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憂さを晴らす [雑感]

バス停の駐輪場に自転車を停めて出かけた。

夜遅く帰って来て、暗がりの中遠目に見たら、

「サドル」がない。

「やられた」と思った。

というのも、その駐輪場には他にも何台かサドルのない自転車が放置されていたから。

近づきつつ「しょーがねーなー」と早々諦めて、「立ち漕ぎ」で帰ろうとしたら、後輪がガタつく。

空気が抜けている。

「え?パンク?いや、空気抜かれたか?」と思い、外灯の明かりで見ると、空気を入れるためのバルブ部分が丸ごとない。

瞬間的にひらめいた。

「これはいたずらだ。バルブはある。そこにある」

すぐ引き返して、自転車が停めてあった場所を見ると、案の定、地面にゴムとナットとキャップと3つまとめて落ちていた。

「ということは、サドルも盗まれてない」

なぜかそう直感して、駐輪場前の畑に目を向ける。

予言が的中したみたいに、それはやはり「そこ」に放り捨てられていた。

柵を乗り越えて、土の付いたサドルを拾い上げ、荷台に括り付ける。

空気が抜けて乗れない自転車を、トボトボと引きずりながら考えた。

「何なのだろう」と。

「何のために」こんなことするのだろう、と。

そいつがどんな人間なのかとかどうでもいい。

その歩道をおそらく夜中に通りかかった誰かが、またはバスを待っていた何者かが、ふと僕の自転車に目を留めたのだろう。周りには誰もいない。人通りもない。頭の中で「やるか?」とでも言ったようなおかしな欲望が芽生える。何だか分からないがムクムクと「この自転車を『台無しに』してやれ」みたいな気持ちが沸き上がる。

普通だったらフッと我に帰って、「いやいや、そんな馬鹿げたこと、やめとこう」と内なる声が静止するところを、「いや、待てよ、こんな夜中に何をくそまじめに考えてるんだ。俺の中の『衝動』になぜ遠慮する必要がある? 何で俺は、誰も見てないようなところで、そんなどうでもいい『他人の目』に躊躇しなけりゃならないんだ?なぜ迷う?えーい、ばかばかしい、この自転車のせいで、何で俺がそんなありもしない『道徳』に悩まなきゃいけない?こんな自転車なんかどうでもいいし、だからその『どうでもよさ』を証明するために、俺はやる。俺は俺が思いついたように、これを始末する。こんなもの、こうだ!」

思い付きからそう決意するまでおそらく一瞬だろう。スッと自転車に近づくと、カギでもはずすフリをしながらかがみ込み、後輪のエアバルブを手際よく取り外してばらばらと地面に落とす。そしてふっと顔を上げ、目の前に位置する締め付けレバーをゆるめると、立ち上がった拍子にでもサドルを引き抜いて、そのまま前方に放り投げる。

流れるような一連の動作。まるで熟練の技でも披露したかのような、何か異様な達成感に「誇らしさ」すら感じて、すっと背筋を伸ばして辺りを冷静に確認する。

任務は遂行された。そして、そのままその「余韻」に浸りながらバスを待つか、何事もなかったかのように立ち去る。

足早に歩を進めながら、あるいはバスの席に腰掛けて窓外の闇をぼんやりと眺めながら、今「己がしでかしたこと」に思いを巡らす。口元には笑みすら浮かんでいるかもしれない。

「何だ、何てことないじゃないか。まるで何も起きてない。ただ、何だか知らないが俺の気に食わなかった『どうでもいい自転車』のタイヤの空気が抜けて、サドルが外れた。それだけのことだ。何の感情も動かない。罪悪感もない。ただとにかく、俺は何かをやった。何か『やってはいけないとされること』を『やってやった』。そして『それ』は果たされた。誰にも何の迷惑もかけていない。俺でなければ、あの自転車は盗まれて『もっとひどいこと』になっていたかもしれない。自転車の持ち主? そんなこと考えることに一体何の意味がある?なぜ俺が、そんな見たことも聞いたことも、これから一生会うこともすれ違うこともないような人間の『気持ち』を察して、何よりも強烈に俺を支配する『俺の気持ち』の方を抑え付けなきゃならないんだ?俺はこの『クソみたいな世界』が決めつけた、『世間的に悪いと見なされること』に抵抗し、それを押し付ける無意味で嘘くさい『決まり事』をはね除けて、『俺』を、ただこの『俺だけ』を、今この瞬間に解放した。俺は『あいつら』に勝利した。そうだ、何だか分からないこの充足感は、日々この社会と他人やらに抑圧され続ける『どうでもいい俺』が勝ち取った『自由』の感得であり、落ちて行くだけの人生の刹那に神が偶然にも与えたもうた、一つの『恩寵』なのだ」

無意識は、どんなにつまらない人間の心の中でさえも、言語体系に比肩する秩序を持って流れる。

そして彼は、その心の機微の一切に気が付かない。

その意識にのぼるのは、ただ漠然と「何でもよかったが、とにかくやってはいけないとされる何かを達成した」という、ゆがんだ自我と欲望がもたらす、ゾクゾクとするような「爽快感」だけだ。

それが時に「犯罪」と呼ばれる。

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そして思う。

インターネットという無人地帯。

今日も、世界のあちこちで閉ざされた部屋。暇をもてあました職場。

スチール机に縛り付けられ、明滅するパソコン画面、スクロールする文字列を追う虚ろな眼差し。沈思し、また打ち続けられるキーボード

誰もいない。誰も見ていない。だからこそ自分の頭の中で無限に開かれた世界。

電脳空間をさまよいながら、「どうでもいい何か」を見つけては「どうでもいい自分」の「憂さを晴らす」。

ブログのコメント欄で、Twitterで、どこに行く宛もなく吐き捨てられる薄汚い言葉の数々。

そんな活動も、こと放射能に関しては、今なら国家の後ろ盾がつく。

国は「放射能危険デマ」をネット監視するための、一つの「鉱脈」を発見した。

積年の恨みは調停され、彼/彼女らは今やその独善的な憂さ晴らしに、国家的な「正義」さえも感じている。



降下した放射性物質の月別推移グラフ−2 [原発事故]

降下した放射性物質の月別推移グラフにまたケチをつけて来た人がいる。

まあそれはどうでもいいんだけど、

たしかにこの元グラフ(真ん中の対数グラフと実数グラフを継ぎ足したもの)は、

monthlyfalloutcomparison.jpg

どこの測定値を使ったのか明記していない。そしてグラフの上に「文科省のデータと若干違うので、次回は文科省のデータを使ってグラフを作ってみる」と書いてある。

では文科省のデータを使って実数グラフを作ってみよう。単位はMBq/平方キロメートルだから、単純にBq/平方メートルに換算する。

参考資料は以下。

文部科学省環境放射能水準調査結果(月間降下物) H23年3月分

fallout_march_2011.gif

文部科学省環境放射能水準調査結果(月間降下物) H23年4月分

fallout_april_2011.gif

この文科省データで作った実数グラフと元の引用先不明の実数グラフを比較してみよう。

cs137_fallout_tokyo_ibaraki.gif

なんだ、ひたちなか市3月分以外、たいして変わらないじゃないか。

3月の東京の降下量なんて文科省のデータの方が悪い。しかもセシウム134もヨウ素131も入ってない。

それに、文科省のデータの「3月分」には、3月12日原発爆発後から3月18日9時までの測定値は含まれていないと見られる。

ということは、3月15日の大規模フォールアウトは換算されていないのだから、元のグラフがそれを加味しているとするなら、決して間違ってはいないのではないか?

いずれにせよ、「大気圏内核実験」や「チェルノブイリ原発事故」の時の日本とは比較にならないほど「とんでもない量」の放射性物質が降り注いだことに間違いはないわけだ。

デマも風評も何も、この福島原発事故の原因も収束方法も被害の実態も何も分かってないんだから、僕ら一般人はいろんなデータを引っ掻き集めて「推測」するしかないわけだ。

だれも「これが真実だ」なんて言ってない。これも一つのデータに過ぎず、それを判断するのは各個人だ。

こういったグラフを見て、「この程度じゃガンは『統計学的に』増えない」と思える人はそう思えばいい。

心配しなくても、「確率論的」には、放射能が原因で「ガンにならない人間」の方がはるかに多いのだから、「全体的に見れば」安全派が勝利するのは確約されている。

それに「ガン以外」のどんな病気になっても、放射能との因果関係なんて証明されないだろう。

だからもし「自分」や「自分の子供」がそうなった時には、一人さびしく、孤独に、死ぬまで、その病気とお付き合いしていくだけだ。

「どうせ人間は放っておいたって病気になって死ぬんだ」

そう思う人は、1万ベクレルだろうが10万ベクレルだろうが、どうでもいいから、食べ物も子供の未来も何も気にせず好きなように生きればいいと思う。

原子力防災と低線量被ばく [原発事故]

原発災害避難拡大 対象の島の住民8倍に(NHKニュース 2月2日 18時58分)
原子力災害が起きたときに避難の対象となる範囲の目安が半径30キロに拡大されたことで、対象に含まれる島の数が大幅に増え、対象となる住民の数は従来の8倍の3万2000人余りにのぼることが、各地の自治体への取材でわかりました。避難に使える船などが十分になく、一斉に避難することが困難な島もあり、防災の新たな課題となっています。
北陸電が「原発安全授業」 金沢の高校で昨年12月(しんぶん赤旗 2013年2月3日)
福島の人、とくに老人はそこに住んでいればよかったのに、移動・移住したからストレスや環境の変化で体を壊した」

こういうニュースを見ると、何だか原発事故起きても30km圏内から避難すれば何とかなるし、仮に避難できなかったとしてもストレスの方が問題だから、場合によっては避難しなくてもいい、その程度だから「次に何か起きても心配するな」と言っているかのようだ。

しかし、もし放射能被ばくのもっとも大きな影響が爆発直後のサブマージョン核種を含む放射性プルームの吸気による内部被ばくによってもたらされるとしたら、そもそも原発事故から「逃げる」ことなどできるのだろうか?

原発が爆発すれば、放射性プルームはあっと言う間に拡散するわけだし、それを避けるために屋内退避を呼びかければ、逆にパニックが起きて、膨大な数の人間が渋滞に巻き込まれたりして身動きが取れなくなり、逃げるどころかその猛烈な放射能雲の中に突っ込んでしまうかもしれない。

それに今回の福島原発事故だって、30km圏外どころか、300km圏で数千万人が被ばくしたじゃないか。

それがいつのまにか「何もない」ということになっている。

原子力規制委員会が作成している防災指針みたいなやつも、とりあえず原発立地数km圏内の住民の急性放射線障害さえ回避できれば、それ以外の数百km圏内の人には、もう事故が起きたら「被ばくしていただく」ということなのだろう。

つまり「低線量被ばく」は完全にないものにされている。

もしそれによって健康被害が出るなら、「原発事故からは逃げられない」ということになって、原子力「防災」そのものが破綻して、原発は動かすことができなくなってしまう。

低線量被ばくが認められないのは、それが原発の根本を否定しかねないからだ。

動かすために、ないものにする。

ということは、そこには絶対に「何かある」と見ていいだろう。




カリウムとセシウム [被曝]

体内にカリウム40という放射性物質があってそれで内部被曝してるから、ちょっとぐらいセシウム食ってもも恐くないみたいな話を聞く。

例えば、

日本原子力文化振興財団発行「エッ!こんなところに放射線」

こういうのを見ると、

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カリウム40という自然放射性物質は、ふつうのカリウムに0.0117パーセント混在している。

1日に白米300グラム、魚、牛肉、牛乳、ホウレンソウを各200グラムずつ食べると仮定すると、1日に約100ベクレルのカリウム40を食べる。

人間の体の中には自然由来の放射性カリウム40が、67ベクレル/kg、成人一人60kgの体内におよそ4000ベクレル存在していて、その体内被曝線量は、年間約0.2ミリシーベルトになる。

大気圏内核実験が行われていた1960年代中ごろでは、1人1日分の食事の中にストロンチウム90は0.5ベクレル、セシウム137は1~2ベクレルほど入っていた。

1996年の調査では1人1日分の食事の中には、ストロンチウム90とセシウム137がそれぞれ0.05および0.04ベクレルという水準だった。

人体内セシウム137の量は、1960年代には一人当たり500~600ベクレルにも達した

核実験の頻度が激減したのにしたがって、体内量も減少、一人当たり20ベクレルくらいのレベルが続いていたが、1986年チェルノブイリ事故の直後に少し上昇し、体内量が60ベクレルまで高まった

現在は、再び20ベクレルに戻っている。

現在でも私たちは、毎日セシウム137を約0.19ベクレルほど食べている。これによる被ばく線量は、年間0.9マイクロシーベルトくらい

体内にあるセシウム137のレベルが、各年代の食物に含まれるセシウム137のレベルの増減によって変わるのは、人体への吸収もよいかわりに、体外への排出も比較的早いから。

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などなど。

一体何を言いたいのか? という感じだ。

人体内に自然に存在する放射性カリウムは、大人で4000ベクレルで安定している。入ったら入った分出て行く。何百万年と時間をかけて、身体がそのように作られたということだ。

そこに人工放射性核種のセシウムが、60年代だったら500ベクレル上乗せされて、原発事故前でも20ベクレルぐらい存在していた、と言いたいのだろう。

それなら、福島原発事故で、そこにさらに「上積み」されるわけだ。

それに1ベクレルというのは放射性物質1個が1秒間に出す放射線の数だから、半減期が違えば、1ベクレルに含まれる原子核の個数も変わってくる。

セシウム137の半減期は30年で、カリウム40は12億年だから、

セシウム137は1/40000000の個数で、カリウム40と同じベクレル値になる。

1ベクレルのセシウム137の個数は、1ベクレルのカリウム40の1/40000000になる。

だから10億個のセシウム137原子は、10億個のカリウム40原子の40000000倍の放射線を出す。

放射能安全派は、放射性カリウムと放射性セシウムを「全く同じもの」として扱いたいようだが、

これは「同じ」なのか?

まあ百歩譲って、1ベクレルのセシウム137と1ベクレルのカリウム40は「同じ放射線量だ」とする。

(馬鹿げているが、『同じ放射線量だから、同じ1ベクレルで、同じ影響を身体に与えるであろう』と人間が決めただけの話だ)

ではそれでその放射性セシウムについて、ベクレル値以外も「全て」分かっているのか?

そんな量子論的な雲のような存在をつかまえて、「カリウムとセシウムは一緒だ」なんて断言できるのか?

何となく似てるし、漏れて吸い込んだセシウムどうすることもできないから、「似てるということにしよう」ってだけだろう。

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人間の身体なんて、人智を超えたところでバランスを保つ、一つの宇宙のごとき有機体じゃないか。

カリウム40が出す放射線に対しては、DNAの自己修復機能が働くとして、そこに「異物」として原子レベルで入り込んだセシウムを、その免疫系統が何事もないかのように処理するなんて、どうやって分析するのだ?

単純に「分からない」だろう。

「分からないから、何も起きないということにしよう」と言うなら、それは科学でも何でもなく、ただの「行政判断」だ。

放射能安全派というのは、国だ経済だ安全保障だとでかいことばかり言って、とにかく「人間の身体」をなめてると思う。


以下参考サイト。

カリウム40による内部被曝との比較による安全デマ

自然放射線を理解する ―私設原子力情報室

セシウム137とカリウム40 ―私設原子力情報室

放射性カリウムとその意味を考える

煙草1本の被曝量はバナナ20kg分?

これから「大変なこと」は起きるのか? [原発事故]

放射能危険派の人は言う(まあ、妻も時々言うが)。

これから「大変なことが起きる」と。

では、何をもって「大変なこと」とするのか?

それは例えば「ガンや白血病患者が急増する」とか「人口が激減する」とかだろう。

実際そう断言している人もいる。

しかしながら僕は、このブログで何度も繰り返しているように、「福島はチェルノブイリ以上の被害は出ない」という立場を取っている。

では「大変なこと」など起きないと思っているのか?

いやまったく逆で、「大変なことが起きる」と思っているからこそ、関東から全てを投げ捨ててでも避難したわけだし、どう言い繕おうが、その避難という行為によって、「放射能は低線量でも危険だ」という自分の考えを十分すぎるほど表明してしまっている。

だから、そんな風に「避難した人」を見て、「避難しなかった人」はこう思うだろう。

「ははん、あいつ、口では『福島チェルノブイリよりたいしたことない』とか言っているが、頭の中では『関東でも数年後に人がバタバタと倒れる』『子供が次々ガンになる』とでも思っているんだろう。大げさな。そんなことが起きるなら、今頃福島ですでに急性放射線障害がチェルノブイリ並みに何千人も出てるわ。それすらないのに、東京健康被害が急増するなんてあるはずないだろう」

こう考える人たちは、「大変なこと」など絶対に起きないと思っている。

なぜなら、ある人にとっては(そして日本の大半の人々にとっては)、「大変なこと」はイコール「隣近所でバタバタ人が死ぬ」とか「子供が次から次へと甲状腺ガンを発症する」とか、「今、ここで、目の前で、大量に」何か起きることであり、そうでなければ、それ以外は全て「たいしたことない」思うのだ。

(そういう意味では、原発由来の放射能でDNAが破壊されるよりも、中国の大気汚染でゲホゲホと咳が出ることの方をずっと恐ろしいと感じている)

ところが、僕の考える「大変なこと」はそうじゃない。

もっとずっと静かに、長い時間をかけて、事態は進行して行くんだ。

人は徐々に、「健康を害して」行く

多くの子供が成長するにつれ、「不健康」になって行く。

多くの労働者が、「体調不良」に悩まされる。

しかも、それは明白なものではない。

何かがおかしい。どこかがおかしい。医者にも何だか分からない。

「気のせいだ」「ストレスだ」で片付けられる。

だから、無理してでも普通に生活する。しかし、一向に「具合は良くならない」。

周りを見ても、健康な人はピンピンして、相変わらずの生活を楽しんでいるし、テレビでは変わらぬ娯楽番組が流れ、街は買い物客で賑わっている。

誰にも言えない。何も原因は分からない。

そもそもある程度の年齢に達すれば、皆何らかの身体的な「不調」を抱えていて、「健康」を維持することがどれだけ難しいかということは分かっているはずだから、それが「どんどん悪化する」ことの恐ろしさなど、簡単に想像できるだろう。

(おそらく、僕が考える放射能由来の『健康被害』のもっとも恐ろしい部分は、どうがんばってみても『一旦生じた体調不良から抜け出せない』ということだと思う。ところが多くの人は、セシウムでちょっと具合が悪くなっても、医者にでも見てもらえばまるで風邪から回復するみたいにたちまち元通り健康になれると思っている)

しかしながら、そんな人が一人増え、二人増えして、やがて数十万人、数百万人、数千万人に膨れ上がったところで、何かが変わるだろうか?

変わるはずがない。

こと放射能に関して言えば、何が起きても「ガン以外は全て健康」と見なされるのだ。

その軽微な「体調不良」を「大変なことの兆候」として認識できるなら、「大変なこと」は「これから起きる」のではなく、今現在「すでに起きている」だろう。

それにだいたい、原発事故と関係なく、もともと日本中「具合の悪い人だらけ」だったのだ。

それは今後「確実に」増える。しかし原発事故以前から、ほとんど全ての疾病率は増加傾向にあるのだから、それが統計上2倍になろうが10倍になろうが、生活習慣のせいになるだろうし、「原因不明の不健康」など激増しても統計に出てくるはずもない。「ちょっとぐらい具合が悪くても」、明確な病気を発症するまで、多くの労働者は自分にむち打って黙々と働き続けてきたのだし、これからもそうなるだろう。

だから原発事故を起こした日本は、これから膨大な数になるであろうその「不健康な人間」を切り捨てて行くことに決めた。

放射能の影響によるそんな「確率論的に不幸な人間」が増えても、補償など必要はない。

それどころか全く逆で、ぶっ倒れるか鬱病になるかするまで働かせて税金を巻き上げ、病院に送り込まれたら医療費を搾り取り、ガンになったら外資系の製薬会社と組んで抗がん剤で一儲けし、それで早死にしてもらえれば年金も払わなくて済む、と考えている。

そして「全体として」健康な子供が何割か存在し、「全体として」ある程度の労働力が確保され、「全体として」日本の経済が回って、とにかく支配者層の利益がグローバル資本主義の中で優先的に確保されれば、それがすなわちこの原発事故の最善の解決策であると判断した。

そう「そろばん勘定」したのだ。

「大丈夫だ。たいしたことない。放射能など気にすることない」、今そう言っている人の半数が20年後に病気になったところで、残りの半数は相変わらず「何も起きなかった。放射能たいしたことない」と言い続けているだろう。

日本が世界の核廃棄物最終処分場になって田舎の半病人がみな原発労働者になろうが、幸いそうならずに済んだ「都会の健康な人」は、「明日は我が身」など露程も思わず、NHKのインタビューに答えてこう言うのだ。

「いや、放射能なんて全く気にしてなかったけど、子供含めて家族全員未だに健康そのものですよ」

そんな「ラッキーな人間」だけ掴まえて全国放送で流せば、「福島原発事故では何の健康被害も出なかった」と簡単に日本中、世界中を納得させることが出来るだろう。

つまり、「全体として」言えば、「大変なこと」など永遠に起きないのだ、、、。

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それでもやはり、今も心のどこかでは、考え難いが、僕の予想を裏切って、全てがひっくり返るような『とんでもないこと』が、この先起きる可能性は0ではないとも思っている。

だから、そのための備えは、あくまでも「個人的」なこととして、粛々と遂行していくつもりだ。



何もかも放射能の影響にするのはおかしい [雑感]

そう人は言う。

では「何の」影響なのか?

大気汚染、環境ホルモン、ストレス、遺伝?

その何らかが「影響」しているなら、「放射能が影響」したっておかしくないだろう。

どこが「おかしい」のか?

結局、そうやって「放射能のせい」と言ってしまうと、

放射能=原発事故=原子力=経済=利権=核=安全保障

といった、個の力では太刀打ちできないような巨大なシステムとの関係を抜きにしては語れなくなるし、

その「権力」が、

「大丈夫、何もない、安心、安全です」

と言うのに逆らって、

「嘘付け!おまえらの金儲けのために俺ら犠牲にするつもりだろう!」

などと叫んだところで、

「はあ?その『権力』を選んだのはおまえら国民だし、その『権力』の庇護の下におまえらの生活があるんだろう?おまえらの電気のために原発が爆発したんだから、ちょっとぐらいの犠牲我慢しろ!嫌なら日本から出てけ!」

と恫喝されるのがオチだろうから、

「もう、どうすることもできない!考えるのやめよう!もう無理!」

と頭の中の戦いに敗れて、「国民」としての腹を決める。

あれだけの核事故が起きたのだから、何もかも放射能の影響ではないか?と疑うのは、「人間として」当たり前の推論ではないか?

だから、こう言うべきなのだ。

「『人として考えれば』何もかも放射能のせいと考えるのは間違ってない。しかし『国民として考えれば』何もかも放射能のせいにするのはおかしい」

と。

「国民」ねえ、、、。

その単語をどう捉えるかだろう。

それを人間社会に生きる限りは受け入れざるを得ない必然的な義務と捉えるか、権力が大衆を心理的にまとめ上げるためにでっち上げた虚構と見るか。

(口にする言葉の端々に、『思考の根っこ』が、氷山の一角みたいに顔を出す)





通りすがりの論理 [雑感]

反原発系ブログのコメント欄を見てると、いわゆる「荒らし」とは微妙に異なり、「通りすがり」と称して、「原発推進論・容認論」「放射能安全論」を妙に「真面目に」展開する人間がいる。

最初は「いずれ原発は段階的に廃止すべきですが」とか「あなたのおっしゃっていることは分かりますが、僕の話も聞いてください」みたいに、礼儀正しく切り出してくる。

そして「感情的にならずに、論理的に考えれば、、、」と話が進み、「原発を止めれば電気代が上がる」とか「国内産業が空洞化する」とか「CO2が」とか、あるいは「戦争よりも原発のリスクを選んだ」とか、もっともらしい、そして聞き飽きた「理由」を一通り展開する。

アルバイト工作員なのか単なるおせっかいなのか分からないが、もしかしたら顔が見えないのをいいことに、適当に反原発を「とっちめて」憂さ晴らししてるだけなのかもしれない。

「また工作員か?」「何でわざわざこんなところでコメントするんだ?」と誰かが突っ込む。

するとだんだんくだけた調子になって来て、

「こっちが『議論』しようとしているのに、人の話を聞こうともしない。工作員でも何でもないのに見ず知らずの他人を『安全デマ』とか『バカ』とか口汚くののしるような人間に、反原発などできるはずがない」とか「あなたたちは(と誰か一人の発言を十把一絡げにして)、いつもそうだ。こっちが『論理的に』話そうとしてるのに、すぐ感情的になって、まともに議論もできない。このブログはためになるが、コメントをしてる人間は程度が低い。カルトだ」とか、罵倒し始める。

そういうブログ荒らしのマニュアルみたいなのがあるのだろうか?

この手のコメントはあまり前後の文脈など関係なく、ふと思いついたように書き込まれる。

おそらく彼らはブログ自体をまともに読んでいないし、何か気に入らない記事を探し出して、機械的に突っかかってるに過ぎないのだろう。

だから「通りすがり」と名乗るわけだ。

ちょっと通りかかってチラ見しただけだが、「俺は頭がいいから」あっと言う間ににその主張の「論理的な間違い」を見切ったので、老婆心からそれを親切に指摘してあげているつもりらしい。

「あなたが反原発であるのはただ『感情的に反発しているだけ』だから、私のように『論理的に』『総合的に』『全体として』判断すれば、放射能なんてそこまで恐がる必要はないし、『全原発即時廃炉』なんて非現実的、分かるでしょう?」

そんな「正しいのは常に俺だけだ」みたいなぶしつけな一言で「議論」が成立するはずもないから、やがて罵り合いはエスカレートする。

まったくの一方通行で、「インタラクティブ」とはほど遠い。

結局ネットの「ヴァーチャルな」コミュニケーションなど幻影で、最初から破綻してるのだ。

現実世界で、あいさつもなしに瞬間的な言葉のやり取りでもって「事態が動く」ことなどないだろう。時には向かい合った相手の「感情」にも配慮した「気遣い」や「言い方」が、話の内容以上に重要になる。

そして、ブログというのも、ある意味、一つのコミュニティーみたいなもので、そこにはブログ主と同じ思い、「感情」を共有した人々が集まっているわけで、コメントする人たちの間には、時間をかけてそれなりの「空気」みたいなのが出来上がってくる。

彼らが気に入らないのは、その馴れ合いの感情的な「空気」なのだ。

気の合う仲間同士集まって何が悪い?と思うが、彼らはそれが許せない。

なぜか?

彼らはおそらく、ネット空間と自分の脳内空間を混同してしまって、ネットを何か、「論理と客観性のみで構成された知的理想郷」のように、自分の思考様式に合わせて都合よく解釈している。

だから、その自分が考える通りに、ネットはあらゆる対立する意見に対して平等に開かれていなければならない。

「閉じたコミュニティー」を作ることはその理念に反する。すべてはオープンに、感情を排して、明確な言葉でやり取りされなければならない。

そうすれば、現実世界と比べ物にならないぐらいのスピードでお互いを理解し、やがて万人にとって最適な真実に至るはずだ。

そうだろう?俺のどこが間違っている?

「それなのに、、、」と彼らは言う。

「それなのにこいつらと来たら、コソコソと徒党を組んで、陰で一方的にただ感情で原発の悪口言って、放射能デマ垂れ流しやがって、おまえらみたいなのが逆に健全な段階的脱原発をはばんでいるんだ。それに普通の人(あるいはB層)が読んで不必要に不安になったらどうするんだ? おまえら何も分かってない。ブログ主だって本当は俺と同じ『正しい情報』を望んでいるはずなのに、このままじゃダメになってしまう。だから、俺が言わなければ、、、」

奇妙な正義感に駆られて、その実ただ「俺」を押し付けんがために、一方的に「説得」しにかかる。

当然誰も耳を貸さない。

なんでおまえらは俺の言うことが分からないんだ? おまえらはバカか? 論理的に物事が考えられないのか?

そしてぶち切れ、ストーカーじみた攻撃を執拗に仕掛け始める。

おいおい、と思う。

そんな「開かれた世界」、おまえのその「閉じた頭の中」にしかないだろう。

世界中が俺の頭の中に入って、俺の論理で話が通じれば、この世界は全て丸く収まる、とでも言いたいのか。

(ネットを介して、俺の頭とみんなの頭が論理でL.C.L.みたいに溶け合って、か? 人類補完計画じゃあるまいし)

だが、むしろそれは言い訳に過ぎない。主たる目的は「気に入らない相手の怒りを引き出して、それを根拠に己の憂さを晴らすこと」なのだから、そのために当の自分をも欺く「猿芝居」を打って、最初から開くつもりもない議論を一方的にふっかけてくるのだ。

(悲しいほど非生産的なニヒリズムだが、ある種の自傷行為と同じで、絶望の際で生を確認しているのだろう)

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ところで、この自己完結型の「論理」は、官僚や原子力推進派の思考と似ている。

現実に原発が爆発してなお、頭の中の「安心・安全」を胸を張って振りまくことができる彼らは、ネットどころか「この世の通りすがり」なのだろう。





放射能は運命を狂わせる [被曝]

原発避難の男性、都内で孤独死…死後1か月
東京電力福島第一原発事故で、東京都江東区の国家公務員宿舎「東雲しののめ住宅」に避難していた福島県郡山市の無職男性(49)が孤独死していたことが、都などへの取材でわかった。男性には持病があり、病死とみられる。(2013年1月31日07時46分 読売新聞)

このニュースに対してのコメント欄で興味深いやりとりがあった。
11年11月末に自主避難してきた それまでずっと被爆していたんだよね。何の病気で死んだんだろうか?
投稿記事に「男性には持病があり、病死とみられる。」と書いてありますよ。「持病」なんだから、放射能の影響ではないでしょう。「放射能障害」なんて持病はないと思うが。どんな詭弁を使っても、何とかして放射能の影響に結び付けたいらしい。そろそろ諦めたらどうでしょう。
持病があるなら当然、放射能吸い込みによる持病の増長が考慮されるべきですよ。 死の灰と呼ばれるものが日本全域を襲っているのですからね。
それでは、その孤独死された人が、実は放射能障害のためであると言う診察結果があるんですか。それなら、持病で死んだ人は、皆、放射能吸い込みで死んだと言うことになる。その人の死に、放射能がまったく無関係とは言えないと私も思う。0.0001パーセントくらいはその人の病気を後押しして死に至らしめたことはあるかも知れない。持病で死ぬ時期が放射能のために0.001秒ほど早まるなどと言うことは、絶対に無いとは絶対に言えない。だからこの人も放射能で死んだのだ。そう言うことが絶対に出来ないとは、絶対に言えない。

ここで難癖を付けている人は、前も似たような「健康被害」の話題に対して、似たようなケチをつけていた。

以下。
では、中村勘三郎さんも、小沢昭一さんも、放射能の犠牲者ですね、小沢さんは前立腺ガンだったそうです。それは事実だが、その死にいたる最後のひと押しが放射能だったかも知れない。原発事故がなければ、あと0.01秒くらい長く生きていたと言えないとは決して言えない。笹子峠のトンネル崩落事故も、放射能の影響が全くないとは言い切れない。放射能のチリの重さが最後のひと押しになって、天井が落ちた。原発事故が無ければ、崩落するまであと0.01秒くらい持ちこたえたかもしれないということが、絶対に言えないとは言えない。お互いに気を付けましょう。

これに対するコメントが面白かった。

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この人は「時間」感覚や原因・結果の関係を正しく認識できない病気、障害でしょう、興味深い。

> 天井が落ちた。原発事故が無ければ、崩落するまであと0.01秒くらい持ちこたえたかもしれないということが、絶対に言えないとは言えない。

→崩落が遅くなったとしても別の人が犠牲になるだけです。

> 中村勘三郎さんも、小沢正一さんも、放射能の犠牲者ですね、小沢さんは前立腺ガンだったそうです。それは事実だが、その死にいたる最後のひと押しが放射能だったかも知れない。原発事故がなければ、あと0.01秒くらい長く生きていたと言えないとは決して言えない。

無意識のうちに放射能を「最後(最期?)のひと押し」と限定しているのかもしれないが、「最初の」や「途中の」放射能の影響を認知できないのだろう。だから0.01秒しか長生きできないと思ってしまうのだろうね。
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僕はこの「『最初の』や『途中の』放射能の影響」がずっと気になってたのだが、今日、何となくその意味することのイメージをつかめた。

つまり、多くの人は、放射能の影響を何か「定量的に」考えているんだと思う。

普通の物理法則と同じように、致死量にさえ至らなければ(例えば100ミリシーベルト以下の被ばくであれば)、何も起きないか、起きたとしても「ほんの少しだけ」(例えば0.0001%)、ガンが増えるとか死ぬべき人の死期が早まるとかしか考えてない。

このケチつけてる人も「放射能のチリの重さ」とまるでその物理的な「質量」が原因であるかのように表現している。

ところが、実際の放射能の影響は、この0.0001%の影響が、「量子論的に」(つまりロシアンルーレットのように)、あらゆる人に現れる可能性があるんだと思う。

つまり、持病や元々の因子に対して「最後の一押し」をするのではなく、健康な人への「最初の一押し」となって、あらゆる病気を発症させる可能性があるのだ。

内部被ばくが深刻になると、放射線が体内の水と局所的に反応してヒドロキシラジカル(=活性酸素)を過剰に生成する。それを抗酸化酵素が分解することができなくなれば、細胞内小器官(ミトコンドリアや小胞体・ゴルジ体)が損傷し、様々な病気を引き起こす。

また放射線や、細胞核内で発生したラジカルがDNAと結合してDNA鎖を切断した場合、二重らせんの一方だけであれば、DNAポリメラーゼが修復するが、同じ位置で2本のDNA鎖が切断されると異常DNAとなり、それがガンの「出発点」となる。

これが放射能の健康被害に「閾値無し」ということだろう。

その人の生活習慣とか因子に関係なく、原子レベルの不可知の領域で身体に影響を与える。だから、細胞分裂の盛んな子供や妊婦は絶対に被ばくを避けなければならない。

放射能がその運命を狂わせるからだ。