So-net無料ブログ作成
検索選択

言葉にできたらそれだけでほめてあげる [育児]

最近、子供に対する「ダブル・バインド」(板挟み)について考えた。

そして、それが日常「よくあること」に気が付いた。

「よくある」んだけど、その状況を親は問題と思ってないので、単に気がつかない。

いや「気がつかない」と言うより、それが「普通」だから、むしろ「そんなこと考える方がおかしい」ぐらいの感じだと思う。

親が気がつかないのは、その親自身も「ダブル・バインド」によってしつけられ、親になってそれを繰り返し実践するからだろう。

試しに自分の親(たいして口うるさくない方だと思うが)に聞いてみた。

「『勉強しなさい』って言って、それで『いやだ』って答えた子供に『じゃあやらなくていい』と言うのはダブル・バインドなんだよ」と。

そうしたら

「、、、普通そうなんじゃないのか?」

と答える。

たしかにそうだし、僕自身もまったく気が付かずに、別な形で似たようなことをやっていると思うので、少し考えてみる。

-------

「ダブル・バインド」は親にとって都合がよく、「楽」である。

そして子供にとっては理不尽で、「苦痛」である。

人間は「楽」なことをしたがる。

親が「楽」で子供が「苦痛」だって?

そんなことあるもんか、と大人は思う。

親が「苦しく」て、子供が「楽しようとしてる」の間違いだろう?

子供は「わがまま」言う。それが「間違ってる」ってことを子供に理解してもらわなきゃ困るだろう?

ところが事実は逆で、

子供は正当な理由を持って苦しんでいるのに、「親が楽をしようとして」その苦悩を抑え付けるんだ。

これじゃあまりにひどい話で大人も良心が痛むから、「しつけ」という大義名分を作り出した。

それゆえ一般的に言われる「しつけ」のほとんどが、いまだに間違った仕方で代々受け継がれている。

例えばこんな感じだ。

------

「お母さんテレビ見ていい?」

「いいよ」

「やったー」

「あ、宿題やった?その前に宿題やろう」

「なんで、もう!!」

「だって、終わらないでしょう?いいよ、終わらなくていいなら、テレビ見れば」

「分かったよ!やるよ!やればいいんでしょう!」

「何?その言い方?お母さんあなたのため思って言ってるんだよ?いいよ、やらないでそのまま学校行けば?」

「やるよ!やるって言ってるでしょう?」

「そんな嫌そうにやるなら、やらなくいいよ。だって自分のためでしょう?」

(無言)

------

これのどこが間違っているか?

お母さんは子供に聞かれて、「(テレビ見ても)いいよ」と自分が「無計画に」返事している。

「計画性」を言うならもっと別な言い方があった。

「テレビ見る前に宿題やる」あるいは「テレビ見てから宿題やる。やるなら時間決める」とか。

親がまず「計画」を明示して、その「選択」を子供にさせてあげるべきだった。

親は自分がまず「無計画」なことを棚に上げて、子供には「計画性」を押し付ける。

子供は「親に許可されて、それから修正されて、さらに押し付けられたから怒った」。

そうしたら今度は「怒るならやらなくていい」とまた押し付ける。

これもよくある「ダブル・バインド」だ。

結局、子供は「親に振り回される」あるいは「親に支配される」と感じる。

あるいは、

-----

お父さん〇〇して」

「いいよ」

「やったー」

しばらくして、

「あ、そうだ。ごめん、先に仕事するから、ちょっと待ってて」

「えー!なんでー!今やるって言ったのに!」

「ちょっと待っててよ、お父さん忙しいんだから!」

「やだ!!今やって」

「何で分からないんだ?分かったよ、やるよ。ちょっとだけだからな、ああもうしょうがない、、、」と嫌々やる。

-----

これも問題は、お父さん自身が最初に「計画」を立てられない。返事をした後でやらなければいけないことに気が付いて、「自分の都合で」変更した。

そして、それに対して子供が文句を言ったら「前言撤回した」。

たしかに、本当に「大事なことを思い出した」というのはあるし、その時はしょうがないだろう。

だけど、意外に人は、何かやり始めると、「やらなければならない用事」を思い出したりする。

だいたい、親が暇そうにしてたから子供が「遊んで」と言って来たんじゃないか?

この場合の修正案としては、子供が「〇〇して」と言って来たら、

「そうだな、、、」とまず立ち止まって考える。

頭の中で予定を組み立てる。しかるべきのちに、

「今仕事終わらせるから、ちょっとだけ待ってて。その間本読んでてくれる?」

とでも言えばいい。

その後「やだ!今すぐやって!」と子供が要求したら、それは親にとって困るのだから、今度はそれを説明すればいい。

「今すぐやってほしいのは分かるけど、これを先に終わらせなければならないから、時計の長い針が一番下に来るまで待っててくれる?そうしたら必ずやるから」とか。

「しつけだから怒ったっていいんだ」と開き直っている人は、こういう「修正案」「第三の方法」を考えることすらしない。

ダブル・バインドの事例は他にもいろいろ考えられる。

------

子供が夢中になって本を読んでいる。

親が話しかける。

「〇〇ちゃん、今日学校どうだった?」

(無視)

「〇〇ちゃん?聞いてる?」

(無視)

「〇〇ちゃん、聞いてるんだけど」

(ようやく顔を上げて)「え?なーに?」

「さっきから何回も聞いてるでしょう?学校どうだった?」

(質問の意味が分からない)「え?何が?」(そう言ってまた本を読む)

「学校どうだったの?楽しかったの?」

(本から目を離さず)「うん、楽しかったよ」(と、気のない返事)

「人が話しかけたらちゃんと返事して答えるんだよ?分かった?」

「、、、うん、、、」

こんな風に子供に話したとすれば、親は二重三重に間違っている。

まず第一に、子供が夢中になっていることを妨害した。

「本をたくさん読みなさい」「しっかり読みなさい」と言っておいて、読んでいたらそれを邪魔する。

それなら「本なんて読まなくていい」と言うか、「読み終わるまで待つ」か、「大事な話があるから読んでいるのちょっと止めて聞いてくれる?」と断るべきだ。

そして第二に、「学校どうだった?」とオープンクエスチョンをしている。

これは子供にはとても答えづらい質問だ。「どう?」って言われても、、、という感じなのに、以外にこういう質問をする人は多い。

こういった場合、具体的に「昨日は縄跳びだったけど、今日の体育では何やったの?」とか、あるいはあらかじめ聞いていた「今日の音楽でやるって言ってた笛楽しかった?」とか聞いた方が子供は注意を向けてくれる。

まずは「注意を引きつける」努力を親がしなければならない。

「こっちが声かけたんだから答えなければならない」というのは、親の都合でしかない。

そうやって「状況を無視して」「答えづらい質問をして」、その上だめ押しで、

「聞いてるの?」「何回も言ってるでしょう?」「ちゃんと返事して」と、

「子供に罪を押し付ける」

この「罪」。親が勝手に不条理なことを問いかけて、それができないと「答えないおまえが悪い」みたいに思い込ませることで子供の中に植え付けられる罪の意識。

これが蓄積されると、子供は意識的に親に反抗するようになる。

そのうち「知らないよ!」とか「分かんない!」とか言い出すだろう。

そうすると、今度は「何だその言い方は!」とか「答えたくないなら答えなくていい」とか親は怒鳴って、力でねじ伏せようとする。

子供は面倒になって、だんだん当たり障りのない「答え方のパターン」を学ぶ。

「うん」と適当に返事して、「楽しかったよ」とどうでもいいように答える。

その蓄積によって損なわれるのは、親への「信頼」だと思う。

親を信頼しない子供は、「どうせ僕なんか、、、」「どうせ私なんて、、、」と次に「自己否定」するようになる。

---------

子供はまず「断り方」を学ばなければならない。

「ごめん、今本読んでるから、もうちょっと待って」

そう言えなければならない。

そのためには「主体性」が必要だから、親がまず「主体的に」、子供の主体を尊重して問いかけなければならない。

これは「子供と大人」の関係より、むしろ「大人と大人」の関係に近い。

---------

ここで親が子供に掲げる「正当な理由」について考えてみる。

例えば「人が話しかけたらちゃんと答える」というのは社会的振る舞いとして正しいだろう。

しかし、それは「状況次第」だ。

仕事場で、仕事のミスで残業している人間に「仕事どう?」と気軽に話しかけるだろうか?

たった一度「え?」と聞き返した人間に、「ちゃんと人の話聞いてる?」と言うだろうか?

「、、、いや、まあ順調ですけど」と答えた部下に「何がどう順調なの?分かるでしょう?俺が聞いてること」とか言う上司がいたら、相当嫌なやつではないだろうか?

--------

思うに、複数の人間が同じ場所にいて、

「人が話しかけたらちゃんと答える」ことが当然とされる場合、そこには「場の共有」「意識の共有」がある。

人々は「話しかけられたら答えよう」と最初から意識している。

そしてその場が、納期ギリギリのテンパった状態なのか、リラックスした昼休みなのか、状況次第で「質問の仕方」も「答え方」も変わるものだ。

「〇〇君!」「はい!」みたいに即答する場合もあれば、「えーと、ごめん、今手が離せない」と言う場合もあるだろうし、「え?今なんか言った?」と聞き逃したことを許される場合だってある。

-------

子供には、この「場の共有」や「状況次第」という感覚がないか、希薄だ。

子供は自分を「客体化」「客観視」できないし、だから「主体」もあいまいだし、それゆえ常に「自分中心」で物事を考えている。

大人のように「本を読みながら同時に」時間の余裕や予定を考えて、一瞬手を離して「今日学校の体育で、、、」なんて答えてまた読書に戻るなんて至難の業なのだ。

それに、家庭の中で「場の共有」も何もないだろう。何も気にしないでリラックスしていられるのが家じゃないか。

ぼーっとするなんて大人だってあるんだから、子供がそうするのなんて際限がないだろう。

---

思うに、多くの子育てマニュアルに欠けているのは、「状況によって変化する」ことを考慮に入れてない点だと思う。

いや、結局、状況なんて「無限」に個別的だから、それを「こうすればこうなる」なんて断定できるはずがない。

本当に経験上思うんだけど、例えば、宿題をやらせようと思った時、

「やりなさい!」と命令しようが「一緒にやろうか」と優しく声かけしようが、あんまり関係ないと思う。

時間を決めて「何時に始めよう」と言っても、やる時もあればやらない時もある。

問題はその「うまくいったりうまくいかなかったりする」ことにあるんだ。

だから「うまくいったりいかなかったりするから、無理強いせずに適当に済ませましょう」と言われたって、

「どうしてもやらなければいけない宿題」だったらとにかくやるしかない。

それを「やらなくていい」なんて放り出せないから困ってるんじゃないか。

-----

子供って、大人が考えているように「何にも考えてない」とか「いい加減」とか「あきっぽい」とかじゃないと思う。

むしろ、全てが「真剣勝負」のようだ。

例えば、プロのスポーツ選手が試合に臨む時、突然思いついたように「さあ今から試合やるよ」とか言われないだろう。

その時に向かってコンディション整えて、気分を盛り上げて「気合いを入れる」はずだ。

失敗して「どんまい、どんまい」の時もあれば、悔しくて涙が止まらない時だってある。

親はそういった真剣さを「どうせ子供なんだから」と「低く見積もって」、「たいしたことない、気にするな」なんて上から目線で言ってしまいがちだ。

子供がよく分からない理由で泣く。地団駄を踏んで悔しがる。

「何泣いてんだ!」「いい加減にしなさい!」と怒鳴るのでもなく、「よしよし、いいんだよ、泣いても」と同情するのでもない。

「何で泣く?」と悩みながら、じーっと黙って嵐が過ぎるのを待つでもない。

子供がその思いを言葉にできるように仕向ける。

「悔しかったか?」と聞いてみる。

子供が一言「うん、悔しかった」と答える。

「言葉にしたらそれだけで」心の中でほめてあげる。

そして「悔しかったな、、、」とまず共感してあげる。

この時親は、親と言うより一人の人間として子供に向き合うんだと思う。





nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:育児

習い事 [育児]

夕方、週に3回、車に乗せて子供を習い事に連れて行く。

学校から帰って来て友達と遊んでいるから、そこで自分だけ抜けるのが面白くない。

「いいなー、みんなは、何もなくて、、、今日これから鬼ごっこやるって言ってたのに、台無しだ、、、」とぼやく。

車に乗ってしばらくしたら、

「もうやだ、やりたくない、習うのはプールだけでいい!」

と言う(プールは好きなので)。

今までも何回も同じことがあって、大抵の場合それは「友達との遊びを中断する時」に起きる。

だから、決して「心底やりたくない!」という訳ではなく、あくまで「まだ遊びたい!」ということだと思う。

それで僕は何と言って来ただろう?

「高いお金払ってるんだからちゃんと続けなさい!」とか頭から命じるようなことだけはなかったし、これからもないだろう。

だから「もっと考えて」言う。

「やりたくないならしょうがないな。どうする?やめてもいいよ、自分のことだから」

お父さんお母さんは将来のことを考えるとやった方がいいと思ってる。でも本当にやりたくないなら考えよう。自分で決めていいよ」

この言い方のどこが間違っているのだろう?

そう思うけど、今振り返ると「決定的な誤ち」がうっすら見える。

それは「正論による頭ごなしの決めつけ」なんだ。

「どうだ? お父さんの言うこと間違ってないだろう? おまえもいつか分かるよ」

という「隠れメッセージ」があるということに気付くために、僕はゴードン博士の「親業」を読まなければならなかった。

だから、昨日は少し違った言い方をしてみた。

「やだ!やりたくない!やめたい!」

と言うので、

「そうか、やりたくないか、、、みんなと遊んでた方が楽しいよな、、、それはそうだ」

とまず「共感」してみた。そして

「遊びたかった?」

と聞いてみる。

「うん、、、」と子供は一瞬黙る。

それから、

「でも友達の中にも習い事してる子もいるし、してない子もいるでしょう? 〇〇は3つも習ってるから大変だけど、他にもそれぐらい習ってる子もいると思うよ。習ってない子は毎日遊べるけど、習ってる子はその分いろんなことができるようになるし、習いものがない日はちゃんと遊べる。お父さんは大人になって「いろんなことがやりたいなー」と思うけど、なかなかできない。子供の時もうちょっとやればよかったなと思う。だから〇〇がやっていることは良いことだとお父さんは思うよ。でも、本当にどうしてもやりたくないなら、無理に続ける必要はない。でも今すぐ決めなくてもいいと思うから、もう少し続けて、それから考えてみようよ」

と、何だか長くしゃべった。

こういう「語り」は、通常の大人の会話でもあると思う。

何か、しゃべりながら、その言っていることを「補強」したり「修正」するような言い方。

子供に対してだと、「どうせ長く話しても分からないだろう」という気持ちがあるからなのか、明快に一言でズバッと伝えた方がいいと思っているからなのか、「短い言葉」になりがちなんだ。

「お父さんは『子供のころにもっといろいろ習えばよかったなあ』と思ってる」

以上。みたいな。

たしかにそれも本心なんだけど、同時に、だからと言ってそれを理由に子供に「無理矢理やらせる」ってのも、正当な理由にはならない。

「迷い」が当然あるんだ。

だからもう一言付け加える。

「君はよくやっていると思うよ」

しかし今度は「君は偉い。だからお父さんの期待を裏切らないでくれよ」というメッセージにもなってしまう。

そこでもう一言付け加える。

「だけど、本当にやりたくないなら、続ける必要はない」

これは「やりたくない!」という子供の気持ちを代弁している。

だけど、ここで終わってしまったら、

「やめていい」

というメッセージになってしまい、それは「君は偉い。続けた方がいい」という前言に矛盾してしまう。

だから最後の最後にもう一言付け加える。

「もう少し続けて、それから考えよう」

と、ここで結論を出さないようにする。

そして実際、僕の心の中で起きることは、そっくりその通りである。

ゴードン博士はこういった「迷い」も言葉にして伝えた方がいいと言うんだ。

この考えが僕にとって「画期的」「目からうろこ」なんだと思う。

-----

こういう話術をこうやって書き出してみると、結構支離滅裂というか、「あいまい」なんだ。

そして大抵の場合、会話とはそんなものだと思う。

子供に対して親は「威厳を持って接する」みたいにシュタイナー教育とかで言われる。

親は常に全てを見通して、具体的で的確な助言を瞬時に子供に与えることができるし、またそうでなければならない。

そういうプレッシャー。

すると自分の中でもはっきりしないままに、

「やりたくないならやらなくていいよ。自分で決めていいよ」

と「子供の主体性」に丸投げしてしまうような時が出てくる。

シュタイナー的にそうだなんてどこにも書いてないだろうし、僕の単なる読み違えなのだろう。

だけど「親の迷い」を子供に見せるのを許されないような感じはある。

「失敗したっていいじゃないの、人間だもの」みたいないい加減さが認められない。

------

だけど、やっぱり、「どうしたらいいのかなあ?」とも思うし、「自分で決めていいよって言ったって、もし『本当にやめる!』とかここで即断されたら、『いいよ』とも『いや、ちょっと待って』とも言えないだろう」とか、次から次へと迷いは生じるんだ。

そこで自分を偽ってまで「親の威厳」を示そうとすると、人によっては

「いい加減にしなさい!何で分からないの?」

みたいになってしまうんだ。

もっと自分が当たり前に感じる「迷い」「不安」「期待」を、そのまま言葉にした方がいいんじゃないか?

そこでゴードン博士は「親は人として、人としての子供に接しなさい」と言ってくれる。

-------

その長いセリフを僕が言った後、子供はチャイルドシートでずっと黙って考えていたんだ。

しゃべらないから、僕もしゃべらなかった。

「カーステレオの曲変えるか?」

と聞いたら、

「ん?、、、いいよ、このままで、、、」

とまた黙っている。

それで、その習い事に着いた時に、

「今日習うやつ、お父さん子供の時おばあちゃんに『やりなさい』ってずっと言われてて、『やだ!』って言ってやらなかったんだ。だけど、大人になってやっておけばよかったなーと思うよ。今度おばあちゃんに聞いてみな。『やだあ!』って絶対やらなかったって言うから。だから君はえらいよ、ちゃんと習い始めた。お父さんとは違う」

と言った。

-----

それで、帰りは10分ぐらい居残りしてその日の課題を終わらせて出て来た。やる気満々という感じだったので、

「がんばったな」

と言うと、

「えーと、今習いたいのはー、サッカーと太鼓とギター。一番習いたいのはサッカー」

と言う。

「え?そんな習ったら遊ぶ時間なくなっちゃうよ」

と言ったら、

「いいんだよ、それでも、、、」

と「どうにでも好きなようにしてくれ」みたいに投げやりに言う。いや、それはいくらなんでも極端だろう。何か反動的なスイッチが入ってしまったみたいだ。

「いや、遊ぶのだって大事だよ。あんまりたくさん習いすぎると疲れちゃうから。でもサッカーやりたいなら、週一回ぐらいならやってもいいと思うけど」

と言った。

「やれやれ」

----

結局、子供のやる気は「場当たり的」だから、それを親が導いてあげる必要がある。

しかし、その「導き方」が一筋縄ではいかないんだ。

子供が自力で「ほどほど」を知るには、まだまだ時間がかかるのだろう。










nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:育児

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。