So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

Workflowの現在日時 [雑感]

Workflow。とても便利。これがあるとiPadで作業するのが楽しくなる。

プログラミングとか全然分からないから、それなりに苦労するけど、一度レシピを作ってしまえば、自分だけに必要なルーティンを自動化できる。

これはパソコンでももちろんできるんだけど、iPadだと「システム手帳に自動入力する」みたいな感じになるんだ。

今回少し分からないことがあったけど何とか解決できたのでこれも備忘録。

やろうとしたことは「現在時刻からルーティンを始める」ってこと。たぶん「リマインダー」とか「カレンダー」と似てるんだけどちょっと違う。「予定をあらかじめ組んでおく」のはそうなんだけど、その「開始時間」をその都度調節できるんだ。

一通り用事が終わって「じゃあ今からルーティン作業開始!」みたいに同じサイクルで仕事する時役に立つ。

その時「現在日時」(Current date) ってのを取得しなきゃいけないんだけど、「午後」だったらいいんだけど、これがなぜか「午前中」だと、例えば10:00を22:00と認識してしまう。だから午前9時50分に「10時から5分後」とか設定しても、22:05のところに予定が入ってしまう。

なんでこんなことになるのか分からないんだけど、同じことを嘆いてる人がいたからそういうものなんだと思う。

で、せっかくレシピ作ったのにこれじゃ使い物にならないと思っていろいろ調べたんだけど、このCurrent date ってのを Format すればいいんだ。

こんな感じ。

07.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

iPadのBluetoothキーボード入力 [雑感]

iPad。

使い始めて1ヶ月。パソコンに慣れているせいでいろいろ面倒くさい。同じことを求めてしまったら「パソコンの方がマシ」ということになるから、いろいろ調べて使っている。

ちょっとした「ショートカット」や「技」を発見するまでやたら時間がかかるんだけど、こんなこと普通に使っててみんな分かるんだろうか? 備忘録的に書き留めておく。

まず入力が面倒なんだけど、特に外付けキーボード(Bluetooth キーボード)を使って「Web検索」するのが何かやりづらい。

このBluetoothキーボードを使う時には、ソフトウェアキーボード(と言うのか、画面上のキーボード)が下に引っ込んで、以下のように入力部分に「変換候補」が出てくる。
01.jpg
これはこれで別にいいんだけど、この変換を「確定」した後でスペースバーで「半角スペース」を入れようとすると(キーワード同士を離すために)、動かない。それでイチイチ矢印キーとかを押してそのロックみたいなのを解除した後でもう一度スペースバーを押すと半角空きが入る。

最初は気にしなかったけどだんだんイライラして来たので今日徹底的に調べたら、どうもこの「隠れたソフトウェアキーボード」(以下ソフトキーボード)が、Bluetoothキーボード(以下BTK)を繋いで引っ込んだ後も動作しているっぽいんだ。ちなみにBTKで入力中でもイジェクトボタンを押すか、画面下部のキーボードメニューバー右下の↓を「長押し』すると飛び出してくる(うっかりワンタップすると完全に下に引っ込んでしまって、それはそれで面倒くさい)。

それでソフトキーボードを表示した状態でBTKで入力すると、「予測変換候補」みたいなのが確定後に出てくるのが見える。
05.jpg
これを「スペースバー」を押して選ぶわけだけど、この「予測変換候補」が「ソフトキーボードが非表示の時」もリストアップされていて、そこでBTKで半角スペースを入れようとしてスペースバーを押すと、「候補を選んでいる」状態になるんだと思う(だから矢印キーとかでそれを『解除』しないと前へ進まない)。

だからソフトキーボードを「表示させたまま」でBTKを使えばいいんだけど、どうも納得がいかなくてあれこれいじってるうちに、何だから分からないが以下のように「変換候補」が下のメニューバーに格納される時がある(その時には右下の↓が消えている)。
02.jpg
この状態だとソフトキーボードが表示されている時と同じ感じで入力できる。これだ!と思ったのだが、ただ右隅の「↓」をタップしてメニューバーを引っ込めただけでもだめなんだ(そうやってもBTKで入力するとまたニュッと出てくる)。

そこで以下やり方。

まず何でもいいから入力して「変換候補」を画面上に出す。そして、変換候補が出ている状態で、「↓」をワンタップする。ここが大事なのだけど、あくまでも「候補」が出ている状態で「↓」を引っ込める。
03.jpg

04.jpg
それから「ハードウェアキーボード」(Bluetoothキーボード)の「イジェクトボタン」を押す。

すると変換候補がソフトウェアキーボードの中に表示されるので、そこでBTKで「変換候補をスペースバーで選択する」か「リターンキーで確定する」。
05.jpg
すると変換候補全体がメニューバーに格納されるんだけど、こうすると右下の「↓」が消える。
06.jpg
分かりづらいんだけど、

「変換候補が出ている状態でソフトキーボードの↓を引っ込める」
「BTKのイジェクトボタンを押してソフトウェアキーボードを呼び出す」
「BTKのリターンキーを押して確定する」もしくは「変換候補をスペースバーを押して『選択する』」

ってことだ。これも一旦ブラウザを離れるとまた元に戻るから、マルチタスクしながら「Web検索」すると、イチイチこれをやらなきゃいけない。でも少なくも最初に「格納」しておけば入力自体は楽になる。他のアプリでも試してみたけど、とりあえず同じように「格納」できるっぽい。

本当はただあの「↓」を一瞬で消せればいいんだけど、何かいい方法あるんだろうか?





nice!(0)  コメント(0) 

東京から移住した医師 [原発事故]

妻が子供が脇腹が痛いと言っている、念のため検査した方がいいと言う。

ただの筋肉痛か神経痛じゃないか?と言いつつ、東京から岡山に移住した医師のホームページを見た。

トップページにその医師の見解が書いてあって、ここまで言ってくれる人はなかなかいないので以下に抜粋してみます。


東京から岡山へ移住した一開業医の危機感 三田 茂 三田医院院長


放射能事故の健康被害には医学の教科書はありません。

放射線医学は外照射やクリーンでコントロールされた放射性物質を扱っていて、放射能汚染については無力です

診断学や治療学もありません。じつは医師にとっては未知の分野、いちばんかかわりたくない分野です。

当院で首都圏の家族の甲状腺検査をしてきた印象では、「子ども」が心配と言って連れてこられる低年齢の子ども「小児」には甲状腺疾患はなく、その親「成人」に甲状腺癌が増えています。チェルノブイリでは、本来無いはずの「小児甲状腺癌」が発生しました。やや遅れて「成人」の甲状腺癌は大幅に増加しました。

フクシマでは、「小児甲状腺癌」は今のところ発生していません。「青年」の甲状腺癌は著明に増加しています。

「成人」は検査をしていないので不明です。

発生のパターンがチェルノブイリとは違っています。日本では放射性ヨウ素は原因ではないのかもしれません。

(、、、この見解。僕もプリピャチの被ばく量と比べても福島で甲状腺ガンは出ないと思っていました。じゃあヨウ素でなければなんなんだ?という話です。この見立てを言ってくれる人がなかなかいない)

このような状態をソ連ではチェルノブイリエイズと言ったのです。癌が増えることのみを統計では問題としがちですが、むしろこのような

不健康な人々の増加による社会の混乱、能力低下を危惧します

(、、、これも同意です)

さらに次世代、将来の世代の遺伝子的負荷も非常に心配です。東京よりも土壌汚染の低いチェルノブイリの都市では第2第3世代の不健康な状態、人口減少が大きな社会問題になっているからです。

チェルノブイリ事故では首都モスクワは被曝を免れましたが、フクシマ事故ではトーキョーがすっかり汚染されてしまいました。日本における最大の問題は、人々が被曝している事実を認めたくないことです。ほとんどのメディアは本社が東京にありこのことを発信しません。東京の三田医院には、テレビも新聞も週刊誌も映画も取材に来ましたが、記事になったことは一度もありません。

当事者は往々にして理性的な判断ができず、残念ながらトーキョーは当事者そのものです。

避難、移住を呼びかける私がトーキョーに住み続けることは矛盾していました。三田医院が岡山へ移転したことで避難、移住を決意した人も多く、

(、、、これ重要ですね。この行動によるメッセージの強さ)

こちらへ来ることで始めてわかる事も多いのです。西日本、外国ではテレビ、新聞取材が当たり前のように全て記事になりました。トーキョーにいては全てかき消されてしまう。これから私は西日本から首都圏へ警告を発し続けようと思っています。



精神の植民地 [雑感]

情報でも商品でも何でも簡単に手に入るインターネットは「気分」のメディアだ。

「気分」は「今」にしばられた「快」であり「子供のもの」だ。

だからインターネットは「子供の欲望」「子供の要求」に応えるためには理想のツールだと思う。

反対に「モノを生み出す」ためには膨大な時間がかかる。

2次元のプリントモニターの画像とは根本的に異なる何かが物体にはあって、そのせいでモノ作りは例え3Dプリンターを使ったとしても想像以上の手間がかかる。

飽和状態に達した「モノ」はなかなか売れないから「気分」を盛り上げて消費を促す必要がある。

「みんなが欲しがっているから」「何となく面白そうだから」「話のネタに」「気分を埋め合わせるために」と「過剰な消費」を生み出すためにインターネットが利用される。

換金労働のせいで「損した気分」になった「消費者」がスマホやSNSに貼り付いて早く「得した気分」になりたいと誘惑されるのを待っている。

だから今は消費者というより積極的な「ユーザー」なのだろう。

この「気分で行動するユーザー」が大多数を占める共同体は恐ろしく「子供」の社会であり、日本人はこの「快原則」に従う「子供」につなぎ止められることで理想的な奴隷になりつつある。

大人が「精神的に子供のまま」であることを消費社会の中で許されて、ただ「快・不快」で行動することをとがめられない。そこには次世代に受け継ぐための思想も理念もない。時間が「現在」という短いスパンで移り変わる流行に支配される。その瞬間の中の「快」にプライオリティーが置かれる。

支配層やその下僕のクリエイターはそれゆえこの構造を変えようとはしない。「幼児的快楽」は「人生の悦び」であるかのように野放しにされ、ユーザー動向は逐一モニタリングされている。

栽培された「気分」。肥え太らされた「欲望」。

そこから金をむしり取るためにせっせと「広告」という肥料と飼料がまかれる。

それでも「幼児性」がまるで純真さの証であるかのように、人々は嬉々としてその「精神の植民地」に留まっている。




放射線管理区域と内部被ばく [原発事故]

ふと「放射線管理区域」のことを考えた。

原発事故後、妻は「放射線管理区域からモノを持ち出してはいけないという法律がある」という理由から、関東の自宅から移住先へ荷物を運ぶことをためらった。自宅から数キロメートル離れたところでセシウム合計「4万ベクレル/平方メートル」の汚染が計測されたからだ。僕はいくらなんでも「全てを捨てる」わけにはいかないと言って、その時いろいろ調べた。

すると

「放射線管理区域からモノを持ち出して行けない」

のではなく、

「4ベクレル/平方センチメートル(=4万ベクレル/平方メートル)汚染されたモノは放射線管理区域の外へ持ち出してはいけない」

という話だった。

おそらく妻は「放射線管理区域=4万ベクレル/平方メートル汚染されている場所」と考えていたのだと思う。

「放射線管理区域」というのは危険な放射性物質を扱うために「放射能が管理されている場所」だ。だから「放射線管理区域」の「空間線量」や「表面汚染」は常に厳密にモニタリングされていて、放射能に関しては基本的に「クリーン」になるように保全されている。

つまり放射線管理区域内であれば放射能は4ベクレル/平方センチ以下に保たれるから、そこまで汚染される以前に徹底的に除染される。

その意味では今のホットスポットは「放射線管理区域よりひどい」ということになる。

だが「モノの汚染」はまた別だから、そこで僕は妻に

「それは4万ベクレル/平方メートルの土を運び出しちゃいけないって話で、家の中のモノはそんなに汚染されてないよ」

と言って、一応RD1008で表面汚染が検出限界8ベクレルで「0」であることを確認して、結果的には家財道具や本や衣類などほとんどを持ち出した。金銭的にもそう選択せざるを得なかった。

それで「4ベクレル/平方センチメートル汚染されたものを持ち出してはいけない」ということはどういうことなんだろう?と考えた。

というのも、もし「放射能は薄まれば安全だ」という原発事故後の話に従えば「4ベクレル程度の汚染」全く無に等しいんじゃないだろうか?と思ったからだ。

だから放射線管理区域に出入りする度に持ち物も衣類もサーベイメーターでスクリーニングする必要なんてないんじゃないか? だって例えば洋服の「袖」に4ベクレルくっ付いてたって、それが口に入っても「カリウムと一緒」なんだし、それが管理区域外に出ようがいずれ流れ落ちたり風に飛ばされて「薄まる」のだから、全く何も恐くないだろう。

それなら空間線量だけモニタリングして異常があったら対策取ればいいんじゃないかと思うし、実際今現在東日本でやってることってその程度の「ゆるい管理」で、それで「安全だ」って言ってるじゃないか。

例えば「ダイオキシン」だったら焼却場の排気口でモニタリングするんじゃないだろうか? それも常時じゃなくてたまにサンプリングする程度じゃないか? 焼却場の敷地から出る時にいちいちサーベイメーターで1平方センチ辺りの汚染を調べるなんてしてないと思う。そんなことにムダな費用をかけるよりも「膨大な量の公害が発生することを防ぐ」ことに重きを置いている思う。

しかし「放射能」は「4ベクレル/平方センチメートル」の汚染を「見逃してなるものか」と徹底的に監視していたのだから、原発事故前まではたしかに他の「汚染物質」とは異なる「核生成物」として「特殊な」扱いを受けて来たのだ。

「1平方センチメートル」という小さい面積に「ほんの少し付いた放射性物質」ですら取り除こうとしていた理由はそこに「内部被ばく」の恐れがあったからだろう。つまり原発事故後に強調されるシーベルト換算された「外部被ばくの実効線量」ではなく、体内に放射性物質が入ることを原発事故前は何としてでも防ごうとしていた。

そしてもう一つは、例え4ベクレルでも発見されれば、そこには「放射能漏洩」があるわけだから、その4ベクレルの汚染から徹底的に原因究明が行われ、その汚染源を特定して漏出を食い止める意味があったのだと思う。

また皮膚に付着した際の近距離からのベータ線被ばくも考慮されているだろう。

これはつまり「空間線量が上昇するほどの汚染が発生する前」に、もっとずっと微量な放射性物質が内部被ばくによって人の健康を損なうという認識があったからだと思う。また例え4ベクレルの放射能漏洩があったとして、それが長期に渡って微量に拡散したら「長期低線量被ばく」になるから、それを未然に防ぐ意味もある。

もし「薄まれば安全」ならその程度の汚染全く放っておいても構わないだろう。だってその何万倍の漏洩が現在進行形で続いていても「薄まれば安全」なんだから4ベクレルなんて調べるだけムダだと思う。

そう考えると原発事故前は「薄まれば安全」なんて全く考えてなかったんだ。事故後は無視されている「内部被ばく」や「低線量被ばく」への対策がちゃんと取られていたのだ。

つまり事故によって漏れてしまった放射能と今も漏れ続けている放射能が「危険」であることは、放射線防護のための法令そのものが証明してしまっている。

「放射能は『危険』なんだけど、もう『緊急事態』だから、行政的判断から『奴隷』は我慢して受け入れてちょうだい」

というのが本音なんだけど、それを言ってはあんまりだから、その論点をすり替えて「安全です」と言いたい。

本当は「我慢」なんだけどそれを「安全」と思い込ませたい。

この特殊なトリックを成立させるためには原子力緊急事態宣言を解除することはできないだろう。

それとも解除する前に「電離放射線障害防止規則」を改正してしまうのだろうか?



「ある」と言ってはいけない放射能問題 [被曝]

「福島の人々にありもしない放射能問題をぶつける活動家たち」という記事を読んだ。

やっぱり放射能問題ってのは「危険か?危険じゃないか?」っていう問題じゃなくて、

「権力の命令を一般市民が奴隷としてどう受け入れるか?」

みたいな行政問題なんだなと改めて思った。

少し笑ってしまったんだけど、福島の国道清掃ボランティアについて「子どもがセシウムを吸い込む“被ばくイベント”が福島で決行された」という見出しで女性週刊誌が記事を書いたらしく、このライターはけしからんと思って弁護士に聞いたのだそうだ。するとこんな解説が返ってきたと言う。
「どんなに小さな量でも、このイベントでちょっとは追加的にセシウムを吸い込んだり、被ばくしたりしたでしょうからねえ……、被ばくイベントという表現は間違いとはいえないですよね……。原発事故によって、放射能に汚されたというのも事実ですし……」
、、、正論だと思う。

そしてこのライター自身も、
低線量被ばく問題は難しい。福島の被ばく量が先述の通り小さかったとしても、数十年後の晩発性障害を現時点で完全に言い切ることはできない。
福島の被ばくはチェルノブイリに比べケタ違いに小さい。とくに内部被ばくはあったとしてもごくわずかでゼロに近い。将来、事故由来の晩発性障害が起きる可能性はかなり低い。
と「微量ながら被害が出るかもしれない」と、一応「危険である」ことは認めている。

つまり「放射能問題はある」ってことだと思う。

だからその上でこの人の主張としては、

「ちょっとぐらいは危ないかもしれないけど『すごく危ない』とか言うな!」

みたいな話なんだと思う。

「原発事故で日本は大変なことになった。もう終わりだ」

と言うのに対して「もう『終わり』とか言うな!どこがどう終わってるんだ?」とか

健康被害が出る。阿鼻叫喚の地獄だ」

「阿鼻叫喚はいつ始まるんですか?」とか

「危険なのはそうだけど『言い方が悪い』」

みたいな話なんだ。

例えば、暴行事件の被害者が

「あの犯人は絶対許せない。私は人生を台無しにされた」

と言ったとして、

「はあ?人生台無しにされた?もっと悲惨な人いっぱいいるよ」とか

仕事で大失敗した人が

「俺はもうダメだ。生きて行けない」

と言ったら

「はあ?生きてるでしょう。死ぬの?いつ?」

とか言う感覚だと思う。でもなかなかそういうことは言わないでしょう。

放射能の問題は「いつ、どこで、だれが、どのような健康被害が出るか分からない」という「完全に言い切ることはできないことの不安」にあるわけだから、そこで

「どうなるか分からないから不安だ」

と言うのは何も異常なことではないと思うのだが、

その人に向かって、

「どうなるか分からないんだから不安だとか言うな」

みたいな感じなんだ。

でもそれもなかなか言いづらいから「原子力緊急事態」を解除しないんだろう。これが継続している限りどんなに不安に思おうが「20ミリシーベルト許容するしかないよ。受け入れる?受け入れない?」みたいな2択に究極的には持ち込むことができる。

「放射能は危険だ!」と誰かが言ったところで「危険だよ。だけど緊急事態だから。しょうがないから。受け入れるの?受け入れないの?」という話にしかならない。

つまりこの「原子力緊急事態」の中では「多少の放射能は目をつぶろう」という話なんだろうけど、「放射能は危険である」ことは未だに原子炉に近づけず作業員がフル防護装備で仕事してるのを見れば明らかだから「危険である」ことはどうしても認めざるを得ない。

だから「放射能に多少は目をつぶりましょう。それに薄まればそんなに危険ではないですよ」ぐらいの落とし所を目指しているし、実際そういった説明によって国民の大半は「ただちに影響はない=安全だ」ぐらいの短絡思考で「まあしょうがないか」と納得してるんだと思う。

だから「みんな緊急事態で我慢してるんだからイチイチ気にさわること言うな!」と言うことなら「まあ、それもそうだね」と思う。

しかしそれなら「ありもしない放射能問題」ではないだろう。「あるんだけどあんまり大きい声で『ある』って言ったらダメな放射能問題」だと思う。


劇的な言葉 [雑感]

「自分はいかにして起業したか?」とか「どうやってポジティブ生きるか?」とかをネット上でひけらかすのが流行っているのだろうか? それとも何となくブログ書いてもしょうがないから「人様の役に立ってる」みたいな存在意義を求めているのだろうか? いずれにせよそれなりのフォロワーがいるということはモニターの前でお手軽な「自己啓発」を求める人が多いのだろう。SNSの中で「こらえ性のない人たち」が夢だけで生きて行こうする試み。

------

誰かに何かを言ってもらって人生を変えたいと思っている人がいる。

だれかが言う。

「そのままのあなたでいいんだよ」

また誰かが言う。

「向上心を持ちなさい」

自分が求めていた言葉に出会えば人は一瞬生き生きとなれる。

しかし本当に「そのままの自分」でいたら全く進歩せずにいずれ誰からも相手にされなくなるだろう。

逆に度外れの向上心を持ってがむしゃらに努力したって体を壊してしまう可能性もある。

どちらにしても他力本願でやっていて結局うまく行かなければ「そのままの自分でいいなら成長しなくたっていいだろう」とか「成長しなきゃならないんだからそのままの自分じゃだめだろう」とか逆恨みして、しまいには「人を疑うことだけ」が得意になってしまう

「言われたことをやる」という癖が付いてしまった人間は、むしろ「自分の意志」で何かをやろうとする時にはかえって失敗ばかりするものだ。

「自分は言われたことしかできないと思い込んでいる人間」は、失敗によって自分が「自分の意志でやろうとしてもできない人間」であることを自分にも他人にも認めさせたいと思っている。

「劇的な言葉」を自分を変えるためではなく、変わろうとする自分を「裏切る」ために必要としている人がいる。

どうやったって脱け出せない。そんな人たちがどん底に落ちまいとして、ネット上で「同じタイプの人間」に体験談を売ることでかろうじて自己救済を図る。

タコがタコの脚を食べる。絶望的なインチキ商法だ。



見せびらかしの時代 [雑感]

妻が友人と食事をしたら、そこのカフェの若い店長が自分が店を開いた動機やらこれからやりたい夢を語りまくり、しまいには「地域貢献のために市会議員になる」と言ったらしい。妻らはその「ドヤ感」に圧倒されうんざりして店を出たらしいが「なれるんじゃないの?市会議員」と言う。

たしかに自分の周りを見ても「出世する人」とか「仕切る人」とか目立ちたがりで押しの強い人間が多いのは分かるから、その延長上で考えればその店長とやらも「同じ類いの人間なのだろう」と想像はできる。

しかしこの話を聞いてまず最初に思ったのは「店に来た初対面の客に対していくら何でもはしゃぎすぎじゃないか?」ということだ。

この「他人の家に土足で上がり込むような」図々しさは、いわゆるソーシャル・メディアの影響だと思う。

最近ネットで「独立して起業しよう」とか「クリエイターになろう」みたいな人たちのブログを立て続けにいくつも見た。わざわざ探したわけではなく、そういう志を持った人たちってなぜか「繋がっている」から、リンクをたどると芋ヅル式に「似たような輩」がうじゃうじゃ出て来るのだ。

そうやって夢を実現しようと努力することは素晴らしいことだしそうあるべきだと思う。しかし一つ気になったのはそこに漂うある種の「見せびらかし感」だ。

いや、基本ブログでもTwitterでもInstagramでもみんな「見せびらかし」なんだけど、何でそこまで強迫観念的に自分の「今」や「思い付き」を随時つまびらかにして「いいね!」と同調してもらいたいのか不思議になる。

ネット環境のおかげで在宅で仕事をすることははるかに楽になったから「フリー」で生計を立てるということは可能だと思う。だけどそれをここ何年か続けられたから今後何十年も続くはずだとはその人たちも思ってないだろう。

するとやっぱり「不安」になるんじゃないだろうか?そのためにせっせとブログを更新してTwitterをつぶやいて「自分」を見せびらかす。たくさんのフォロワーに「見てもらっている」という確認作業によって不安が取り除かれモチベーションが維持される。

だけどこれはおかしくないか? なぜかと言うと「独立起業する!」という理由は、そこに強烈に一人で生み出したいと思った「商品」があったからじゃないのか? それがプランニングでも設計でも文章でも、自分一人で生み出せる「お金を得るためのモノ」があり、その「商品をどうしても作りたい」という意志が「潜在的な資本」としてあったから独立したんじゃないか?

そういう「モノ」とか「商品」が「独立起業ブログ」からはさっぱり見えて来ない。何だか知らないがとりあえず「起業しよう!」みたいなノリがあって、それから「時間が自由に使える」とか「地産地消でメシがうまい」とか「自然が豊かで子供も楽しそう」とか、そんなどうでもいい生活の断面をまるで「セレブ」感覚で報告する。

「ブランディング」とか「マーケティング」が先行して期待値は膨らんだけど実は売るモノがない、みたいな。

「いやいや商品はブランディングそのものだ」とか「プランナーとしての技術を売っているんだ」とか言われれば分かるけど、「ブロガー」とはそういう位置づけなのだろう。

それで何だか知らないが世の中にあふれる「クリエイターになりたい」と思ってはいるが現実的には才能も見込みもない気の弱いニートみたいな人たちを相手に「これであなたもクリエイターになれる!」というマニュアルを売りつけることで成り立つ一種の「情報商材詐欺」みたいなものだろうか?

生身の人間を目の前にしてスマホに夢中になっているバラバラの人間同士が、SNSという「市場」でその「孤独」を共有して「繋がった気分」になる。「見せびらかしたい」という欲望が商品となり、そんなヴァーチャル市場のプランナーかコーディネイターが「独立起業」を勧める。

注目されるとお金になりそうな感じがするのだ。だから現実の人間関係でもTweetしてるような気分で無責任に思い付きを垂れ流す人が出て来る。泣いている子供をスマホで撮影して子育てブログにアップするとか被害者を助ける前に事故現場を撮影するとかも同じ心理だろう。



「日本はダメになる」 [雑感]

「日本はダメになる」

そうネット上で断言する人たちがいるのだが、その中でも「海外在住の人」が多いことに驚く。日本国外に住んでるんだから、その国の言語でその国のコミュニティーで生きればいいと思うのだが、一体どういう動機でわざわざ日本語でそんなことを書くのだろう?

EUも英語圏の国も「移住」のハードルが低いから移住それ自体にはあんまり価値がなくて、移住先で「どう暮らすか?」っていう、言ってみれば「主体性」の方が問題にされると思う。そこで「主体的な生活」を目指そうと思ったらそのコミュニティーとの付き合いが重要になって、その時「俺は自分の国が嫌いだ」とか「俺の国はおかしい」とかどうでも良いだろう。

ドイツに住むイギリス人とかオーストラリアに住むオランダ人とかアメリカに住むオーストラリア人とか、今まで出会った人のこと思い出してみるとみんな「母国のこんなところが素晴らしい」とも言う。「より良い生活」を求めて移住してきたわけだから、別に自分の住んでる国が「嫌い」なわけではない。母国は母国、居住国は居住国なんだ。難民でもない限り先進国から来て「自分の国のここがひどい」とか自国の悪口言って喜んでる移住者って日本人ぐらいじゃないか?

海外で幸せそうに暮らしているように見える人が、「何となく思い付きで」などというレベルではなく、「もう我慢ならない」という感じで、日本語で日本人に対してある種「警告」か「予言」めいた発言をするのだから、そこでスッキリする何かが心の奥底にあるのだと思う。

同じ境遇にある「在外日本人」たちがその「ダメな母国」に対するネガティブな思いをネット上で「あるあるネタ」として共有して笑い飛ばそうというエンターテインメントなんだろうか? 「ダメな日本」に住む「自分と同じように才能のある人間を救い出したい」という老婆心なのだろうか? それともただ「ダメな国のバカな日本人を見下して」そんなダメなところからとっとと離脱した自分の先見性と現在の幸福を再確認したいのだろうか?

いずれにせよ仮想空間上に日々繰り広げられるそれらの「表現」は、その欲望自体が当の「ダメな日本」に生まれ育ったことによって彼らの心に培われたものなのだと思う。彼/彼女たちはその「ダメな国」から逃げ出したのだが、移住先でも心にはいつまでもその「ダメさ」が付きまとって来る。だからその「攻撃対象」は欲望の源である「日本」へと回帰する。「親の願望」によって突き動かされたエゴが抱える「親への恨み」は、「親への復讐」でしか解消されない。母語を使った母国への「憂い」「憐憫」「侮蔑」は、母国よりはその母語を使う「公衆」へと向かっている。

そうやって「ダメな国に住む人たち」に自分の洞察を見せびらかすことによってその「病」は「治癒」される。

彼らは「国際派」と称するのだが、その表現方法は「こらえ性がない」という日本人の特性をよく示していて、それゆえ彼らは日本から「逃げたつもり」でそこに「永遠に囚われる」。

日本はたしかに「ダメ」だとは思う。その点については同意する。だけど「ダメだ」と認識することと「ダメなものを変える」という行動は分けて考えなければならない。その人の「認識」と主体的「表現」とは全く別な問題なのだ。「認識すなわち即表現」というのは「神」にのみに属し、それが人間にも可能だと考えることができるのは「子供の妄想」になる。「こらえ性がない」のは幼児の特徴でもあり、だから日本人は幼児的と言われる。消費者が商品を買えば何か願望が達成されるのに似て、日本人は日本の悪口を言えば日本が良くなるとでも思っているのだろうか? (それとは逆に日本を無批判にほめそやす何とかと呼ばれる人たちもいる)



ハードルを下げない人 [雑感]

「ニート」の人が書いた「ニート脱出マニュアル」みたいな本についての記事が面白かった。

いわく「ニート」の人は「ハードルを下げない」らしい。

それはちょうど受験に失敗すればするほど志望校のレベルを「下げられなくなる」のに似ていると言う。

陸上競技や体育の授業でもし「高跳び」をやったとして、1mが飛べなかったら普通バーの高さを「90cmに下げる」のに、「ニート」の人は「1m50cmに上げる」のだと言う。

しかも「ダメなときほどハードルを上げたくなる」らしい。

これは目的が「ハードルを超える」ことではなくなってしまって、「ハードルを超えられない理由を作ること」にずれてしまっているのだと思う。

こういうことはよくある。挑戦する前から「言い訳」を探してしまう自己保存の心理だ。

それから「自分以外にネガティブなのに自分のことだけポジティブでいるのは無理」という話。

これは「悪口」を言ったり「批判」ばかりしていると、いつか自分に返って来て罰が当たるとかそういう話ではない。

「欠点探し」が癖になってしまい、やがて「自分に対しても欠点探しばかりする」ようになるのだと言う。

チャンスが巡って来てもまず「ピンチ要素」を見つけ出そうとしてしまう。

もし自分に「チャンス」がやってきたら、僕の場合であればきっとほとんど「そのことだけ」を考えて、とにかくその「チャンス」を確実に自分の元にたぐり寄せるまで絶対諦めないようにするだろう。「ピンチになったらどうしよう?」という不安はむしろ積極的に考えないようにする。なぜなら「ダメな時はダメ」と思ってるからだ。

だからこの「ネガティブ要素を探す」という思考法は、「ネガティブを取り除いて『何がなんでも』目標を達成しよう」というポジティブな意志の表れではないんだと思う。

「どうせ失敗するからその時のうまい言い訳を今から見つけ出しておこう」と物事に取りかかる以前にすでに「後ろ向き」になっているのだから、さっきのハードルと一緒で目前に迫る問題など片付けられるはずがないだろう。

しかもニートは「考え方」を変えようとしても無理らしい。だから「言葉を信じてなくても『大丈夫』と繰り返し言うようにする」のだそうだ。

これは僕にとっては驚きだと思う。「心で思ってなくても大丈夫と自分に言い聞かせる」なんて言ってみればスポーツの試合や試験の前に「手の平に人と三回書いて飲み込む」のと同じで、「迷信だけど意外に効果がある自己暗示」みたいなもので普通にみんなやってることじゃないか?

つまりニートの人って言うのは「心=真実」で「言葉=真実の写し」みたいに「別々に」考えてるんだと思う。

しかし「不安が真実」で「やる気を出すための言葉が嘘」なんて感じるなら、誰だってプレッシャーに押しつぶされてしまうと思う。

心の中に不安が広がりそうになる時に「不安だ、、、」と言わずに「大丈夫!」と自分に繰り返し言い聞かせるって、、、

まったく「普通」のことじゃないか?

面白いと思うのは、そこでこのニートの人が「考え方は変えられないけど言葉は変えられる」と言っている点だ。

僕に言わせれば「いや、、、『言葉を変えること=考え方を変えること』だし、なんでそれがバラバラに感じられる?」という感じだ。

「大丈夫!」と言い聞かせる自分=嘘の言葉
「不安だ、、、」と引きこもろうとする自分=本当の心

こんな風に自分が分裂してたらそれは「本当の心」を選んで「不安」の中にこそ自分の居場所を見つけてしまうだろう。

「大丈夫!」と言い聞かせる自分が「嘘まみれ」で「偽物」と感じられるってある種の自己乖離状態で端的に「鬱」だと思う。

だから言葉で強烈に「宣言」をしないと自己同一性が失われてしまう、、、。

そこで「謙虚にならないように心がける」らしい。

これのおかしかったのは「謙虚」であろうとすると挑戦回数が減るそうだ。だから失敗も減るのだが当然成功も減ってしまう。

図々しくチャレンジする人は失敗も多く成功も多い。

これは面白い比較だと思う。

例えば謙虚で思慮深く慎重に行動する人が10回挑戦して2回しか失敗せず「80%の成功率だ」と安堵する。

全く無計画で尊大で大胆に100回挑戦する人が50回失敗して50回成功して「成功率は50%」だと嘆く。

だけどちょっと待てよ。8回しか成功してない人間と50回成功してる人間、どちらが「前に進んでる」?

100回チャレンジして10回しか成功しなくたって、10回挑戦して8回成功したと豪語するやつよりも2回も多く成功してるじゃないか!

こうやって強引に着眼点を変えることも時には必要だと思う。











前の10件 | -