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反原発を勧めるための覚え書き [被曝]

人は他人に言われたことをやるのが嫌なのだ。

人に指示されたくない。

それは大人も子どもも一緒で、

例えば3、4歳の子どもに「○○ちゃん、お片づけしなさい!」なんて言おうものなら、

素直に片付けるどころか、とたんにぶっ散らかしたりする。

(この場合、命令した方が悪いのに、それに歯向かった子どもを『しつけ』と称して引っぱたいたりさらに激昂して『服従』させる人がいる。そして無理矢理『良い子』に仕立てるわけだが、その鬱屈した『恨み』が10年後思春期に家庭内暴力として爆発することもある)

例えば妻が夫に「これ片付けてよ」とか言う。

夫が「今やるよ」と答えていつまでもやらない。妻がキレて「ちょっとさっきから何回も言ってるでしょう?何でやらないの!?」なんて言うと、「あああ!だから今からやろうと思ってたのに!もうやる気なくなった!」と夫の方が逆切れする。

おかしな話だ。

おそらく自分1人だったら、気が向いた時にすんなり片付けて、それで終わりだろう。

「命令された」というだけで、まるで自分が操られているような気になって、それで「やりたくなくなる」。

逆に、「自分から始めた」ことはいつまでも徹底的にやったりする。

そんな時に、「いつまでやってるの!こっち手伝ってよ!」などと怒鳴られたりしたら、今度は「絶対にやめない」。もうたいしてやりたくもないのに、ひたすらに「やめない」。

こうなってくると、もう「やりたい」とか「やりたくない」とかの主体的な意志の問題よりも、ただ他人に対して自分の「自律性」を示すために「意地を張っている」だけとも言える。

ある意味「かすかな自由」を感じているんだと思う。

だけど、こういう小さな意地や反抗が、意外に自分の一生の傾向を決めることだってある。

「あの時あの人にこう言われたから今の自分がある」なんてそういう例だと思う(たぶん、『占い』なんかも、親とか夫とか言われるのではなく、『第三者の助言』であることが重要なのだ)。

そうやってずっとさかのぼっていくと、「自分のやりたいこと」なんて、元々どこからやって来たのか、結構曖昧だ。たまたま何かの拍子に自分の中に入り込んだ「他人の欲望」だったり、反面教師と思いながら、結局一番大きい影響を与えているのが自分の親の価値観だったりする。

だからみんなアイデンティティーに悩む。だって、「自分の意志」なのか「他人が自分に望んでること」なのか、そんな区別なかなか付かないからだ。

いずれにせよ、そんな意志の混濁状態があって、「人に言われる」とか「人に指図される」なんて言うのは学校や会社の中だけで十分だから、それ以外の日常では、できれば何でも「自分の意志」で始めたい。

それが「正しい」とか「正しくない」とかよりも、「自分で始める」ことが重要なのだ。

だから、例え「放射能を気にする」ということが「正しい」ことだとしても、それを「他人から主張される」と、

自分がそれを知らなければ知らないほど、人から「自分と子どもの命にかかわることなのに、おまえはそんなことも知らないのか?」と言われて、バカにされたような気分になる。同時にそれを知らなかったせいでまるで「君たち死ぬよ」と告知を受けたような感じになる。

カチンと来て、何とか「今までの無知な自分」を正当化して「自分を立て直そう」とする。「放射能は危険」と御丁寧に「教えてくれた」「上から目線」の相手の「あら探し」を始める。すると案外簡単に「自然放射線と変わらない」とか「レントゲンと一緒」とか「体内カリウム4000ベクレル」とか「バナナ食って内部被ばくしてる」とか、反論に持ってこいの素材がテレビから新聞からうじゃうじゃ見つかる。それにどうも「死ぬのは10万人に1人ぐらいで、他の死因と区別がつかない」らしい。

「なんだ。思ったよりたいしたことないじゃないか」

と、一時的にゆらいだ「自律性」を取り戻すために、反撃に転じる。

放射能が危険か危険じゃないかよりも、ただ他人に言われたのが気に入らないのだ。

そうなるともう手に負えない。ある種「精神のリバウンド現象」みたいなのが起きて、相手の揚げ足を取れば取るほど、「自己が確立」していく「悦び」を覚える。

とにかく相手を打ち負かす。そうすれば「自分」を取り戻せる。

おまえのせいで、俺は一瞬自分を責め、自信を失いかかった。だけど、何だ、そんなおまえだって「たいして分かってない」じゃないか。俺とたいして変わらなかったじゃないか。それなのに、俺のことを「見下し」やがって。そのせいで俺はあやうく自分を見失いそうになった。俺は間違っていたかもしれないが、おまえだって間違っているんだ。それなのに「おまえの正しさ」を俺に押しつけやがって。結局おまえだって、そうやって他人を利用して、「自分の正しさ」を確認しようとしていただけじゃないか。「偽善者」め。それなら今度は逆に俺がおまえを利用してやる。おまえの正しさなんていい加減なもんだ。それで正しいって言うなら、俺だって正しいさ。それに見てみろ世の中を。おまえと同じ考えのやつがどれだけいる?みんな俺の方と一緒じゃないか。それどころかその道の偉い先生たちが何十年もかかって導きだした「結論」があるんだ。それを「正しさ」と呼ばないで何が正しいと言う?小出だってバズビーだってバンダジェフスキーだって世間には認められてないだろう?単なる「エゴ」の垂れ流しだ。悔しかったらICRP勧告書き換えてみろってんだ。正しいってのは「みんなが正しいって思ってること」なんだ。世界とその歴史が証明するもの、それこそが正真正銘の「正しさ」なんだよ!

こうやって決着がつく。

相手は説得されるどころか逆に意固地になって、「放射能たいしたことない」という思いは以前よりも強くなった。

単に「気にも止めていなかったこと」が、今回の件でむしろ「積極的に気にしないこと」として自分の意志で選択され、その結果それがアイデンティティーの一部となってしまった。

「放射能を気にするアイツの言いなりになってたまるか。放射能を気にしない私こそが、私なのだ!

モヤモヤと漂っていた「お気楽な気分」が、「カチンときたせいで」、反動的な「意志」としてギュッと収縮し、自我になった。

あなたが「望んだもの」は退けられ、あなたが「望まないもの」が選ばれた。

もともとどちらでも良かったのだ。

ところが「あなたが望んだ」まさにそのせいで、「あなたが望まないもの」が重要な意味を持ってしまう。

つまり、「片付けろ」と言われたから「ぶっ散らかした」のだ。

、、、ミッションは失敗に終わった。

だから、「放射能の話」をする時は気をつけた方がいい。

「なんで片付けないの!まったく!」

そう言わずに、

「一緒にお片付けしようか?良い子だねー」

と言わなければならない。

(いやはや、何とも、、、人間というこの「幼稚な存在」、、、。)

僕だったらまずこう言う。

「10万人に1人ぐらいガンになったり、それ以外でも心臓病とかになったりする。俺たちは30年ぐらいで死んでもいいけど、子どもはまだ30歳とか40歳だからなあ。セシウムを100食ったとして99は出てくけど、1残ってそれが蓄積されるからね。俺はなるべく気をつけるよ」(『絶対』とかいう言葉を使わない。これはあくまで『さぐり』だから)

それで相手の反応を見る。

「10万人に1人ぐらい気にしてもしょうがないだろう?子どもだってまさか大丈夫だよ」

こう答える人には何を言っても無駄だと思う。

僕がここで「気をつけよう」と言っているのは、日本が国を上げて容認しているその「10万人に1人の犠牲」に対してであって、それ以外に理由はない。

それを相手は「気にしない(容認する)」と答えたのである。

そして僕は「10万人に1人の確率」以外、その不安を証明するデータも情報も持っていないのだから、これ以上相手を説得しようもなく、その一言で結論は出ている。

そこで(前から言ってることだけど)もう一つ質問してもいい。

「日本に放射能のせいで『人が住めない場所』ができちゃったね」

相手はどう答えるか。

「まあ、かわいそうだけどしょうがないよね」

こう来たらもうそこで話は終わりだ。

「絶対に許せない。起きてはいけないことが起きた。これからまた別な場所で同じことが起きれば、自分だって強制避難しなければならなくなる」

せめてこれぐらいの想像力を働かせて欲しい。そういう目で今回の原発事故を見ていないのならば、これから反原発の立場を貫くのは難しいだろう。

「しょうがない」で片付けられる規模の問題ではない

僕は、まずそこを納得してもらいたい。

だから、結局は確率的にしか語れない「放射能の危険」を訴えて、反原発的イデオロギーで人間の傾向を無理矢理ねじ曲げて一気に全体を変えようとするよりは、今回の「事件」で世界のあり方を考え直した人が、それぞれ「自律」して、繋がって、緩やかな「コミュニティー」を作り、その態度を身近なところから拡大させていった方が、これからの脱原発にとっても有効であるように思う。

あまり良い例えではないが、みんなが占い師みたいに、他人に語りかければいいのだ。






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