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東京から移住した医師 [原発事故]

妻が子供が脇腹が痛いと言っている、念のため検査した方がいいと言う。

ただの筋肉痛か神経痛じゃないか?と言いつつ、東京から岡山に移住した医師のホームページを見た。

トップページにその医師の見解が書いてあって、ここまで言ってくれる人はなかなかいないので以下に抜粋してみます。


東京から岡山へ移住した一開業医の危機感 三田 茂 三田医院院長


放射能事故の健康被害には医学の教科書はありません。

放射線医学は外照射やクリーンでコントロールされた放射性物質を扱っていて、放射能汚染については無力です

診断学や治療学もありません。じつは医師にとっては未知の分野、いちばんかかわりたくない分野です。

当院で首都圏の家族の甲状腺検査をしてきた印象では、「子ども」が心配と言って連れてこられる低年齢の子ども「小児」には甲状腺疾患はなく、その親「成人」に甲状腺癌が増えています。チェルノブイリでは、本来無いはずの「小児甲状腺癌」が発生しました。やや遅れて「成人」の甲状腺癌は大幅に増加しました。

フクシマでは、「小児甲状腺癌」は今のところ発生していません。「青年」の甲状腺癌は著明に増加しています。

「成人」は検査をしていないので不明です。

発生のパターンがチェルノブイリとは違っています。日本では放射性ヨウ素は原因ではないのかもしれません。

(、、、この見解。僕もプリピャチの被ばく量と比べても福島で甲状腺ガンは出ないと思っていました。じゃあヨウ素でなければなんなんだ?という話です。この見立てを言ってくれる人がなかなかいない)

このような状態をソ連ではチェルノブイリエイズと言ったのです。癌が増えることのみを統計では問題としがちですが、むしろこのような

不健康な人々の増加による社会の混乱、能力低下を危惧します

(、、、これも同意です)

さらに次世代、将来の世代の遺伝子的負荷も非常に心配です。東京よりも土壌汚染の低いチェルノブイリの都市では第2第3世代の不健康な状態、人口減少が大きな社会問題になっているからです。

チェルノブイリ事故では首都モスクワは被曝を免れましたが、フクシマ事故ではトーキョーがすっかり汚染されてしまいました。日本における最大の問題は、人々が被曝している事実を認めたくないことです。ほとんどのメディアは本社が東京にありこのことを発信しません。東京の三田医院には、テレビも新聞も週刊誌も映画も取材に来ましたが、記事になったことは一度もありません。

当事者は往々にして理性的な判断ができず、残念ながらトーキョーは当事者そのものです。

避難、移住を呼びかける私がトーキョーに住み続けることは矛盾していました。三田医院が岡山へ移転したことで避難、移住を決意した人も多く、

(、、、これ重要ですね。この行動によるメッセージの強さ)

こちらへ来ることで始めてわかる事も多いのです。西日本、外国ではテレビ、新聞取材が当たり前のように全て記事になりました。トーキョーにいては全てかき消されてしまう。これから私は西日本から首都圏へ警告を発し続けようと思っています。



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精神の植民地 [雑感]

情報でも商品でも何でも簡単に手に入るインターネットは「気分」のメディアだ。

「気分」は「今」にしばられた「快」であり「子供のもの」だ。

だからインターネットは「子供の欲望」「子供の要求」に応えるためには理想のツールだと思う。

反対に「モノを生み出す」ためには膨大な時間がかかる。

2次元のプリントモニターの画像とは根本的に異なる何かが物体にはあって、そのせいでモノ作りは例え3Dプリンターを使ったとしても想像以上の手間がかかる。

飽和状態に達した「モノ」はなかなか売れないから「気分」を盛り上げて消費を促す必要がある。

「みんなが欲しがっているから」「何となく面白そうだから」「話のネタに」「気分を埋め合わせるために」と「過剰な消費」を生み出すためにインターネットが利用される。

換金労働のせいで「損した気分」になった「消費者」がスマホやSNSに貼り付いて早く「得した気分」になりたいと誘惑されるのを待っている。

だから今は消費者というより積極的な「ユーザー」なのだろう。

この「気分で行動するユーザー」が大多数を占める共同体は恐ろしく「子供」の社会であり、日本人はこの「快原則」に従う「子供」につなぎ止められることで理想的な奴隷になりつつある。

大人が「精神的に子供のまま」であることを消費社会の中で許されて、ただ「快・不快」で行動することをとがめられない。そこには次世代に受け継ぐための思想も理念もない。時間が「現在」という短いスパンで移り変わる流行に支配される。その瞬間の中の「快」にプライオリティーが置かれる。

支配層やその下僕のクリエイターはそれゆえこの構造を変えようとはしない。「幼児的快楽」は「人生の悦び」であるかのように野放しにされ、ユーザー動向は逐一モニタリングされている。

栽培された「気分」。肥え太らされた「欲望」。

そこから金をむしり取るためにせっせと「広告」という肥料と飼料がまかれる。

それでも「幼児性」がまるで純真さの証であるかのように、人々は嬉々としてその「精神の植民地」に留まっている。




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放射線管理区域と内部被ばく [原発事故]

ふと「放射線管理区域」のことを考えた。

原発事故後、妻は「放射線管理区域からモノを持ち出してはいけないという法律がある」という理由から、関東の自宅から移住先へ荷物を運ぶことをためらった。自宅から数キロメートル離れたところでセシウム合計「4万ベクレル/平方メートル」の汚染が計測されたからだ。僕はいくらなんでも「全てを捨てる」わけにはいかないと言って、その時いろいろ調べた。

すると

「放射線管理区域からモノを持ち出して行けない」

のではなく、

「4ベクレル/平方センチメートル(=4万ベクレル/平方メートル)汚染されたモノは放射線管理区域の外へ持ち出してはいけない」

という話だった。

おそらく妻は「放射線管理区域=4万ベクレル/平方メートル汚染されている場所」と考えていたのだと思う。

「放射線管理区域」というのは危険な放射性物質を扱うために「放射能が管理されている場所」だ。だから「放射線管理区域」の「空間線量」や「表面汚染」は常に厳密にモニタリングされていて、放射能に関しては基本的に「クリーン」になるように保全されている。

つまり放射線管理区域内であれば放射能は4ベクレル/平方センチ以下に保たれるから、そこまで汚染される以前に徹底的に除染される。

その意味では今のホットスポットは「放射線管理区域よりひどい」ということになる。

だが「モノの汚染」はまた別だから、そこで僕は妻に

「それは4万ベクレル/平方メートルの土を運び出しちゃいけないって話で、家の中のモノはそんなに汚染されてないよ」

と言って、一応RD1008で表面汚染が検出限界8ベクレルで「0」であることを確認して、結果的には家財道具や本や衣類などほとんどを持ち出した。金銭的にもそう選択せざるを得なかった。

それで「4ベクレル/平方センチメートル汚染されたものを持ち出してはいけない」ということはどういうことなんだろう?と考えた。

というのも、もし「放射能は薄まれば安全だ」という原発事故後の話に従えば「4ベクレル程度の汚染」全く無に等しいんじゃないだろうか?と思ったからだ。

だから放射線管理区域に出入りする度に持ち物も衣類もサーベイメーターでスクリーニングする必要なんてないんじゃないか? だって例えば洋服の「袖」に4ベクレルくっ付いてたって、それが口に入っても「カリウムと一緒」なんだし、それが管理区域外に出ようがいずれ流れ落ちたり風に飛ばされて「薄まる」のだから、全く何も恐くないだろう。

それなら空間線量だけモニタリングして異常があったら対策取ればいいんじゃないかと思うし、実際今現在東日本でやってることってその程度の「ゆるい管理」で、それで「安全だ」って言ってるじゃないか。

例えば「ダイオキシン」だったら焼却場の排気口でモニタリングするんじゃないだろうか? それも常時じゃなくてたまにサンプリングする程度じゃないか? 焼却場の敷地から出る時にいちいちサーベイメーターで1平方センチ辺りの汚染を調べるなんてしてないと思う。そんなことにムダな費用をかけるよりも「膨大な量の公害が発生することを防ぐ」ことに重きを置いている思う。

しかし「放射能」は「4ベクレル/平方センチメートル」の汚染を「見逃してなるものか」と徹底的に監視していたのだから、原発事故前まではたしかに他の「汚染物質」とは異なる「核生成物」として「特殊な」扱いを受けて来たのだ。

「1平方センチメートル」という小さい面積に「ほんの少し付いた放射性物質」ですら取り除こうとしていた理由はそこに「内部被ばく」の恐れがあったからだろう。つまり原発事故後に強調されるシーベルト換算された「外部被ばくの実効線量」ではなく、体内に放射性物質が入ることを原発事故前は何としてでも防ごうとしていた。

そしてもう一つは、例え4ベクレルでも発見されれば、そこには「放射能漏洩」があるわけだから、その4ベクレルの汚染から徹底的に原因究明が行われ、その汚染源を特定して漏出を食い止める意味があったのだと思う。

また皮膚に付着した際の近距離からのベータ線被ばくも考慮されているだろう。

これはつまり「空間線量が上昇するほどの汚染が発生する前」に、もっとずっと微量な放射性物質が内部被ばくによって人の健康を損なうという認識があったからだと思う。また例え4ベクレルの放射能漏洩があったとして、それが長期に渡って微量に拡散したら「長期低線量被ばく」になるから、それを未然に防ぐ意味もある。

もし「薄まれば安全」ならその程度の汚染全く放っておいても構わないだろう。だってその何万倍の漏洩が現在進行形で続いていても「薄まれば安全」なんだから4ベクレルなんて調べるだけムダだと思う。

そう考えると原発事故前は「薄まれば安全」なんて全く考えてなかったんだ。事故後は無視されている「内部被ばく」や「低線量被ばく」への対策がちゃんと取られていたのだ。

つまり事故によって漏れてしまった放射能と今も漏れ続けている放射能が「危険」であることは、放射線防護のための法令そのものが証明してしまっている。

「放射能は『危険』なんだけど、もう『緊急事態』だから、行政的判断から『奴隷』は我慢して受け入れてちょうだい」

というのが本音なんだけど、それを言ってはあんまりだから、その論点をすり替えて「安全です」と言いたい。

本当は「我慢」なんだけどそれを「安全」と思い込ませたい。

この特殊なトリックを成立させるためには原子力緊急事態宣言を解除することはできないだろう。

それとも解除する前に「電離放射線障害防止規則」を改正してしまうのだろうか?



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「ある」と言ってはいけない放射能問題 [被曝]

「福島の人々にありもしない放射能問題をぶつける活動家たち」という記事を読んだ。

やっぱり放射能問題ってのは「危険か?危険じゃないか?」っていう問題じゃなくて、

「権力の命令を一般市民が奴隷としてどう受け入れるか?」

みたいな行政問題なんだなと改めて思った。

少し笑ってしまったんだけど、福島の国道清掃ボランティアについて「子どもがセシウムを吸い込む“被ばくイベント”が福島で決行された」という見出しで女性週刊誌が記事を書いたらしく、このライターはけしからんと思って弁護士に聞いたのだそうだ。するとこんな解説が返ってきたと言う。
「どんなに小さな量でも、このイベントでちょっとは追加的にセシウムを吸い込んだり、被ばくしたりしたでしょうからねえ……、被ばくイベントという表現は間違いとはいえないですよね……。原発事故によって、放射能に汚されたというのも事実ですし……」
、、、正論だと思う。

そしてこのライター自身も、
低線量被ばく問題は難しい。福島の被ばく量が先述の通り小さかったとしても、数十年後の晩発性障害を現時点で完全に言い切ることはできない。
福島の被ばくはチェルノブイリに比べケタ違いに小さい。とくに内部被ばくはあったとしてもごくわずかでゼロに近い。将来、事故由来の晩発性障害が起きる可能性はかなり低い。
と「微量ながら被害が出るかもしれない」と、一応「危険である」ことは認めている。

つまり「放射能問題はある」ってことだと思う。

だからその上でこの人の主張としては、

「ちょっとぐらいは危ないかもしれないけど『すごく危ない』とか言うな!」

みたいな話なんだと思う。

「原発事故で日本は大変なことになった。もう終わりだ」

と言うのに対して「もう『終わり』とか言うな!どこがどう終わってるんだ?」とか

健康被害が出る。阿鼻叫喚の地獄だ」

「阿鼻叫喚はいつ始まるんですか?」とか

「危険なのはそうだけど『言い方が悪い』」

みたいな話なんだ。

例えば、暴行事件の被害者が

「あの犯人は絶対許せない。私は人生を台無しにされた」

と言ったとして、

「はあ?人生台無しにされた?もっと悲惨な人いっぱいいるよ」とか

仕事で大失敗した人が

「俺はもうダメだ。生きて行けない」

と言ったら

「はあ?生きてるでしょう。死ぬの?いつ?」

とか言う感覚だと思う。でもなかなかそういうことは言わないでしょう。

放射能の問題は「いつ、どこで、だれが、どのような健康被害が出るか分からない」という「完全に言い切ることはできないことの不安」にあるわけだから、そこで

「どうなるか分からないから不安だ」

と言うのは何も異常なことではないと思うのだが、

その人に向かって、

「どうなるか分からないんだから不安だとか言うな」

みたいな感じなんだ。

でもそれもなかなか言いづらいから「原子力緊急事態」を解除しないんだろう。これが継続している限りどんなに不安に思おうが「20ミリシーベルト許容するしかないよ。受け入れる?受け入れない?」みたいな2択に究極的には持ち込むことができる。

「放射能は危険だ!」と誰かが言ったところで「危険だよ。だけど緊急事態だから。しょうがないから。受け入れるの?受け入れないの?」という話にしかならない。

つまりこの「原子力緊急事態」の中では「多少の放射能は目をつぶろう」という話なんだろうけど、「放射能は危険である」ことは未だに原子炉に近づけず作業員がフル防護装備で仕事してるのを見れば明らかだから「危険である」ことはどうしても認めざるを得ない。

だから「放射能に多少は目をつぶりましょう。それに薄まればそんなに危険ではないですよ」ぐらいの落とし所を目指しているし、実際そういった説明によって国民の大半は「ただちに影響はない=安全だ」ぐらいの短絡思考で「まあしょうがないか」と納得してるんだと思う。

だから「みんな緊急事態で我慢してるんだからイチイチ気にさわること言うな!」と言うことなら「まあ、それもそうだね」と思う。

しかしそれなら「ありもしない放射能問題」ではないだろう。「あるんだけどあんまり大きい声で『ある』って言ったらダメな放射能問題」だと思う。


劇的な言葉 [雑感]

「自分はいかにして起業したか?」とか「どうやってポジティブ生きるか?」とかをネット上でひけらかすのが流行っているのだろうか? それとも何となくブログ書いてもしょうがないから「人様の役に立ってる」みたいな存在意義を求めているのだろうか? いずれにせよそれなりのフォロワーがいるということはモニターの前でお手軽な「自己啓発」を求める人が多いのだろう。SNSの中で「こらえ性のない人たち」が夢だけで生きて行こうする試み。

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誰かに何かを言ってもらって人生を変えたいと思っている人がいる。

だれかが言う。

「そのままのあなたでいいんだよ」

また誰かが言う。

「向上心を持ちなさい」

自分が求めていた言葉に出会えば人は一瞬生き生きとなれる。

しかし本当に「そのままの自分」でいたら全く進歩せずにいずれ誰からも相手にされなくなるだろう。

逆に度外れの向上心を持ってがむしゃらに努力したって体を壊してしまう可能性もある。

どちらにしても他力本願でやっていて結局うまく行かなければ「そのままの自分でいいなら成長しなくたっていいだろう」とか「成長しなきゃならないんだからそのままの自分じゃだめだろう」とか逆恨みして、しまいには「人を疑うことだけ」が得意になってしまう

「言われたことをやる」という癖が付いてしまった人間は、むしろ「自分の意志」で何かをやろうとする時にはかえって失敗ばかりするものだ。

「自分は言われたことしかできないと思い込んでいる人間」は、失敗によって自分が「自分の意志でやろうとしてもできない人間」であることを自分にも他人にも認めさせたいと思っている。

「劇的な言葉」を自分を変えるためではなく、変わろうとする自分を「裏切る」ために必要としている人がいる。

どうやったって脱け出せない。そんな人たちがどん底に落ちまいとして、ネット上で「同じタイプの人間」に体験談を売ることでかろうじて自己救済を図る。

タコがタコの脚を食べる。絶望的なインチキ商法だ。



見せびらかしの時代 [雑感]

妻が友人と食事をしたら、そこのカフェの若い店長が自分が店を開いた動機やらこれからやりたい夢を語りまくり、しまいには「地域貢献のために市会議員になる」と言ったらしい。妻らはその「ドヤ感」に圧倒されうんざりして店を出たらしいが「なれるんじゃないの?市会議員」と言う。

たしかに自分の周りを見ても「出世する人」とか「仕切る人」とか目立ちたがりで押しの強い人間が多いのは分かるから、その延長上で考えればその店長とやらも「同じ類いの人間なのだろう」と想像はできる。

しかしこの話を聞いてまず最初に思ったのは「店に来た初対面の客に対していくら何でもはしゃぎすぎじゃないか?」ということだ。

この「他人の家に土足で上がり込むような」図々しさは、いわゆるソーシャル・メディアの影響だと思う。

最近ネットで「独立して起業しよう」とか「クリエイターになろう」みたいな人たちのブログを立て続けにいくつも見た。わざわざ探したわけではなく、そういう志を持った人たちってなぜか「繋がっている」から、リンクをたどると芋ヅル式に「似たような輩」がうじゃうじゃ出て来るのだ。

そうやって夢を実現しようと努力することは素晴らしいことだしそうあるべきだと思う。しかし一つ気になったのはそこに漂うある種の「見せびらかし感」だ。

いや、基本ブログでもTwitterでもInstagramでもみんな「見せびらかし」なんだけど、何でそこまで強迫観念的に自分の「今」や「思い付き」を随時つまびらかにして「いいね!」と同調してもらいたいのか不思議になる。

ネット環境のおかげで在宅で仕事をすることははるかに楽になったから「フリー」で生計を立てるということは可能だと思う。だけどそれをここ何年か続けられたから今後何十年も続くはずだとはその人たちも思ってないだろう。

するとやっぱり「不安」になるんじゃないだろうか?そのためにせっせとブログを更新してTwitterをつぶやいて「自分」を見せびらかす。たくさんのフォロワーに「見てもらっている」という確認作業によって不安が取り除かれモチベーションが維持される。

だけどこれはおかしくないか? なぜかと言うと「独立起業する!」という理由は、そこに強烈に一人で生み出したいと思った「商品」があったからじゃないのか? それがプランニングでも設計でも文章でも、自分一人で生み出せる「お金を得るためのモノ」があり、その「商品をどうしても作りたい」という意志が「潜在的な資本」としてあったから独立したんじゃないか?

そういう「モノ」とか「商品」が「独立起業ブログ」からはさっぱり見えて来ない。何だか知らないがとりあえず「起業しよう!」みたいなノリがあって、それから「時間が自由に使える」とか「地産地消でメシがうまい」とか「自然が豊かで子供も楽しそう」とか、そんなどうでもいい生活の断面をまるで「セレブ」感覚で報告する。

「ブランディング」とか「マーケティング」が先行して期待値は膨らんだけど実は売るモノがない、みたいな。

「いやいや商品はブランディングそのものだ」とか「プランナーとしての技術を売っているんだ」とか言われれば分かるけど、「ブロガー」とはそういう位置づけなのだろう。

それで何だか知らないが世の中にあふれる「クリエイターになりたい」と思ってはいるが現実的には才能も見込みもない気の弱いニートみたいな人たちを相手に「これであなたもクリエイターになれる!」というマニュアルを売りつけることで成り立つ一種の「情報商材詐欺」みたいなものだろうか?

生身の人間を目の前にしてスマホに夢中になっているバラバラの人間同士が、SNSという「市場」でその「孤独」を共有して「繋がった気分」になる。「見せびらかしたい」という欲望が商品となり、そんなヴァーチャル市場のプランナーかコーディネイターが「独立起業」を勧める。

注目されるとお金になりそうな感じがするのだ。だから現実の人間関係でもTweetしてるような気分で無責任に思い付きを垂れ流す人が出て来る。泣いている子供をスマホで撮影して子育てブログにアップするとか被害者を助ける前に事故現場を撮影するとかも同じ心理だろう。



「日本はダメになる」 [雑感]

「日本はダメになる」

そうネット上で断言する人たちがいるのだが、その中でも「海外在住の人」が多いことに驚く。日本国外に住んでるんだから、その国の言語でその国のコミュニティーで生きればいいと思うのだが、一体どういう動機でわざわざ日本語でそんなことを書くのだろう?

EUも英語圏の国も「移住」のハードルが低いから移住それ自体にはあんまり価値がなくて、移住先で「どう暮らすか?」っていう、言ってみれば「主体性」の方が問題にされると思う。そこで「主体的な生活」を目指そうと思ったらそのコミュニティーとの付き合いが重要になって、その時「俺は自分の国が嫌いだ」とか「俺の国はおかしい」とかどうでも良いだろう。

ドイツに住むイギリス人とかオーストラリアに住むオランダ人とかアメリカに住むオーストラリア人とか、今まで出会った人のこと思い出してみるとみんな「母国のこんなところが素晴らしい」とも言う。「より良い生活」を求めて移住してきたわけだから、別に自分の住んでる国が「嫌い」なわけではない。母国は母国、居住国は居住国なんだ。難民でもない限り先進国から来て「自分の国のここがひどい」とか自国の悪口言って喜んでる移住者って日本人ぐらいじゃないか?

海外で幸せそうに暮らしているように見える人が、「何となく思い付きで」などというレベルではなく、「もう我慢ならない」という感じで、日本語で日本人に対してある種「警告」か「予言」めいた発言をするのだから、そこでスッキリする何かが心の奥底にあるのだと思う。

同じ境遇にある「在外日本人」たちがその「ダメな母国」に対するネガティブな思いをネット上で「あるあるネタ」として共有して笑い飛ばそうというエンターテインメントなんだろうか? 「ダメな日本」に住む「自分と同じように才能のある人間を救い出したい」という老婆心なのだろうか? それともただ「ダメな国のバカな日本人を見下して」そんなダメなところからとっとと離脱した自分の先見性と現在の幸福を再確認したいのだろうか?

いずれにせよ仮想空間上に日々繰り広げられるそれらの「表現」は、その欲望自体が当の「ダメな日本」に生まれ育ったことによって彼らの心に培われたものなのだと思う。彼/彼女たちはその「ダメな国」から逃げ出したのだが、移住先でも心にはいつまでもその「ダメさ」が付きまとって来る。だからその「攻撃対象」は欲望の源である「日本」へと回帰する。「親の願望」によって突き動かされたエゴが抱える「親への恨み」は、「親への復讐」でしか解消されない。母語を使った母国への「憂い」「憐憫」「侮蔑」は、母国よりはその母語を使う「公衆」へと向かっている。

そうやって「ダメな国に住む人たち」に自分の洞察を見せびらかすことによってその「病」は「治癒」される。

彼らは「国際派」と称するのだが、その表現方法は「こらえ性がない」という日本人の特性をよく示していて、それゆえ彼らは日本から「逃げたつもり」でそこに「永遠に囚われる」。

日本はたしかに「ダメ」だとは思う。その点については同意する。だけど「ダメだ」と認識することと「ダメなものを変える」という行動は分けて考えなければならない。その人の「認識」と主体的「表現」とは全く別な問題なのだ。「認識すなわち即表現」というのは「神」にのみに属し、それが人間にも可能だと考えることができるのは「子供の妄想」になる。「こらえ性がない」のは幼児の特徴でもあり、だから日本人は幼児的と言われる。消費者が商品を買えば何か願望が達成されるのに似て、日本人は日本の悪口を言えば日本が良くなるとでも思っているのだろうか? (それとは逆に日本を無批判にほめそやす何とかと呼ばれる人たちもいる)



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ハードルを下げない人 [雑感]

「ニート」の人が書いた「ニート脱出マニュアル」みたいな本についての記事が面白かった。

いわく「ニート」の人は「ハードルを下げない」らしい。

それはちょうど受験に失敗すればするほど志望校のレベルを「下げられなくなる」のに似ていると言う。

陸上競技や体育の授業でもし「高跳び」をやったとして、1mが飛べなかったら普通バーの高さを「90cmに下げる」のに、「ニート」の人は「1m50cmに上げる」のだと言う。

しかも「ダメなときほどハードルを上げたくなる」らしい。

これは目的が「ハードルを超える」ことではなくなってしまって、「ハードルを超えられない理由を作ること」にずれてしまっているのだと思う。

こういうことはよくある。挑戦する前から「言い訳」を探してしまう自己保存の心理だ。

それから「自分以外にネガティブなのに自分のことだけポジティブでいるのは無理」という話。

これは「悪口」を言ったり「批判」ばかりしていると、いつか自分に返って来て罰が当たるとかそういう話ではない。

「欠点探し」が癖になってしまい、やがて「自分に対しても欠点探しばかりする」ようになるのだと言う。

チャンスが巡って来てもまず「ピンチ要素」を見つけ出そうとしてしまう。

もし自分に「チャンス」がやってきたら、僕の場合であればきっとほとんど「そのことだけ」を考えて、とにかくその「チャンス」を確実に自分の元にたぐり寄せるまで絶対諦めないようにするだろう。「ピンチになったらどうしよう?」という不安はむしろ積極的に考えないようにする。なぜなら「ダメな時はダメ」と思ってるからだ。

だからこの「ネガティブ要素を探す」という思考法は、「ネガティブを取り除いて『何がなんでも』目標を達成しよう」というポジティブな意志の表れではないんだと思う。

「どうせ失敗するからその時のうまい言い訳を今から見つけ出しておこう」と物事に取りかかる以前にすでに「後ろ向き」になっているのだから、さっきのハードルと一緒で目前に迫る問題など片付けられるはずがないだろう。

しかもニートは「考え方」を変えようとしても無理らしい。だから「言葉を信じてなくても『大丈夫』と繰り返し言うようにする」のだそうだ。

これは僕にとっては驚きだと思う。「心で思ってなくても大丈夫と自分に言い聞かせる」なんて言ってみればスポーツの試合や試験の前に「手の平に人と三回書いて飲み込む」のと同じで、「迷信だけど意外に効果がある自己暗示」みたいなもので普通にみんなやってることじゃないか?

つまりニートの人って言うのは「心=真実」で「言葉=真実の写し」みたいに「別々に」考えてるんだと思う。

しかし「不安が真実」で「やる気を出すための言葉が嘘」なんて感じるなら、誰だってプレッシャーに押しつぶされてしまうと思う。

心の中に不安が広がりそうになる時に「不安だ、、、」と言わずに「大丈夫!」と自分に繰り返し言い聞かせるって、、、

まったく「普通」のことじゃないか?

面白いと思うのは、そこでこのニートの人が「考え方は変えられないけど言葉は変えられる」と言っている点だ。

僕に言わせれば「いや、、、『言葉を変えること=考え方を変えること』だし、なんでそれがバラバラに感じられる?」という感じだ。

「大丈夫!」と言い聞かせる自分=嘘の言葉
「不安だ、、、」と引きこもろうとする自分=本当の心

こんな風に自分が分裂してたらそれは「本当の心」を選んで「不安」の中にこそ自分の居場所を見つけてしまうだろう。

「大丈夫!」と言い聞かせる自分が「嘘まみれ」で「偽物」と感じられるってある種の自己乖離状態で端的に「鬱」だと思う。

だから言葉で強烈に「宣言」をしないと自己同一性が失われてしまう、、、。

そこで「謙虚にならないように心がける」らしい。

これのおかしかったのは「謙虚」であろうとすると挑戦回数が減るそうだ。だから失敗も減るのだが当然成功も減ってしまう。

図々しくチャレンジする人は失敗も多く成功も多い。

これは面白い比較だと思う。

例えば謙虚で思慮深く慎重に行動する人が10回挑戦して2回しか失敗せず「80%の成功率だ」と安堵する。

全く無計画で尊大で大胆に100回挑戦する人が50回失敗して50回成功して「成功率は50%」だと嘆く。

だけどちょっと待てよ。8回しか成功してない人間と50回成功してる人間、どちらが「前に進んでる」?

100回チャレンジして10回しか成功しなくたって、10回挑戦して8回成功したと豪語するやつよりも2回も多く成功してるじゃないか!

こうやって強引に着眼点を変えることも時には必要だと思う。











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悪いことばかり考える [雑感]

悪い事ばかり考える人というのがいる。

「悪いこと」を考える人は行動を起こすことをためらう。

そして「悪いこと」を避けるための理由を並べて、「計画を中断する」「行動しない」「コミットしない」「逃げる」という選択をする。

ところがそうやって「何もしないことを積極的に選ぶ」と、なぜか何もしてないにもかかわらず「安堵」の気持ちが訪れる。

それどころか、むしろその「安堵」のせいで「何かを得た」ような気分になる。

これはおかしな話だ。

実質「0」なのに気持ちだけが「バーチャルなプラス」になっている。

まるで自分で作り出したマイナスの気分にマイナスの行動を乗算したから「プラスになった」みたいな充実感だ。

こういった「観念論」が人々の心を支配している理由は、みなが「お金」とか「経済」に基づいた労働と消費の世界に生きているからで、そこで醸成されるこの観念は「心理学」よりはむしろ「金融工学」として解明されると思う。

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逆に「良いこと」について考えてみよう。

「良いこと」は「現実的なプラス」で、自分の目の前に結果が残り、それを他人も共有できる状態を言う。

だからそれを現実のものとするためには行動を起こしコミットし、その観念を物質として客体化する以外にない。

そのためには自分の頭の中の「観念」から外に出て、予測できない不確定性のカオスである「世界」を相手にしなければならない。

「説得力のある企画」とか「他人との交渉」とか「うんざりする単純労働」とか「ねじ伏せなければならない物理法則」とか。

だからほぼ必然的に「失敗」を含む。

つまり行動する過程のどこかで必ず「失敗=悪いこと=マイナス」を生じさせてしまう。

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人は根本的に「良いこと」を欲する。「良いこと」というのはうれしいことであり悦ばしいことであり快活で自分の生を肯定する観念だ。

にもかかわらず、その「良いこと」を現実化しようと努力すると必ず「失敗」が起きるから、それが「悪いこと」として思い描かれる。

だから「悪いこと」は「良いこと」の派生物として生じる。

しかもプラスになるよりはマイナスになる確率の方が高い。

「想像」や「観念」は自分の頭の中で閉じた「確定性」を相手にできるけど、「行動」は世界という「不確定性」を相手にしながらなおかつその取り組みを「続けなければいけない」からだ。

頭の中で一瞬で作り出せる「成功」も、現実の行動においては辛い努力の果てにしかやってこない。

だから「始めることは簡単」であり「成し遂げることは困難」だ。

努力をしても徒労に終わるかもしれないと思えば人は「ひるむ」。

ひるんでびびって「失敗したくない」と思う。「良いこと」を望めば望むほど、それが高ければ高いプラスであればあるほど、逆にコテンパンに打ちのめされるドン底のマイナスを作り出してしまうかもしれないから恐くなる。

恐くなるから逃げたくなる。

そこで「悪いこと」だけを考える。「悪いこと」が巨大であればあるほど、それが乗り越え難く目の前に立ちふさがれば立ちふさがるほど、自分がそこに「挑戦しない理由」をより確固たるものにすることができる。

「俺は誰にも負けない善い行いを為そうと欲しているのに、世界は絶望的に無理解でその善を踏みにじる」

「俺がツイていないのは世界のせいだ」

「世の中が悪い」

そう言ってしまいには「世界を悪」に仕立て上げる。

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もはや「世界は悪」なのだから、自分がどんなに「良いこと=プラス」を実現しようとしてもマイナスにしかならない。

それなら「何もしない」方がマシだ。

「0」の方がいい。

現状維持だ。

良かった。少なくとも俺は失わずに済んだ。

このまるでマッチポンプみたいに脳内で生成される「安堵感」。

ヴァーチャルな「お得感」。

こういう「錯覚」を作り出す人間は「努力」を恐れ、翻ってそれをバカにするようになる。

本当は努力する他人に対して「おまえがやっている努力はムダだ」と小馬鹿にしたいのだが、それを言ってしまうと自分が作り出した「錯覚」も、それによってひた隠しにする自分の「みじめさ」も露になってしまうから嘘をつく。

つまり「自尊心」のために「物事の悪い面」だけを強調するのだ。

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人間は「良いこと=プラス」を欲するが、現実の「悪いこと=マイナス」の総量は必ずそれを上回る。

(自然は無慈悲で善も悪も持たないから、人間の観念上にある『良いこと』は常に裏切られる)

だから「悪いこと」の方がより多く現実化し、「悪いこと」ばかり考えている人の方が「よく当たる」。

「人は死ぬ」と言えばそれは100%正しく、同様にいつか必ず「世界は滅びる」。

つまり「悪いことばかり考える人」は必然的にいつも正しい。

ところがその「正しさ」と引き換えに「努力とその中に生じる悦び」を放棄する。

資本主義という悪魔が人間のエゴにかけた「呪い」のせいで、彼は「生きる悦び」よりも「己の正しさ」を証明することにその人生をかける。



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自閉症スペクトラム [育児]

以前「心の中のエコノミー」という記事で「発達障害」と呼ばれるものについて書いた。もう少し考えてみる。

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日曜日、遅い朝食を食べていたら子供の友達が遊びに来た。

「ご飯食べてるからちょっと待ってて」と言ったのだが、うちの子は待ち切れない感じで席を立って遊ぼうとする。

「ほら、ご飯終わってからだよ」と諭して食べさせた。

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だいたいうちの子は「あ、そうだ!」と思いついたことがあれば食事中でもよく席を立つ。例えば「あの絵本に何て書いてあったっけ?」と絵本見たり、外で何か音がすれば「あれ何?」と見に行ったり。

「食事中は席立たないよ」と一応言うが、そういってる親だって醤油取りに行ったり携帯メール気にしたり時々「席を立つ」ことはあるのだ。

これは食事に限ったことではない。料理したり仕事したり掃除したりしてる時でも「あ、そう言えば、、、」と「思いついて中断する」ことは多々ある。

むしろ例えば「今日ゴミの日だからゴミ先に出しておこう」なんて言う時は、忘れないうちに「料理の途中でゴミ出しする」なんてことだってあるだろうし、「ゴミ出し忘れるよりは思いついた時にすぐやった方がいい」という場合もある。

大人はそういう「プライオリティー」を経験や計画を通じて決定できる。

つまり「いつもはやっちゃだめだけど今は特別やってもいい」みたいな「例外」を自分で決めることがある。

子供はこういうことができない。思いついたら食事そっちのけで遊んでしまったりする。

そして「もう食べない」と途中で食べるの止めたくせに、散々遊んだ後で「お腹空いた」と言ったりする。

だから「食べる時にきちんと食べる」「食事中は食事に集中する」ということは必要だし、それをやらずに放っておいて思いついたことを思いついたままにやってはいけないという「自己規制」を学ぶことは大切だと思う。

ここで問題となるのは「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」ということなのだが、多くの親はそこで「しつけ」と称して「思いついたことをやってはいけない」と命令してしまう。

「思いついたことを思いついたままにやってはいけない場合がある」
「思いついたことをやってはいけない」

この二つの間には「主体的判断」と「命令に従う」という違いがあり、その間の溝はおそろしく深いが、その「溝の深さ」に無自覚な親がたくさんいるのは、自分が「命令されて育ってきた」せいだと思う。

ご飯の途中で席を立つ子供は「多動ではない」。

それが多動なら「子供は全員多動」なのだが、親自身が「しつけの呪縛」にがんじがらめになっているからその「多動」が気になって気になって仕方がない。

「子供だもん、そりゃ動きたいよな」と平然とできない。

「なんでこの子は動いてばかりいるのだろう?」と悩んでしまう。

「厳しさ」が足りないのか?と思ってさらに「しつけ」はエスカレートして、いつの間にか親の「怒り」は容認され、時には「引っぱたく」ことさえも許容されるようになる。

実際僕の周りの家族でも「食事の時は『絶対』最後まで食べさせる」とか「出したもの食べなかったら食事を抜く」とか当たり前のようにやっている親もいる。

それ「ソフトな虐待」でしょう、と思うのだが。

ところがそれでも「嫌なものは嫌!」という「こだわり」を見せる子供たちがいて、そういった子たちが早急に「自閉症スペクトラム」という「障害」に認定され、親子共々「訓育」されようとしている。

もちろん「本当にADHDである」「本当にアスペルガーである」「本当に自閉症である」という場合があるから、子供の様子を見てそこは親が見極めるしかないのは事実だが、「自閉症スペクトラム」という概念にはその「悩む親」を精神医学という権威に従属させて、やがて「反抗分子」となりそうな人間が持つ強い独立性の「芽」を早期に摘み取って、資本主義システムに機械的に「適応」させるためのプログラム的意味合いがある(と僕は思っている)。

子供があっち行ったりこっち行ったりするのはその「並外れた好奇心」のせいだが、その「好奇心」こそが権力にとって面倒な「批判力」の原点なのだ。

だからそこを早いうちに潰しておきたい。

「精神科」という権力装置に縛り付けることで「治療費」を巻き上げ、親の思考と財布から二十三重に「搾取」する。子供の脳みそにレッテルを貼って従順な「畜群」を効率的に作り出す。

植民地はもはや地理的な侵略を意味せず、その「軍事作戦」は人間の心へと展開している。

「支配」されようとしているのは目に見える環境ではなく、人間の不可視の内面だ。

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発達障害には生得的気質に由来する「先天的なもの」と、親のしつけや環境から後天的に生じる「二次障害」がある。もちろんそれが併発する場合もあるだろうし、仮に先天的なものがあっても生育がうまく行けば二次障害は防げる可能性もある。

ここで僕が問題にしているのは「二次障害」の方で、それは将来的には「鬱病」「統合失調症」「解離性障害」はては「人格障害」の原因となる。

ではその「二次障害」の原因はどこにあるのか?

それは「子供」にあるのか?

否。「なんでこの子は、、、」と悩んでしまう親にあるのだと思う。

その親がなぜ「悩む」のか?なぜ子供の多動が「気になって気になって仕方ない」のか?

それは「自分がよい親として認められたいから」だろう。

一体「誰」に認められたいのか?

それが「システム」なのだ。

親が欲しているのは「子供の健全な成長」ではなく、むしろその成長をネタにした「親自身の社会的認証」である。

だから、子供の「多動」のせいでその認証を疎外されそうな親が、「病院」という「権威」に連れて行くことで「この子は自閉症スペクトラムです」という「お墨付き」をもらい、「私のせいではない」と「安堵したい」と思っている。

つまり

「この子が多動なのは『親のせい』ではなく『病気のせい』なのだ」
「この子が出来が悪いのは『親のせい』ではなく『脳機能障害』なのだ」

と思うことで「自分という原因」から目をそらし、それを「子供」へ押し付けて、日々自分を苛む子育ての苦痛を取り除く。

自分は「正しい」と証明して「早く楽に」なりたいから病院に駆け込むのだ。

ここにはぐちゃぐちゃに入り組んだ資本主義システムと人間心理の「倒錯した欲望」の依存関係がある。

ずっと子供は「動きまくっていた」し、そんなもの「元気だなー」で片付けられて来た。

動き回る子供は周囲の大人や兄妹のやっていることを「見よう見まね」で模倣して「だんだん自分一人でできるように」なった。

そういう親密なコミュニティー環境に欠けた「核家族的密室」で「精神の病」を真っ先にわずらうのは、「子育ての責任」を一手に引き受けてきた「母親」だろう。

それはかつては差別的に「ヒステリー」、今ならさしずめ「育児ノイローゼ」と呼ばれ、日本に限らず「近代国家」の中で必然的に生じてきた「ひずみ」である。

その「ゆがみ」が子供にも「しつけ」を通じて受け継がれる。

ずっと放ったらかしにされてきたその「ゆがみ」を、今度は「精神科のお医者さん」が矯正してあげましょうと忍び寄って来て、金づるにしようとする。

薬漬けにして儲ける現代医療が心にも施され、現代人は「家族という牢獄」から順次「社会という監獄」に収監される。

日本だろうが欧米だろうが関係ない。

近代と資本主義は「人間を畜群にするため」に、その最小単位の洗脳装置として「家族という神話」をでっち上げた来たのだ。

ここでゴードン先生の言葉を思い出してみよう。

「間違っているのはいつだって親であり、子供は常に正しい」

そうではないか?

「何をバカな、、、」とこの命題に強烈な違和感を覚える親は、一度「自分の心の病」について考えた方がいいだろう。






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