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他人事 [雑感]

全てを他人事として考えることは効率がいい。

感情など排して、あらゆるものを等質に、フラットに、モニター越しに見るように、「客観的に」俯瞰する。

自分はCCDカメラであり、MP3レコーダーであり、記録されたデータは全てディスクに保存され、CPUが処理する。

主観を消し去って、膨大な情報を集約し、「大局的に物事を見る」

そういう才能に長けた人が、もてはやされ、のし上がり、尊敬もされる社会。

テレビで饒舌に語るその「頭のいい人たち」を見て、人々は自分や家族のことを中心に考えるのは、何か利己的で、恥ずべきものであるかのような不安を覚える。

「おまえも俺ぐらい勉強すればいつか出世できるよ」

そう言わんばかりの彼らが、唯一、絶対に記録も分析も相対化もできないものがある。

いや、むしろ積極的に評価しないように「除外する」対象がある。

それは、彼ら自身だ。

ビデオカメラがビデオカメラ自身を直接写すことができないように、人は自分自身を客体化することができない。

どれほどの言葉を尽くそうとも語ることができず、立ち止まって眺める事も、意思の力で心臓を止めることも、痛みを消す事もできない。

自分が一番よく分かっているつもりで、もっとも不可解なものが己の中心に居座っている。

この世に生まれて来たからには、人間の身体と意識の中でただ流れるがままに変化し、死ぬまで運動を続ける一つの「自然」。

しかし、そんな究極的に個人的な内面など、人を数字として扱うような社会にとってはどうでもいい話だ。

社会に出て、仕事をし、他人に認められ、より多くを稼ぎ、「世界と戦う」ためには、そんな正体不明の「神秘的な力」など邪魔にしかならない。

だから、まず人は、社会化するために、分別を身につけるために、根源的な「自己」を消す。

そして、その存在基盤を、より巨大で社会的なもの、例えば国家、宗教、経済などに置き換える。

またはより分かりやすく、「一流企業に勤めたい」「司法試験に合格したい」「ブランド品がほしい」「アイドルになりたい」と言った通俗的な目標を設定し、際限のない欲望を疑いも持たずに全肯定する。

そういった「移植」(ある種のロボトミー手術?)が完了してしまえば、あとは楽なのだ。

ぺらっぺらの表層的人格が織り成す資本主義のネットワークの中で利益を嗅ぎ回り、他者を押しのけてでも、「豊かさ」のためがむしゃらに泳ぎ切る。

その努力に全身全霊を傾ける。

その時「システム」は道を開き、「ご褒美」を与えてくれる。

それに比べれば自然の方がはるかに冷酷で無慈悲だから、人は「群れ」から外れることをためらう。

「群畜本能」に従い、生き残らんがために、その「ギャンブル」に参加する。魂を捨てて「勝つためのコツ」を身につけ、システムに組み込まれる道を選ぶ。

根源的な自我を消せば消すほど、社会はもう一つの「社会的自我」の方を認めてくれる。

そういった処世術が何世代にも渡って引き継がれる。

つまり、「父」も「母」も、だから「私」も、まるで呼吸から取り込むように、知らぬ間に「会社」は自分の一部になっている。

「自分」が「会社」でできている。

これは幸せなのか?

そう思わないでもない。

時折、自分の無意識に抑え込んだ「自己」が不安を呼び起こす。

それを振り切るために、テレビからネットから、「鎮痛剤」として流されるバラエティー番組の合間合間から、繰り返し刷り込まれる社会的「大義」(そして『絆』)。

何、放射能で病気になったって過労死したってかまうもんか、そこで死ぬのは俺というちっぽけな個人であって、俺の価値を証明するのは、俺じゃなくて「社会」と「歴史」の方だ。それに、死ぬのは俺じゃなくて「他の誰か」だろう?

この「前近代的」でマッチョな世界観、、、。

彼らにとってまず「他人事」なのは、他ならない「己自身」だ。


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