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ダブル・バインド覚え書き [育児]

今朝妻と車で一緒に出かけることにしたので、妻が洗濯物を終わるまでパソコンで仕事しながら待っていた。

「そろそろ行く」と言いながら妻は一度外に出た。

僕はトイレに入った。

そうしたら妻が玄関から「あれ?どこ?どこ行ったの?」と言っている。

僕はトイレの中にいるから返事をしなかった。居間に30秒ぐらい前までいた人間が「いない」とすれば「トイレ」か「洗面所」ぐらいしかない。それぐらい分かるだろう、と。

僕が部屋に戻ると玄関から入って来た妻が「どこ行ってたの?」と聞く。

「え?どこって、、、トイレだけど」

「何で返事しないの?」

「え?何でトイレから返事する?」

「、、、」(返事ぐらいしてくれたっていいでしょう?という感じの沈黙)

「じゃあ何で呼んだの?」

「え?いや、、、ただ呼んだだけ」

「じゃあ別に返事しなくてもいいじゃん。何で『返事しなかった俺』を責める?」

「、、、」(納得いかなさそう)

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妻がなんで「納得いかない」のか謎なのだが、説明すると訳分からなくなるのでここに書き記す。

立場を逆にして考えてみる。

さっきまでテーブルについていた妻がいないなら僕は「ああトイレか洗面所だな」と思う。だから用事がなければ声をかけないと思う。

だけど、もしかしたら何か聞こうと思って「おーい、あれ?どこ?」みたいに言う可能性もある。

だけど、そこで僕は「あ、いないのか。トイレ?まあいいや。後で聞こう」みたいに思う。

それで妻が部屋に戻って来たら「あのさ」と話をする。

つまり「返事しようがしまいがどっちでもいい」と思う。

「返事しなければならない」としたら、それは「急用」の場合だと思う。

「早く出かけなきゃ」とか「ゴミ収集車来たからゴミ出して!」とかすぐに伝達しなきゃならないことがあれば、返事がない場合「ねえ?どうしたの?どこ?いるの?」みたいに繰り返し聞くと思う。

だから、僕はトイレの中にいて、妻の「どこ?」という声を聞いた時、「ああ、何か用事あるのかな」と一瞬思ったけど「即答」はしない。

意識はしてないけど「もし急用なら繰り返し呼ぶはずだ」と思って「とりあえず黙ってた」んだと思う。

そしてそのまま結局呼ばれなかったから「ああ、たいしたことじゃなかったんだな」と思ってそのまま忘れてしまった。

部屋に戻った時「どこ行ってたの?」と聞かれることも別におかしくないと思う。

僕は聞かないけど、聞かれたら「トイレ」と答えるし実際そう答えている。

だけどそこで「何で返事しなかった?」と言われると訳分からなくなる。

そこで僕はほとんど意識しない形でトイレの中での思考を思い返す。

そこで僕は別に「緊急性はなかった」と思っている。

それを長々と説明したとすると、

「何?いや急な用事だったら何回も呼ばれるだろうから、一回しか呼ばれなかったから返事しなかっただけだけど、何か用事あったの?」

となる。

仮にそう説明したとしたら、妻は「別に用事なかった」と言うだろう。

するとそれでも僕は「じゃあ何で返事する必要ある?」と思う。

だけど、そういうことすら瞬間的にまったく意識してないから、

「じゃあ別に返事しなくてもいいでしょう?」と思わず口から出てしまう。

この「一言」が妻にしてみると、

「何で返事しなきゃならないんだ?」みたいなすごい傲慢な言い方に聞こえるんだと思う。

「用事ないのに、おまえは何で呼んだんだ?」みたいな。

するとそれに対して「それぐらいで何怒ってるの?」みたいに「不満顔」になる。

「いや別に怒ってないから」と僕は「返事しなかった正当性」を説明する。

だけどなんかおかしい。

「何で返事しなかった俺を責める?」

すると妻は「別に責めてるわけじゃない。ただ返事してほしかっただけだ」みたいに言うんだろう。

このやり取りのおかしなところは、僕は「何となく返事しなかった」だけで、何も「返事したくなかった」とか「返事しなくたっていいだろう」とか言ってるわけじゃないのに、なぜか妻にはそういう風に捉えられるということだ。

だけど「なんで返事しなかった?」と妻が聞くのは奇妙な質問だと思う。

僕はそれにほとんど答えられない。

返事する理由もないし返事しない理由もない。何となく「そうなっただけ」のことじゃないのか?

もし何かそこでそれを「なぜしなかった?」と確認する必要があるなら、

「聞いたんだから、答えなければならない」という強制的な考えがあるからだと思う。

たぶんそうなんだろう。

だけど「何となく聞いた」のだとしたらこっちだって「何となく答えなかった」としか言いようがない。

「ただ呼んだだけだけど、答えないのはおかしい」

と言うなら、この構図は「ダブル・バインド」になる。

つまり「アクションを起こす側」が「受け取る相手の態度」をあらかじめ想定して、そこから外れると「NG」になってしまう。

「おーい」と子供を呼んで「何?」と子供が近づいて来たら「呼んでみただけ」と言う。

「おーい」と子供を呼んで「どうせ呼んでみただけだろう」と子供が思って黙っていると「なんで返事しない?」と言う。

「なに?」と子供が答えると「いや、いるならいいんだ。呼ばれたら返事しなさい」とか。

なぜこういうことが起きるかと言うと、本当に単純に相手を「支配する」という感覚、その確認作業なんだと思う。

それにしてもなぜそんなことをしなければならないのだろう?

やはり謎だ。

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こんなこと書いていて家に帰ったら何だか妻が不機嫌そうにしている。

どうも「宿題やったら?」みたいに妻が言ったことに子供が返事しなくて、それが何度も続いたから「私のこと無視してる」と怒っている。

「いや、子供は『無視』とか意図的にやらないでしょう?自分が怒って命令したんじゃないの?」みたいに言ったらますます怒る。

「宿題やらないとまた寝るの遅くなるよ」とかプレッシャーかけないで、一緒にしばらく遊んでから「さあ宿題やろう」と明るく言うとか工夫すればいいのに。

僕は子供と一緒に宿題やったけど、途中で「何でこんなことやんなきゃいけないんだよー!」みたいにひっくり返ってぐずる。

今日は習い事も行ったしいろいろ面白くないこともあったのかもしれない。

大人だってそういう日はあるし何となく「返事したくない」時だってあるだろう。

そんな時に「聞いてるの?返事は?なんで返事しない?無視してるの?」とか畳み掛けられると「何回も言わないで!」と自分だってキレるはずだ。

子供はそういう時でさえ「今日おもしろくないから返事したくない」とか言えないのだ。仮に言ったとしても今度は「人が聞いてる時は返事するの!」とさらに怒られるだろう。

それでひっくり返って「どうせ僕が悪いんでしょう?『今日の人生』全部僕が悪いんでしょう?」と「自己否定の見本」みたいに自分を責める。

僕が「そんなことないよ。全然何も悪くないよ」となだめると妻が寝室から飛び出して来て「ごめんね」と謝った。

良くないって分かっててなんで「ダブル・バインド」(怒らせてなぐさめる)にしなきゃならないんだろう?

謎だ。



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天才を待ちわびて [雑感]

台所で料理や片付けをしている時には「自分のやりたいように」やる。

まな板の置き方や水切りかごへの皿の並べ方とかそういった「細かいところ」をイチイチ気にしたりしない。

ただそうは言っても結婚して子供ができて家事を共同でやるようになってから微妙に変化したとは思う。

「配置」とか「段取り」とか「効率性」とか多少は「マシ」になってきているとは思う。

そういうことを「まったく」意識しない時はたしかにあった。

学生の時から始まった一人暮らしの間、一体自分はどんな風に「家事」をやってきたのか?

記憶していないぐらい本当にテキトーだったと思う。

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マティスという有名なフランス人の画家がいて、その人の絵とか訳分からないぐらいド下手なのもあるんだけど、たまにものすごい傑作がある。

だいたい大きめの油絵がいいんだけど、一番すごいのは晩年の巨大な「切り絵」とか壁画だと思う。

すごいんだけど「やりたいようにやっている」ようにしか見えない。

「やりたいようにやっている」んだけど度肝を抜かれる。

「何なんだろう?」と思うから立ち止まって眺めてああでもないこうでもないとひとしきり感心する。

感心してずっと見ているのだから「感動」しているのだろう。

ポイントは「やりたいようにやる」という「誰もが持っている全能感」みたいなものを、マティスが熟知して「目に見える形にしている」ところだ。

「自分の中でははっきり分かっている全能感」っていう意味で言えば「僕サッカー代表でゴール決める」と豪語する子供がその子自身の内において「はっきり分かっている」のと似ている。

問題なのはそれを「目に見える形にする」ことの方で、言葉の真の意味で「ゴールを決める」のは現実には本物の日本代表選手の中にしかいない。

「ワールドカップでゴール決める」なんていうデカい話になればいい大人だったらさすがに「妄想」と自覚して自分とは無関係なものと割り切るけど、「鉛筆を使って紙の上に線を引く」程度だと、何となく「俺にもできるんじゃないか?」とか「こんなの誰にでも描けるんじゃないか?」と思わせる「魅力」がある。

それが「美術館の壁に永久展示されている」ということはサッカーで言えば「ワールドカップの歴史に名を刻んだ」みたいなイメージだ。

「俺のシュート」じゃワールドカップでゴール決めるなんて夢のまた夢だけど(そういうCMならある)、「俺の落書き」だったら美術館に掛かる可能性だってないことはないのではないか?みたいな気分にさせてくれるところがマティスやピカソの魅力の一因ではあると思う。

濱田庄司という陶芸家が「シャッシャッ」と釉薬を焼き物に引っ掛けながら「こんなこと俺にもできるというヤツがいるが、この一瞬に数十年の修練が凝縮されている」みたいなことを言っていたけど、そういう「研ぎ澄まされた感覚に与えられる社会的価値」がたしかにあるんだ(サッカーにだって『嗅覚』や『イマジネーション=想像力』といった感覚が要求される)。

どこかの動物園で象が鼻に筆を持って絵を描いたりしてるけど、それとマティスの絵は同じに見えるって人は、ワールドカップのシュートも草野球のホームランも同じだって考える人だろうから、「その人の内においては」たしかに全ての価値はイメージとして等価なのだから幸せだと思うし、否定されるいわれもない。

ここからは「みんなが『すげえ』って認めるだけの別格な感動はあるでしょう、マティスにもワールドカップにも」って考えてる人にしか分からないレトリックになる。

マティスの絵にシロウトの描き殴った落書きより価値があるとするなら、それはその「気楽に引いた線」にマティスが長い時間をかけて「身につけた判断力」が表出しているからで、それは「創造」っていうよりも誰もが持っている認識能力の「拡張」とか「補正」に近い。

自分たちが知っている感覚(線で顔を描くのは難しいとか歴史ってワクワクするとか)の延長上でそれが理解できる。

たぶん、「天才の仕事」というのはそういうものなんだと思う。

そこで料理の話だ。

僕が台所で「やりたいように炊事をした」ら、きっと「ぐちゃぐちゃ」とまでは行かなくても、がんばった分何となく「とっ散らかった」状態にはなる。

もしマティスが「天才料理家」で、時空を超えて家の台所で仕事をしたら、文句も言わずにさっとそこにある調理用具と食材で一流の料理を作ってみせるだろう。

妻はほれぼれとその姿を見て料理を一口食べて「涙を流し」きっとその全てを「真似したくなる」に違いない。

まず目に見えるところから入るかもしれない。包丁の使い方とか食材の並べ方とか片付け方とか。

ところが大抵の「夫」はこんな天才料理家じゃなくて凡庸な「評論家」なんだ。

食事の用意が出来てないと言えば「ほら見てみろ、こうやるんだ!」と言わんばかりにこれ見よがしにやってみせて「どうだ」と無言の圧力を加える。

チョロっと手を出して来て「何で冷蔵庫の中がこんなにぐちゃぐちゃになってる?オリーブオイルはどこだ?フライ返しは?日頃からちゃんと整理していればこんなことにならない」とか文句しか言わない。

「私には全部分かってるの!何しゃしゃり出て来て偉そうにしてるんだこのタコ!」

これなら手伝ってもらわない方がマシと思うがお互い忙しいからやってもらわないわけにもいかない。

幸い日本には「もっと立派な評論家先生」っのがうじゃうじゃいて、その夫の姿に対して「いやいや育メンとしての姿勢がなってませんね」とか「弘法筆を選ばずですから今ある台所と食材で最高の料理を作れるのが天才料理家ってもんですよ」とか何とか「さらに偉そうに」テレビで言ったり本に書く。

夫に「見下された」と感じている妻がそれを聞いたり読んだりして溜飲を下げる。復讐としてそんな「もっとすごい人」の言葉を引いて言う。

「ほら見て。やっぱり『本当にすごい人』は違う。やるならこれぐらいやらなきゃね」

とか何とか(あんたごときに偉そうに言われる筋合いはないの意)。

評論家きどりの妻による評論家きどりの夫のための「本物の評論家」による評論。

評論、評論、評論の連鎖、評論の応酬。

そんなどん詰まりから抜け出したくなるからさらに高みを目指す。

「ああどこかに『サッと神業のようにこのどうしようもない台所、このぶっちらかった台所で、最高にうまい料理を私に食べさせてくれる人』がいたら!

その時私はどんなにか幸せになって心を入れ替えて、その姿を真似ていずれ絶品の料理を作れるようになるだろう!」

今の日本ってのはこの「ぶっちらかった台所」みたいなもので、そこでみんなが「食ったこともないような夢の料理」や「天才料理家」を待ちわびながら、それでも日々食べなければならないから段取りの悪いお母さんや手先のおぼつかないお父さんが作るご飯を「とりあえず」食べて「しょうがない」と諦めてるようなものだと思う。

「キッチンを改築する」と大言壮語してみたり「粗食で十分」とか「食べるものないよりはマシ」と自己憐憫してみたり「その前に食材途絶えて餓死するかも」と嘆いたり。

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回りくどくなったがこの話の主題は「天才」を根本的に別な人種と考えて「あがめたてまつる」悪い習慣を止めようということである。

それは自分が努力しないことを正当化するための悪癖だから。

マティスは言う。

「私は日々進歩している。それが私の本分だ」









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一つ屋根の他者 [雑感]

結婚に対する決定的な認識の誤りがあってそれがまかり通っている。

その広く流布した誤謬のおかげで多くの夫婦が危機に陥っている。

それは「理想のパートナー」というおよそ絶望的な幻想で、なぜそんな観念が必要とされたのか不思議になる。

結婚するのは相手が「理想のパートナーだったから」と言うならその「過去の栄光」が二人の最高の到達点となり、それゆえ結婚生活は年を重ねるごとにただ落ちて行くだけの長い下り坂となる。

妻が聞いたラジオ番組の対談で何とかという精神科医が、

「だから夫はその期待を裏切ってはならず、『ありのままの自分』なんて家庭で見せてはならず、すなわち『夫』を演じることを『当たり前』と感じれば幸せになれる」

と言っていたらしい。

僕に何か言いたかったのだろうが聞いた瞬間に、

「本当にそれ精神科医が言ったの?まったく想像に難くないけどだから日本の精神科医はダメなんだよ。だってその『演技』が原因でみんな『うつ病』になってるんだよ。家庭だけが『ありのままの自分』でいられる場所で、そこでさえも『演技しなければならない』なら、それはその元々の『ありのままの自分』がすでにおかしいのか、妻も夫も『ありのままの相手』を受け入れられないのかどっちかだよ。つまり最初の『理想のパートナー』っていう設定が間違ってるんだよ」

と言った。

本当にこういう資本主義のあまい汁を吸ってるインチキ精神科医がその「メシの種」である「患者」を量産するためにこんなデマカセを偉そうに垂れ流してるのかと思うとうんざりしてくる。

だから一組でも多くの夫婦が救われるためにここに言うけど、結婚っていうのは「理想のパートナー」を見つけて「始める」ものじゃなくてそこへ「至る」ものなんだ。

「私を完璧に理解してくれるもう一人の私」みたいな「理想のパートナー」という幻影と「結婚20年してだんだん化けの皮がはがれる赤の他人」と比較したら、どんな人間だって「ぼろ雑巾」か「ふるだぬき」みたいに見えるだろう。「そう見えない。私の相手は完璧だ」と言い張るならただその「色眼鏡」が外れてないだけでいずれそのレンズは曇ると思う。

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人は一人では生きて行けないけど、同時に自分と同じ考えの人間もまた存在しない。

自分の認識は自分にしか属さず、言葉の真の意味で言えば「分かり合える他人」など存在せず絶対的に「孤独」なんだ。

こんなの哲学的に当たり前の命題だ。

明治生まれの今は亡き僕の祖母は言ったんだ。

「結婚は人生の始まりだ」

って。

それで僕は若い時「何言ってんだ」と思った。結婚しようがしまいが俺の人生はもう「始まってる」って。

だけど、結婚してからまったく理解し難い形だったけど「いや、ばあちゃんは正しかったのでは?」とおぼろげに思った。

そして、子供が出来て育てる中でその思いはますます強くなった。

僕が今漠然と考えることは、人間というのは一人でいる限り恐ろしく「子供」なんだと思う。

その「子供」がもう一人の「子供」と一緒になる。

そしてまるで遊んだり喧嘩したり仲直りしたり話し込んだりしながら少しずつ「大人」になる。

「〇〇ちゃんは私の大親友!」と言ってみたり「大嫌い!」と絶交したりすることもあるかもしれない。

それで少し大人になるとそこに「もっと小さい子供」が加わる。

その子供を少しずつ「大人にするために」子供が力を合わせて面倒を見ることで「ちょっと大人になった子供はもっと大人になる」。

本当の意味で成熟した大人は存在せず「未熟な子供同士」が生活を共にすることで少しずつ「大人」に近づいて行く。

これが家族なんだ。

つまり人は自分が「人として成長するため」に「絶対的な他者」を必要としている。

夫なり妻という存在はそうやって絶対的な他者でありながら「一つ屋根に暮らす」という重責を引き受けて、「人が人になるための道」を共に進むことに協力してくれる人なんだ。

そして生まれて来る子供というのは「必然性をもった他者」で、そしてまた「一緒に大人になる一人の人間」なんだ。

もし家族に「素晴らしさ」があるとすれば、それはこの圧倒的に孤独で未熟で、それでもやはり「成長したい」つまり「生きたい」と切望する自分という他者に対して、決して相容れないもう一人の他者として「ずっと一緒にいてくれる」ところだ。

それを人は無償の愛と呼ぶ。

だから「理想のパートナー」という概念はこの命題に対して真逆の表象になる。

「結婚は人生の墓場」とはよく言ったものでそれは「理想のパートナー」という虚像と対を為す。

「理想のパートナーだから一緒にいられる」と考える人間は結婚をいずれ「呪う」ことになるだろう。

人として幸せを望むならその事実をまず受け入れた方がいい。

結婚披露宴の「ケーキ入刀」は「初めての共同作業」と呼ばれる。

それは謂れのないことではない。










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心の中のエコノミー [雑感]

最近、子育ての子供への影響に関して調べていて、アスペルガー症候群やADHDやアダルト・チルドレンについても考えるようになった。

ネット上ではたくさんの「自称」アスペルガーかADHDかACの方がブログを書いている。

人間の「心」の構造を考える上でとても参考になった。

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*僕の見解をまず最初に言っておく。

「先天性の」「自閉症」や「アスペルガー症候群」を抱える人はいる。

だけど「自閉症スペクトラム」や「アダルト・チルドレン」に関して言うと「白黒つける」のはかなり難しいと思う。

その「症例チェック」などが「ほとんどの人に当てはまる」のは、その原因が身体的な「器質障害」よりも現代社会の「経済活動=エコノミー」に由来する「認知の歪み」にある場合が多いからだ。

そのため膨大な「治療法」や「カウンセリング」が「金儲け」として存在している。

現代の「心の病」ってのは「治療と金儲け」が一体化していて「治療によって悪化する=悪化させて治療漬けにする」という悪徳商法みたいなことがある。

ほとんどの精神科医はあなたの心の中の「エコノミー」を取り除いてはくれない。

むしろ彼らの「エコノミー」のためにあなたの心を搾取しようとする。

だから「決めつけ」によって精神科や心療内科に通うのは慎重になった方がいいと思う。

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さてブログの話だ。

その「自称アスペルガー」の人が「洗い物を必ず一個残す」という自分の奇妙な癖を分析していた。

おかしいのだが、台所のシンクの中にスプーンでも何でもいいから「一個残すと落ち着く」らしいのだ。

「最後までやり切ると、また次にやらなければならないというプレッシャーができるから、少しだけ残しておくのかもしれない」と自己分析していたが、理由はよく分からないと言う。

だけど、これはアスペルガーの「癖」というよりも効率重視の社会や親から与えられるプレッシャーに抵抗する言葉にならない心の「表現」なんだと思う。

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僕も考えてみれば、たしかに「最後までやり通す」ということが得意ではなかったが、あることに気付いてからだいぶマシになった。

自分でもものすごく奇妙に思うのだが、例えば「ペンを筆立てにさす」とか「棚の上に物を置く」と言った場合に、「入れる瞬間」「置く瞬間」に目をそらしている。

次の動作のために振り返ったり立ち去ろうとしている。もちろんほんの「一瞬」だから見なくてもほとんどの場合失敗することはないんだけど、それが「皿洗い」だったりすると皿を割ってしまうこともある。

そして僕は「皿を割る」あるいは「物をひっくり返す」ことがかなりの頻度であった。

何十年もそうやって「ひっくり返し続けて来た」のだ。

それが「マシになった」のは、「あれ?俺なんか目そらせてない?」と気が付いて「意識的に」とにかく「最後まで見届ける」ようにし始めてからだ。

単純に言えばただ「ゆっくりやる」というだけのことだが、以前はそうではなかった。

「テーブルの上にコップを置いてから本を取ろう」という時、コップがテーブルに着地するその瞬間に「0.1秒早く」次の動作に移ってしまう。

そのせいで「置く」という手の動きと「取る」という手の動きが一瞬重なってしまう。「体はまだコップを置いている」のだが「心はすでに本を取ろう」としている。

すると「手の軌道」が数ミリずれて、それがコップの取っ手に引っかかってコーヒーをこぼしたりするのだ。同じ原理で皿が手から滑り落ちる。

これはいつも「急かして」「早く終わらせよう」としているせいで、僕は基本的にこれを「エコノミー」に捉われた「貧乏性」だと思っている。

何でもいいから「得したい」「1円でも1秒でも無駄にしたくない」という「貧乏根性」が骨の髄まで染み付いてしまい、日常生活の中でさえそれが出てしまう。

動作と動作の間のインターバルを極力なくす。10円/1秒だとして10回ぐらいは連続して成功するから100円ぐらいは稼げる。

しかし「もっと早くもっと得したい」という焦りによって11回目にぶっちらかしてその後始末に1分かかって逆に600円「損」してしまう。

コーヒーをひっくり返したのはだから「癖」とか「不注意」ではなく経済に蝕まれて欲を出しすぎた「心のひずみ」のせいだ。

それを「うっかり」とか「ぼーっとしていた」とか「あーあ、またやっちゃった」とかどうでもいいように言うのは本質から目をそらすためだ。

あるいは「俺は元々こういう人間だからしょうがないんだ」と諦める。

僕もずっとそう思って来た。

だけどこういう自分で自分をだまして本当の理由を「偽装する」心のメカニズムもまた「エコノミー」の要請なのだ。

(資本主義の競争原理が作り出す『うつ病』でもシステムはその原因を『個人の気質のせい』にしたい。自分よりも会社を優先し組織に忠誠を誓う個人の内面がそれを反映してしまい、自発的に『心の問題』をスケープゴートにする。だから労働条件が悪化すれば精神科医が儲かるだろう)

だからこれは別に「金銭的に得したい」という話ではない。

「残業を1分でも減らしたい」そして自分の時間を作って「1文字でも多く本が読みたい」「1ページでも多くウェブサイトを見たい」「1秒でも長く寝ていたい」

とにかく「時間がもったいない」という感覚が体を支配する。

「損した気分」のせいで無性にイライラする。些細なことが気に触る。飽きる。途中で放り出したくなる。

ごまかすために「低血圧のせい」「更年期障害のせい」「血液型のせい」「遺伝のせい」と何だか分からない言い訳をする。

自分の心と体の動きがぴったり一致していれば万事うまく行くのに、学校では先生から、会社では上司から、あげく家庭では「勤め人の親」から「早く!」「もっと!」「まだ?」と延々と急かされて、そのせいで奪われた自分の時間を必死で取り返すために誰も見ていなくてもまだ「急ぐ」。

急いでないととにかく落ち着かない。

この体と心の乖離が進めば「皿落とす」どこじゃ済まないカタストロフが待っている。

「この不調はもしかしたら仕事のせい?」なんて疑ってスローダウンしたら置いて行かれる。

それどころかまるで「さぼってる」みたいな罪悪感さえ感じる。

心が言う。

「エコノミーさんが見てるぞ!」

もはや心を監視しているのは「我が内なる神」ではなかった。

さあのんびりしている場合じゃない。急げ急げ。私には時間がないのだし、もっと効率よくやればうまくいく。もっと手際よくやれば未来が開ける。

誰にも頼まれていないのに失敗したのは「血液型のせいだ」「DNAのせいだ」と不可知の自然現象に責任を押し付ける。

見えざる「心の番人」である「エコノミーさん」のためなら解離性障害になっても「急いてる自分」をアピールする。

我急ぐゆえに我あり。

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僕は自分の行動を「最後まで見届ける」ようにし始めた時、最初すごく「居心地が悪かった」。

何と言うか「損した気分」になるのだ。1秒でも0.1秒でも端折れるところを端折らずに「悠長に眺める」ことの損失。

だけど「まあいいか」と繰り返していると不思議とそれに「慣れる」。

そして実はその方が「効率がいい=エコノミカル」だ。

それがスタンダードとなってその意識でもって生活を見直すと、恐ろしいぐらい自分が「焦って」生きて来たことに気付く。

布団をたたまないのも自炊しないのも食器洗いを後回しにするのも洋服を脱ぎ散らかすのもネット見ながら食事するのも歯を磨きながら本を読むのも全部「エコノミー」なのだ。

「俺は忙しいからできないんだ」と一生懸命な自分は思いたがっている。

忙しくて忙しくて大変だ、だからがんばってるんだ偉いんだと思いたいし思われたい。

天上の「エコノミーさん」ならきっと見てくれている。

そんな「エコノミーさん」に「忙しいところ」を見せなければ。

死ぬほど忙しいということを分かってもらうためなら逆に「できない」方がいいのではないか?

「できちゃったら」まるで忙しくないみたいだから「できないこと」をたくさんやろう。

「忙し過ぎてできない」のでなく「できなさ過ぎて忙しい」というわけだ。

その全てが本来の意味で言うと「効率が悪い」にもかかわらず、ただ自分の「忙しさ」を確認するために何でもかんでも中途半端に手をつける。

そういう一切が本当にばかばかしくなった。

コップを置く時にはコップのことを考え、皿を手に持っている時は皿のことを考えた方がいい。

そうすればシンクに残されたスプーンごときで「自己表現」など試みなくなるだろう。

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追記:

偉そうなこと言ってる矢先から、今朝みそ汁作ろうとして味噌が入っている「容器」を出して、別のことを考えていてそれを使わないまままた仕舞ってしまった。
こんなのただ「ぼーっと」してただけの話で、要するに自分は「そういう人間なんだ」と思わざるを得ない、、、。




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だんだん大人になる [育児]

子供はたしかに「大人になる」。

しかしある日突然大人になるわけでもない。

一体いつから大人になるのか?

そう考えるのも面倒なので、

「子供だって一人前の大人だ」

とか何とか、思いっきり端折って都合良く育児責任を放棄して幼年期から子供に抱え切れない「精神的重荷」を背負わせる親もいる(ネグレクト)。

正確には子供は「だんだん大人になる」のだが、この「だんだん」の部分に注意を払う大人は稀だと思う。

なぜなら、その推移、グラデーションの中に当の大人も入ってしまうから、威厳でもって子供を支配下に置こうとする親には都合が悪い。

混ざり加減は異なるが、自分の中には「子供」がいて、子供の中には「大人」がいる。

子育てを通じて親の中に残る「子供」はだんだん薄れていく。

子供の中の大半を占める「子供」はだんだん「大人」に入れ替わっていく。

そこには心的な相互作用があるのだから、そのインタラクションに即興的に反応できるか否かで親の才覚が問われる。

それができない(それを『楽しめない』と言ってもいい)親が自分を「一人前」として偽装する。

化けの皮がはがれるのが恐いから、子供の前で虚勢を張る。

マニュアルを読んで自己正当化を図る。

自分の不手際で子供が泣きわめくと、その落ち度を子供に押し付けるために怒る。

自分で自分に腹を立てながら怒りの矛先を子供に向けてストレス解消しているわけだし、

本人もうっすら気が付いているのだから申し訳ない気持ちに苛まされる。

にもかかわらずそれを続けるのはあまりに利己的で非人間的で胸が痛むので、未熟な親が自己保身のために集団となり「しつけ」という言い訳を大義のごとくでっち上げて、責任逃れの「総仕上げ」をした。

家庭内暴力というのは「胸が痛まない人」がする「しつけ」で、「胸が痛む人」は「しつけ」に便乗して子供に日々「言葉の暴力」をふるう。

「どうしてそういうことをする?」

「自分が何をやっているか分かるのか?」

「何度言ったら分かるんだ?」

「なんでできない?」

「ちゃんとやりなさい!」

「さっき言ったよね?約束したよね?」

「言うこと聞かないともうやらないよ!いい?」

「あ~あ、、、もう、なんで?、、、」

うっかりすると簡単に口を突いて出てしまうこれら「答えられない問い」をボディ・ブローのように毎日浴びせられ続けると、子供の心の真ん中には取り返しのつかない空虚が生じる。

「親は常に正しく、自分は常に間違っている」

ほとんど意識しない形でそう考えるようになる。

「自己否定」というのは、自我という岩盤の上にポタポタ滴り落ちる水滴によって長い時間をかけて穿たれた凹みのようなものだ。

要するに「取り返しがつかない」。

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子供は「だんだん」大人になる。

「時間がかかる」と分かっていれば、人は諦めてのんびり構えるだろう。

「カッとなる」のはさっさと面倒な育児を終わらせて「自分の時間」を取り戻したいと思っている親の側の問題だ。

怒りというのはどんな形であれ(それが『ため息』であっても)子供にとっては「暴力」なのである。



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「遊ぶ」ということが意味するもの [育児]


僕が子供と遊んでいると妻が「不機嫌」になることがある。

しかし逆に自分のことを考えると、妻が子供とべたべたしていれば何か近づきがたい感じがして「ちょっとあんまりくすぐったりばっかりしないでよ」みたいに苦言を呈して自分の仕事をやってることもあるのだから「お互い様」という感じもする。

妻にとって子供と「遊ぶ」ということは「親密になる」みたいな感じなんだと思う。

だからチューしたりくすぐったりばかりして「二人の世界に閉じこもる」。

これが「遊び」であるならそこには誰も入れないし、父親だって仲間外れになるから「もう赤ちゃんじゃないんだから」みたいにチクリと言いたくもなる。

父親にとって「遊ぶ」ことは子供を「外の世界」に開かせてあげることだから、「ごっこ遊び」や「工作」や「連想ゲーム」をやっているし、その時僕は「言葉」を多用する。

それは「ゲーム」だから参加自由だし、「家族以外の他者」だって一緒にできる「遊び」だ。

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だから僕の「遊び」と妻の「遊び」は相容れない。

妻が「遊んでる」時には僕は「面白くない」わけだから、妻にしてみれば、

「私が遊んでる時あなたは不機嫌なんだから、私もあなたが遊んでる時に不機嫌になって何が悪い?だから私だって勝手に自分のやりたいことやる」みたいな認識になるんだと思う。

一見これは「正論」で「対称」に見える。

だけど「二人だけの世界」に父親は入れないが「ゲーム」なら母親は参加することができる。

だから「平等」を求めるなら母親が「譲歩」するしかないように見える。

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しかし考えてみれば「母親が子供とくっつきたい、一体になりたいという感覚」は、かつて自分の体の中で子供と一体だった「母親固有のもの」だと思う。

父親はその「一体感」に対する欲求そのものがない。父親は生物学的に出産など不可能なのだからそんなものあるはずがない。

つまりこの父親と母親の「遊び」に対する「認識の非対称性」の根拠は「生物学的な非対称性」にあることになる。

いつも思うのだが、子供の出自についてここまで「さかのぼられる」と男は何も言えなくなる。

(ここまで『遡行』して育児分担してるのは家だけのことなのだろうか? 例えば僕は『皿洗い』や『おむつ洗い』についても『こんなこと出産に比べれば屁でもないんだ』というある種『原罪』にも似た『負い目』を感じながら粛々とやっていた。しかしこのあいだたまたま『父親3人だけ』で飲んだ時、他の二人が『俺なんて生まれてからずっと子供の風呂入れてるんですよ』とか『子供の送り迎えは必ずやる』みたいなことをいかにも『育児貢献してる』かのように満足げに話していて『ええ!?』と思ってしまった。『うそ?そんなことで評価してもらえんの?だって出産してないってことは借金1000万背負ってどんなに家事やっても50万ぐらいしか返せないようなもんですよ?』と訴えたが『はあ?』という感じだった)

男は『出産』によって返済し切れない負債を抱えてしまった。

しかし子供とは触れ合いたい。

そのために「ゲーム」とか「言葉遊び」という手段は有効だし、実際子供はそういう「遊び」が「大好き」だ。

それに母親とくっついているだけでは飽きてしまうだろう。

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するとある時点で子供と両親の関係の持ち方の「比率」が少しずつ入れ替わっていくんだと思う。

最初は子供は「母親とおっぱいで結びついている」から父親は泣いてる時に抱っこ変わってあげるぐらいしかできない。

だけど子供も成長して言葉を覚えて、幼稚園、小学校と上がっていくと、「社会性」を身につけるために「ゲーム」や「言葉遊び」が必要になるし子供もそれを楽しむようになる。

この「ゲーム」とか「言葉」というのをある種の「男性性」と考えてみよう。

(人にももちろんよるだろうし、論理的思考が得意な女性とかくっつきたい父親だっているだろう。だけど『父親は出産できない』という非対称性は以前として残るから、それを埋め合わせるために『論理』や『言語』に価値を見出す思考を『男性性』と仮に考える)

するとこの「移行期」において、母親は「おっぱいをあげて満足する」とか「くっついて安心する」みたいなスキンシップによるコミュニケーションから「頭脳的コミュニケーション」にシフトして行く必要に迫られる。

父親は「待ってました!」とばかり「ほら見てみろ、どんどん俺になついていくぞ」と得意になってその「ゲーム」や「言葉遊び」や「スポーツ」をやるかもしれない。

ここで母親が劣勢に立たされると「ぐぬぬ、負けるものか」と今度は「教育」にエネルギーを注ぐようになる。

あるいはこのタイミングで母親は自分を見失って「育児ノイローゼ」や「うつ」になるかもしれない。

その移行期の迷いや不安から目をそらす救済措置が、親子共々資本主義の競争原理に組み込んでいくための「早期教育」で、だからその意味でそれは子供のためというより「母親の父親化」のための下準備なんだと思う。

父親が仕事で「不在」なのだから、母親がやるしかないだろうという考えもあるし、「教育」を通じて「母性」を抑圧して、母親を「社会化」する意味もある。

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ここで僕には一つの疑問が湧く。

つまり、人間の生命を根源的に突き動かしているエネルギーの証である、あの「一体感」はどこへ行ってしまうのだろう?と。

それは「早々」捨て去られるべきものなのだろうか?

たしかに生まれて来た赤ん坊は、いくら母親と一体だったからと言って、母子二人の世界に閉じこもって生きて行くことはできない。

人は社会化されなければ生きて行けないのだから「社会」だって人間生命の一つの表れなのだ。

だけど子供にとって母親が与える安心感は何者にも代え難いものだろう。

人は子供から大人になる。

そこには「移行」がある。

だから、その「移行期間」をどう過ごすか?なんだと思う。

そこではもちろん夫婦の間でも、子供との間でも、衝突があるんだと思う。

母親が子育ての全権を握ったり父親が暴君のように振る舞ったりするのは、その「衝突」を回避する(生じないようにする)ための古い家族モデルなんだ。

親は「自分たち固有の問題」に向き合わずに、理想やマニュアルに振り回されたり逆に家父長制に閉じ込められたり、それでがんじがらめになって怒りを爆発させたり子供の不満を無理矢理抑え付けたりするんだけど、最後のしわ寄せは子供に行く。

そしてその「ツケ」は必ず将来子供が成長した時に「反抗期」として帰って来るだろうし、最悪生涯に渡ってアダルト・チルドレンや人格障害といった症候として現れる。

それは「復讐」であるからより取り返しのつかない手ひどいダメージを親はくらう。

なぜ問題を「先延ばし」するのだろう?

夫婦も子供も早いところ「衝突」して話し合う習慣を身につけた方がいい。

そして一緒に遊び、笑う。

民主的な家族を目指すとはそういうことだ。








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子供に本音と建前を教える [育児]

レストランでエスニック風チキンみたいなのを食べて、お店の人が「いかがでしたか?」と聞いた。

僕らはもちろん「おいしかったです」と答えたが、子供は「おいしいようなおいしくないような」と言った。

店の人は笑顔のまま行ってしまったが、妻はその後子供に真顔で「そういうこと言っちゃだめだよ」と言った。

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僕はちょっと違和感を感じて「いや、そういう意味じゃないんじゃないか?」と思い、

「〇〇、この味あんまり好きじゃなかった?だけど『おいしくない』って言ったら、作ってくれた人がっかりするでしょう?だから、そういう時は言わない方がいいよ」

と言った。子供はちょっとすねた。

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僕は「だめ」という言葉をあまり使わないようにしているし、「だめ」と言ったら、だいたい「なんでだめなのか?」を説明する。

(『だめ!』とすぐ言うのは母親の特徴だと思う。まあそれは『子供にケガしてほしくない』とか『親のしつけがなってない子供と思われたくない』とかいろんな思いがあるのだろうが)

それで「おいしくないなんてお店の人に言っちゃダメだよ」というのは、ある意味子供には矛盾することなんだ。

まず第一に子どもは味としてたしかに「おいしいような、おいしくないような」と思ったんだと思う。

だから素直に「味の感想」を述べたのだと思う。

その場合それを「言ってはいけない」と言うならそういったマナーなり礼儀作法があるから「建前」として言ってはいけないということだと思う。

そしてそれは「自分の本心」ではなく「相手の立場に立って考えたら」という前提を必要とする。

こういう「人の身になる」という思考は子供にはなかなか難しい、というかほぼ不可能だと思う。

自分の主体もあいまいなところで「人のためを思う」などできるはずもなく、もしできるとすればそれは「パターン」として覚えるということだと思う。

つまりお店に行って味を聞かれたら「とりあえずおいしいと言えばいい」「おいしいと言っておけば怒られない」という具合に。

だけどここでもう一つ考える。

日頃「嘘を付いてはいけない」とか「本当のことを言いなさい」とか「正直に言いなさい」とか子供に言っていないだろうか?

(現実と想像の区別がついてない子供に『嘘か本当か』と追求することにはあまり意味がないのだが)

また「この料理の味どう?」「学校の授業どうだった?」「この本読んでどう思った?」とか感想を求めることもあるだろう。

そういった時には正直に「おいしくない」「つまらなかった」「楽しくなかった」と言うべきだろう。

つまりある時には「正直に言う」しある時には「正直に言ってはいけない」ということを子供は了解していなければならない。

この「ある時に」というのが曲者で、それが「状況」であり「場の空気」であり、子供がまだ持ち合わせていない主体的判断に関わっている。

親はだから「言ってはいけない」「やってはいけない」と「命令」を下すよりは、「それを言ったら他の人ががっかりするよ」とか具体的な状況を説明してあげた方がいいんだと思う。

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あと子どもが「おいしいようなおいしくないような」と子どもなりに自分の味覚の「微妙さ」を表現したことを僕はむしろうれしく思ったし、それは「マナーとして言ってはいけない」というのはちょっと違うと思う。

「僕クミンって苦手なんだけど、このチキンはおいしいですね」とか何とか、自分の本音を匂わせながら相手も立てるみたいな微妙な言い方をすることだってある。

実際「味を楽しむ」ってそういう相反するものがどう組み合わさっているかそのバランスの問題だと思うし、味を見極めるための「センス」を言語化するチャンスなら、それを「マナー」で閉ざすこともないと思う。

「マナーだから言わない方がいい」ってのは社会的慣習だからパターンとして身につけるのはそれほど難しくないんだ。

それを教える前に「どうしてそう感じたの?どうしたらもっとおいしくなる?どうしたらもっと好きな味になる?」と聞いた方がいいと思う。

不思議なのは、社会に出たらマナーなんてあって当然で、重宝されるのは「表現力」の方であることぐらい親にも分かっているということだ。

それでもマナーを優先して「表現の芽」を摘んでしまうのなら、その人は「子供の未来」よりもよっぽど「親の体裁」が気になるのだろう。



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会話と状況判断 [育児]

妻の誕生日に新しいノートパソコンをプレゼントしたら、妻が「これ私にはもったいないよ。新しいのあなたが使って、私が古いのもらうから」と言う。

すると子供が「お母さんの誕生日プレゼントなんだから、もらえばいいんだよ」と言う。

僕は思わず「そうだよねー」と言う。

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子供が学校に行った後で妻に「子供が言う通りプレゼントは素直にもらわなきゃ逆に相手に失礼だよ」と言うと、

「いや、実はプレゼント買うの忘れてて『自分用に買ったパソコン』を持って来たのかと思った」と言う。

「じゃあ何で開封してないの?そんなことあるはずないでしょう」

「いや、もしかしたらと『勘ぐった』だけ。じゃあ自分で使うから。ありがとう」

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僕が不思議に思うのは、プレゼントに対して妻があれこれ言った時に、「プレゼントなんだから素直にもらえばいい」と子供が言ったことだ。

これは言ってみれば僕の心の声を代弁しているし、「素直に喜んでみせること」は礼儀としても正しいと思う。

「勘ぐる」というのは洞察力と同じ分析的思考だから、世の中を生き抜いていくためには身に付けなければいけない能力ではある。

だけど「勘ぐったり」「言葉の裏を読んだり」するコミュニケーションは、注意深く運用しないと(あるいは逆に考えすぎると)「衝突」の原因になる。

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まず「勘ぐり」と言うのは、「真偽不明」の相手の心の状態を類推しているわけだから、「絶対にそうだ」と確信したところでもそのものズバリを言うわけにはいかない。

せっかく買ったプレゼントに対していきなり「これ自分用に買ったんじゃないの?」なんて言われたらがっかりするだろう。

だから妻も「私にはもったいない」とか別な言い方に変える。

するとその言葉には何か「ベール」のようなものがかかって、一見喜んでいるかのようで、その後ろに微妙に沈んだトーンが透けて見える。

子供の恐いところは、こういう「トーン」や「ニュアンス」を敏感に捉えるところだ。

大人が自分の不愉快さや疑念といったネガティブな考えを適当に耳障りのいい言葉でうまく丸め込んだと思ったところで、そんな表面的な「修辞」に子供はだまされない。

だから子供は時に大人が「ギョッとする」ようなことを言う。

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人はたしかに「勘ぐる」し「裏を読む」。

「疑いの目」で世界を見ることは思春期・青年期の特徴的な思考だから、それは「若さ」の表れでもある。

そういう目で見れば大人なんてみんな「嘘つき」に見えるし、世の中「間違った事だらけ」だ。

しかし社会に出てみれば「本音と建前」なんて当たり前で、いつのまにか自分もその「嘘つき」になる。

そうやって常に自分の本心を隠して相手に取り入ろうとする話術が身に付くと、きっと相手も「自分と同じように何かを隠しているのだろう」と思うようになる。

会話は「腹の探り合い」になる。

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注意した方がいいのは、家庭の中にそういう思考を持ち込まないことだ。

だから妻は僕に間違った対応をした。

そう言うと妻は、

「じゃあ『わあ、うれしい!ありがとう!』とだけ言えば良かったのか?」と言いそうな気がする。

しかし逆だ。

本当は第一声でまずこう言えば良かった。

「プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」と。

僕は「『自分用に買ったの?』といきなり聞かれたらがっかりする」と書いたのだから、それはおかしいだろうと思う。

だけど、問題なのはそこに「悪意」があるかどうかなんだと思う。

もし妻に「悪意がない」のなら、「心に浮かんだことはすぐ口にした方がいい」ということだ。

(悪意が『ある』のなら、それはまた別の話だ)

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会話の続きとしてはきっとこうなるだろう。

「ええ?プレゼント買うの忘れてて自分用に買ったの持って来たんじゃないの?」

「え?そんなことあるはずないでしょう?見てみなよ、梱包されてるでしょう?」

「あ、本当だ。ごめん。いいの?ありがとう!」

これで終わりだと思うし、誰も傷つかない。

(僕は投げかけによって妻に『悪意がない』ことを確認した)

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しかし妻にこういう「言い方」ができるのか?と考えると、たぶんできないだろうと思う。

なぜかと言うと、妻は「勘ぐった」と考えている時点で、そこにある種の後ろめたさがあって、それは悪意とは言わないが「まず最初に僕を疑った」という感覚なんだと思う。

「これ自分用に買ったんじゃないの?」という一言はその言葉自体としてはニュートラルなんだ。

例えばこうだ。

「うれしい!すごい!ええ?まさか自分のために買ったの持って来たんじゃないよね?本当に私の?やったー」

と言うのと、

「え?、、、本当は忘れててまさか自分のために買ったんじゃないんでしょうね?、、、」

と言うことのニュアンスの違い。

いきなり後者の言い方をされたら、たぶん僕もカチンと来るし、どちらかと言うと妻にはまず微妙にそういう「疑念」のようなものが生じたから、別な言葉に言い換えたんだと思う。

だけどもし思い浮かんだのが悪意とは異なる「ちょっとした疑念」があるなら(ないなら素直に喜べば良い)、結局どう取り繕おうとネガティブな「トーン」は子供にすら伝わってしまうのだから、積極的に疑念を払拭するためにもむしろ「真っ先に言ってしまった方がいい」んだと思う。

心に忍び込む「疑い」や「不満」を避けることなんてできないのだから、それを会話のやり取りを通じて解消してしまう。

これも一つの話術だ。

(同時に『一見素直に喜びを表現しているように見せかけて悪意を忍び込ませる』というアクロバティックなことをやる狡猾な人間もいるのだが)

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だけど、どっちにしても「ごまかしたり」「言い換えたり」するのは家庭の中ではやらない方がいい。

まず子供はそういうのを見抜いてしまうし、やがて子供も親の真似をして「ごまかす」ようになる。

それは「嘘をつく」ことを勧めるようなものだ。

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心に浮かんだことは、何でも、例えそれが相手を傷つける言葉でも、とにかく「言葉にする」。

それが家庭の中の会話の基本だと思う。

親はそれを見過ごすのでも責めるのでもない。

子供は美味しくない料理に対しては正直に「おいしくない」と言った方がいい。

そして「なぜそれをおいしくないと感じるのか?」「どうやったらおいしくなるか?」と一緒に考えた方がいい。

「おいしくないなんて作った人に失礼だから言っちゃいけない」というのは「マナー」の話で、子供の「心の発育」とは別の問題だ。

人の心の中には、良いことも悪いことも、人を思いやる言葉も傷つける言葉も「同時に」浮かぶものだ。

そして、それは「口から外に出たがって」いる。

他人に伝達されるのを待っている。

(人は伝えたいから思いつく。思いついたら伝えた方がいい)

だから、大人はその言葉を聞いてあげて、マナーに反するものであれば、一緒に補正してあげればいい。

大事なのは会話であり言葉の「やり取り」であって、言葉の「定義」ではない。

言葉は多義的で、会話の流れの中で少しずつ意味は変化するのだから、その「変化」を見極める読解力(空気を読む力)を育むためには家庭内の会話は「自由」な方がいい。

ふと口を突いて出る言葉の首根っこを捕まえて、怒りとともに「言っちゃいけません!」と命じるなら、それは「考えるな!思うな!思うおまえが悪い!」という呪縛となり、生涯にわたってその人の心と想像力を「監視」するだろう。

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うちの子とふざけて遊んでいると時々はしゃいで「この!ばかクソお父さん!」とか言うことがある。

どこかで覚えてくるのだろうがまったく悪意がない。

そういった「言葉そのもの」を標的にして「親に向かってそんなこと言うんじゃない!」とか激怒して、それをしつけと考える親の方が多数派だとは思う。

だけど僕は我が子を「他人を信じられない人間にしたくない」ので、

「なんだって?それはあまり良い言葉じゃないなー。お父さんに向かって言う言葉じゃないよ」と笑って応戦する。

むしろ思いついた言葉がどんどん飛び出して来る方がうれしい。

「言っちゃいけない言葉」なんてないんだと思う。

「言っちゃいけない状況」があるだけだ。

そして「状況判断」は冷静な分析能力であって、怒りを通じた「抑圧」では身に付かない。




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