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「遊ぶ」ということが意味するもの [育児]


僕が子供と遊んでいると妻が「不機嫌」になることがある。

しかし逆に自分のことを考えると、妻が子供とべたべたしていれば何か近づきがたい感じがして「ちょっとあんまりくすぐったりばっかりしないでよ」みたいに苦言を呈して自分の仕事をやってることもあるのだから「お互い様」という感じもする。

妻にとって子供と「遊ぶ」ということは「親密になる」みたいな感じなんだと思う。

だからチューしたりくすぐったりばかりして「二人の世界に閉じこもる」。

これが「遊び」であるならそこには誰も入れないし、父親だって仲間外れになるから「もう赤ちゃんじゃないんだから」みたいにチクリと言いたくもなる。

父親にとって「遊ぶ」ことは子供を「外の世界」に開かせてあげることだから、「ごっこ遊び」や「工作」や「連想ゲーム」をやっているし、その時僕は「言葉」を多用する。

それは「ゲーム」だから参加自由だし、「家族以外の他者」だって一緒にできる「遊び」だ。

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だから僕の「遊び」と妻の「遊び」は相容れない。

妻が「遊んでる」時には僕は「面白くない」わけだから、妻にしてみれば、

「私が遊んでる時あなたは不機嫌なんだから、私もあなたが遊んでる時に不機嫌になって何が悪い?だから私だって勝手に自分のやりたいことやる」みたいな認識になるんだと思う。

一見これは「正論」で「対称」に見える。

だけど「二人だけの世界」に父親は入れないが「ゲーム」なら母親は参加することができる。

だから「平等」を求めるなら母親が「譲歩」するしかないように見える。

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しかし考えてみれば「母親が子供とくっつきたい、一体になりたいという感覚」は、かつて自分の体の中で子供と一体だった「母親固有のもの」だと思う。

父親はその「一体感」に対する欲求そのものがない。父親は生物学的に出産など不可能なのだからそんなものあるはずがない。

つまりこの父親と母親の「遊び」に対する「認識の非対称性」の根拠は「生物学的な非対称性」にあることになる。

いつも思うのだが、子供の出自についてここまで「さかのぼられる」と男は何も言えなくなる。

(ここまで『遡行』して育児分担してるのは家だけのことなのだろうか? 例えば僕は『皿洗い』や『おむつ洗い』についても『こんなこと出産に比べれば屁でもないんだ』というある種『原罪』にも似た『負い目』を感じながら粛々とやっていた。しかしこのあいだたまたま『父親3人だけ』で飲んだ時、他の二人が『俺なんて生まれてからずっと子供の風呂入れてるんですよ』とか『子供の送り迎えは必ずやる』みたいなことをいかにも『育児貢献してる』かのように満足げに話していて『ええ!?』と思ってしまった。『うそ?そんなことで評価してもらえんの?だって出産してないってことは借金1000万背負ってどんなに家事やっても50万ぐらいしか返せないようなもんですよ?』と訴えたが『はあ?』という感じだった)

男は『出産』によって返済し切れない負債を抱えてしまった。

しかし子供とは触れ合いたい。

そのために「ゲーム」とか「言葉遊び」という手段は有効だし、実際子供はそういう「遊び」が「大好き」だ。

それに母親とくっついているだけでは飽きてしまうだろう。

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するとある時点で子供と両親の関係の持ち方の「比率」が少しずつ入れ替わっていくんだと思う。

最初は子供は「母親とおっぱいで結びついている」から父親は泣いてる時に抱っこ変わってあげるぐらいしかできない。

だけど子供も成長して言葉を覚えて、幼稚園、小学校と上がっていくと、「社会性」を身につけるために「ゲーム」や「言葉遊び」が必要になるし子供もそれを楽しむようになる。

この「ゲーム」とか「言葉」というのをある種の「男性性」と考えてみよう。

(人にももちろんよるだろうし、論理的思考が得意な女性とかくっつきたい父親だっているだろう。だけど『父親は出産できない』という非対称性は以前として残るから、それを埋め合わせるために『論理』や『言語』に価値を見出す思考を『男性性』と仮に考える)

するとこの「移行期」において、母親は「おっぱいをあげて満足する」とか「くっついて安心する」みたいなスキンシップによるコミュニケーションから「頭脳的コミュニケーション」にシフトして行く必要に迫られる。

父親は「待ってました!」とばかり「ほら見てみろ、どんどん俺になついていくぞ」と得意になってその「ゲーム」や「言葉遊び」や「スポーツ」をやるかもしれない。

ここで母親が劣勢に立たされると「ぐぬぬ、負けるものか」と今度は「教育」にエネルギーを注ぐようになる。

あるいはこのタイミングで母親は自分を見失って「育児ノイローゼ」や「うつ」になるかもしれない。

その移行期の迷いや不安から目をそらす救済措置が、親子共々資本主義の競争原理に組み込んでいくための「早期教育」で、だからその意味でそれは子供のためというより「母親の父親化」のための下準備なんだと思う。

父親が仕事で「不在」なのだから、母親がやるしかないだろうという考えもあるし、「教育」を通じて「母性」を抑圧して、母親を「社会化」する意味もある。

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ここで僕には一つの疑問が湧く。

つまり、人間の生命を根源的に突き動かしているエネルギーの証である、あの「一体感」はどこへ行ってしまうのだろう?と。

それは「早々」捨て去られるべきものなのだろうか?

たしかに生まれて来た赤ん坊は、いくら母親と一体だったからと言って、母子二人の世界に閉じこもって生きて行くことはできない。

人は社会化されなければ生きて行けないのだから「社会」だって人間生命の一つの表れなのだ。

だけど子供にとって母親が与える安心感は何者にも代え難いものだろう。

人は子供から大人になる。

そこには「移行」がある。

だから、その「移行期間」をどう過ごすか?なんだと思う。

そこではもちろん夫婦の間でも、子供との間でも、衝突があるんだと思う。

母親が子育ての全権を握ったり父親が暴君のように振る舞ったりするのは、その「衝突」を回避する(生じないようにする)ための古い家族モデルなんだ。

親は「自分たち固有の問題」に向き合わずに、理想やマニュアルに振り回されたり逆に家父長制に閉じ込められたり、それでがんじがらめになって怒りを爆発させたり子供の不満を無理矢理抑え付けたりするんだけど、最後のしわ寄せは子供に行く。

そしてその「ツケ」は必ず将来子供が成長した時に「反抗期」として帰って来るだろうし、最悪生涯に渡ってアダルト・チルドレンや人格障害といった症候として現れる。

それは「復讐」であるからより取り返しのつかない手ひどいダメージを親はくらう。

なぜ問題を「先延ばし」するのだろう?

夫婦も子供も早いところ「衝突」して話し合う習慣を身につけた方がいい。

そして一緒に遊び、笑う。

民主的な家族を目指すとはそういうことだ。








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