会社の加害責任には触れずに、エネルギー問題云々難癖つけて、「即時廃炉など感情的で無責任」と被ばくした被害者にはためらうことなく説教を垂れる。

「放射脳」「放射能コワイコワイ病」「風評被害デマは東電より質が悪い」

口をついて出るそれらの言葉の根っこは一緒です。

一体どちらの立場で、何を守りたいのでしょう?

「原油を巡る戦争よりは原発事故の方がマシ」と言い放てるのですから、立ち位置ははっきりしているでしょう。戦争だろうが原発だろうが、金さえ儲かれば「搾取する側」にとってはどっちでも良いわけです。

「国家のためにちょっとぐらいの犠牲我慢しろ」という支配層の暗黙の命令に対して、「ああそうですね。その通りです」と頭で分かって権力に同調するのか。「いや、それはできない」と自分の命に聞いて抵抗するか。

その二つに一つなわけです。

だから僕は後者を取る。

そして結局溝は埋まらず、堂々巡りするだけ。

廃炉まで関わる責任があるのは当然だし、他国の原発に反対するのも当然でしょう。

「今すぐ原発をやめると宣言すること」と代替エネルギーを開発することも矛盾しない。

「原発をやめること」が無責任というが、安全だ安全だ言っておいて原発爆発させることほど無責任なことはないのではないか?

「日本だけ安全を求めるのは先進国の欺瞞」?

他国に迷惑かけないために、国内の原発事故ぐらい我慢しろ、ということでしょうか。

今回の事故で海洋汚染含めて他国にもすでに十分迷惑かけてると思うし、それをなかったかのように原発輸出を目論む「官僚の欺瞞」「電力会社の欺瞞」の方がよっぽど罪深いと思う。

全ての国で原発停止を求めるように訴えかければよいだろうし、そのためにはまず自国が脱原発することが先決と考えることの何が間違っているのか。

日本が脱原発すれば石油価格が高騰する? 世界の原子力産業もあの手この手で脅しをかけてくるのでしょうから、エネルギー浪費社会そのものを見直すべきと思います。

原発停止で失う費用と言うが、20年後だろうが30年後だろうが、廃炉にしたら当然費用はかかるし、それまで稼働し続ければより多くの使用済み核燃料が出て処理費用はさらに上積みされるのではないか?

廃炉にした途端に不良債権化して、債務超過で電力会社は潰れるから、使えるうちは使った方がいい?

その間にまた過酷事故が起きたら? 隕石が落ちてなお、「隕石が二回続けて落ちるのは1億年に1回の確率だから大丈夫です」とでも言うのか?

それなら、そう言って国民の総意を取り付けてみればいい。「みんなでバクチやろうぜ! 六ヶ所村再処理工場で事故起きるかもしれないけど、戦争で死ぬよりは確率低いから心配するな」と。

誰が賛成する?

原発容認するための理由を並べ立てることが無限にできるのと同じように、「容認することに反対する」理由だっていくらでも出てくる。

そして原発を容認することは同時に、これまではおぼろげにしか見えなかったが原発爆発という失態によって「今」は白日の下にさらされた、原子力政策の「利権」「無責任」「差別」を温存することも意味する。

「世界や未来に対する責任」って、何度も繰り返すが、どこの世界の誰の未来なのか? この事故でどれだけの人間がその「世界と未来」をぶち壊されたと思っているのだろう?

で、戦争に比べれば微々たるものだ? そんな比較で方がつくなら、あと2、3個原子炉爆発したって「たいしたことない」だろう。

そういう容認思考を展開するためには、最終的に自分や子供の命を国家に差し出し、政府や電力会社が無為無策で再度事故を起こしても、「人間とは、社会とは、歴史とは、そういうものだ」と心の底からニヒリスティックに納得する覚悟が要求される。

そんな風に考えて生きたくもないし、その必要を感じることもない。

それによって僕が日本人であることが否定される根拠は何一つとしてなく、人間も、社会も、歴史も常に改革を繰り返して来たし、これからもまたそうであろう。

それが人間の「表現」であり、そこに「自由」がある。それを日本国憲法が保証している。

子供には胸を張ってそう伝えるし、そう考える「人間」は国境を超えて「世界」に存在するだろう。

それゆえ、僕は「頭の中で」自分と国家をすり替えることはしない。



正しく恐れる [原発事故]

いつも「放射能正しく恐れる」という言葉には笑わされる。

「正しさ」と「恐れ」のせめぎ合い。

危ないものを安全と思い込み、他人にもまたそう思い込ませなければならない、その強制に対する並々ならぬ逡巡。

「安全、安心です」と素直に言えたら、どんなにか楽だろう!

でも、そうは言えない、一抹の不安。

爆発した原子炉が脳裏をかすめる。

「思い込む」ことの困難がにじみ出ていて、とても感慨深い。


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